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第一部 水の精霊王
第一話 一粒の真珠
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六月。
まだまだ梅雨前線、停滞中。
始業前の喧騒の中、高橋泉はいつものように教室に入っていった。
自分の机にかばんを置き、顔を上げると無意識に視線は右斜め前の席へと向く。
まだ荷物はない。
もしかすると、また中庭でお楽しみの真っ最中かも知れない。
泉は、ひとり楽しそうに雨に濡れているだろう少年の姿を思い浮かべ、顔をほころばせた。
「おはよう、泉っち、何をニヤニヤしてるのかなぁ?」
様子を見に行こうかと腰を上げた途端、背後から長井沙紀が抱きついてきた。
「さ……沙紀ちゃんっ……おはよう。べ、別にニヤニヤなんて……」
してないもん、と続けるつもりが、沙紀の揶揄するような視線に負けて口ごもってしまった。
沙紀は泉の数少ない、親しく話せる大事な友人である。
いつでも明るく姉御肌の沙紀は、クラスメートの中でも人気者で、赤面症で人見知りの激しい泉はとても羨ましく思っている。
まったく正反対の性格をしているが、沙紀とは幼稚園の頃からの付き合いで、幼なじみの関係だ。
「ふふん。分かってるよん。清水っちのこと考えてたんでしょ」
真っ赤になっている泉に小声で沙紀はからかう。
清水淳と付き合い始めたのはつい最近のことで、そのことを知っているのはクラスの中では多分、沙紀一人だけのはずだ。
幼なじみで親友とも思っている沙紀にはと、泉から打ち明けた。
沙紀はとても喜んでくれて応援すると言ってくれた。 泉にはそれが嬉しかったし、心強くもあった。気恥ずかしいのももちろんあったけれども。
「明日は誕生日だもんね、彼。あー、そういえば、あんたたち誕生日近いじゃん?」
「え、ホント?」
「彼の誕生日は確か二十四日だったはずだよ。あんたは二十七日でしょ」
「そうなんだ、知らなかった」
泉のつぶやきに沙紀は苦笑する。
恋する乙女は、好きな相手の誕生日ぐらい知っていて当然だといわんばかりである。
確かにそうかもしれないが、経緯が経緯なだけに、彼のパーソナルデータはほとんどといって知らないことに改めて気がついた。
昔のことはよく知っているが、そうは言っても、その事情を沙紀に話すわけにもいかない。
昔、淳は水界の精霊王で、自分はその妃だったと言ったところで、一笑されるのが関の山。
信じてもらえるはずがないのだ。この世界では、精霊の認識は皆無だ。
「お祝いしなきゃねー」
「うん」
「うーん、いいねぇ。かわいいねぇ、この子はっ」
「……沙紀ちゃん、私をからかって楽しんでるでしょ?」
「んー、ごめんね、分かる?」
おどけるように笑って、沙紀は泉を抱きしめていた腕を解いた。
「ほら、カレシが来たよ」
「んも~」
視線を向けると、清水淳が教室内に入ってきた。しっとりと髪が濡れているところをみると、やはり想像したとおりだったらしい。ちゃんと着替えてきているのだが、なんともいえない色気があって、知らず知らずに見とれてしまった。
「おはよー、清水っち。今日も麗しいね」
淳は目をしばたつかせ、沙紀と泉を交互に見比べた。
「おはよう。仲がいいね」
「ふふん、ヤキモチかい、清水っち?」
淳は面白そうに沙紀を見、にっこりと笑って見せた。
「……そうかも」
「あはは。お兄さんも言うねぇ。邪魔者は退散するよ、じゃあねー」
朝っぱらからこの人は何を言ってるのだろう。淳の爆弾発言に、泉は机に突っ伏してしまった。
きっと顔は真っ赤になっているだろう。 俯いたまま、泉は顔を上げずにいると、様子を伺うように、淳が顔を覗き込んできた。
「おはよう、泉」
「お、おはよう」
淳がふわりと笑った。
いつもの穏やかな優しい笑み。この笑顔を見るだけで、胸がドキドキしてしまう。
懐かしくて、切なくて涙がでそうになる。覚醒時よりは落ち着いてきたはずなのに、なかなかおさまらない。
こんな風になるのは自分だけなのかも、とつい不安になってしまう。
淳はどうなのだろうかと背中を眺めてみる。淡々と授業の準備をしている横顔はいつもと同じで落ち着いている。
なんだか少し憎らしく思えた。
昔からそうだったが、彼はいつも大人で、とても同い年とは思えなかった。年齢よりも大人びていて、優しくて、穏やかだった。
彼には使命がある。水界の王としての責務が彼を否応なしに大人にさせる。
それは今、この時代も変わらずに、彼の中に在る。
だからだろうか。魂の奥底に根付いているどうしようもない寂しさも思い出してしまうのだ。
泉は淳の背中を見つめながらそっと息を吐いた。マイナス思考に陥ってしまいそうになる。
ゆっくり首を振ってその思考を無理やり追い出した。
アイシャは、待っているだけだった。ただ無事を祈り、泣きながらも、待っているだけだった。
こんな風に彼の背中を見て、泣いているだけ。
「でも、私は違う。違うわ―――」
今度は彼の隣に立って、一緒に歩いていきたい。
それは誰にも聞こえない小さな声。だが確かに意思を込めた言葉だった。
選択授業で移動教室から戻る道すがら、ふいに肩をたたかれた。
驚いて顔を上げると、沙紀がいつもの明るい笑顔でこちらを覗き込んでいた。淳もそうだが、泉がすぐ俯いてしまうので、覗き込まざるを得なくなるのだ。情けないとは思いつつもすぐには直せないのが悔しい。
もっと自信を持って堂々と出来ればいいのに。
だから、ダメなのだ。いつも同じところで立ち止まってしまう。
「どうしたの、泉っち。ぼんやりして」
「あ、うん……ちょっとね」
「考え事でもしてた?」
「……うん」
授業中、ずっとそのことに捕らわれてしまって、全然授業に身が入らなかった。
強くなりたい。
彼の力になりたい。
でも何をしたらいいのか分からない。
何ができるのかも分からなかった。
今日も淳は中庭で雨に濡れていた。
雨の力を借りて、呼びかけているのだ。
―――思い出して。
―――戻ってきて。
その思いを受け止めて、泉は覚醒した。
彼はまだ雨の中で、祈っている。
誰に呼びかけているのか?
何を取り戻そうとしているのか?
水神の名を持つあの人の望みはいったいなんなのか?
分からない。
だから知りたいと思う。
彼を想って泣いているだけなんて嫌だ。
雨が降る。
音もなく、静かな空間に。
ただひとり、水の精霊王だけがその静謐な空間を支配する。
「ぼくたちをこの世界に転生させたのは命の乙女その人であるはず……」
だから……。
「他の精霊王たちもきっと蘇っているはず……」
それが意味するところは……。
「まだ戦いは終わっていない」
突きつけられる現実。
忘れてはいけない。
彼が、精霊王であること。
己がその妻であったこと。
忘れない。
今は彼を助けるためにいるということ。
重い使命を背負っている彼を助けて、力になるために、自分はいったい何ができるだろう。
「何をしてあげればいいのかな……」
思いの淵に沈んでいた泉は、ふいに言葉に出していたことに気がつかなかった。
隣を歩いていた沙紀がびっくりして立ち止まるまで。
怪訝そうに立ち止まって振り返ると、今にも笑い出しそうな、でもびっくりして言葉も出ないような、奇妙な顔した沙紀がいた。
「沙紀ちゃん?」
呼びかけた瞬間、はじけたように沙紀は笑い出し、泉に抱きついてきた。
「ちょ、ちょっと……沙紀ちゃん?」
「やだわ、やられたわ! あんた、ホントに……かわいいったら!」
沙紀は教科書で泉の背中を叩きながら、笑い続ける。
「沙紀ちゃんてばっ」
「あー、ごめん、ごめん。そうかぁ、うんうん。そうだよね」
なにがそうなのか、沙紀は一人で納得している。
「清水っちのことだよね」
「……うん」
おそらくは沙紀の考えていることと泉が考えていることとは天と地ほどもかけ離れているだろう。ただの高橋泉なら、沙紀の思っていることだけ考えていればよかったかも知れない。彼の誕生日に何をプレゼントしたらいいか考えるだけでわくわくするし、幸せになれる。
普通の恋人同士のように。
他愛もない、でも一番の悩みだったかもしれない。
でもそれだけではダメなのだ。自分が誰なのか分かっているから。
だが、沙紀の次の言葉に泉ははっとして顔を上げた。
「難しく考える必要なんてないよ」
沙紀は嬉しそうに笑う。
「あんたがさ、してあげたいって思うこと、してあげればいいよ。自分のできることでさ、あんたじゃなきゃ絶対出来ないことってあるでしょ」
泉の頭に手を伸ばして、とても優しい目で小さい子をあやす様に撫でる。
これは沙紀流の愛情表現。
「あー、でも安心した。あんたさ、昔っから自分から意思表示するの苦手だったじゃん。だからちょっと心配してたんだよね。でも大丈夫そうだね」
「沙紀ちゃん……」
「その気持ちを伝えるだけでも大喜びすると思うよ。勇気出して、がんばってみなよ」
「そう……かな?」
ありのままの気持ちを口にすることがどれだけ大変なことか分かっているけれど、そう言わずにはいられなかった。何かもっと、彼にとって直接、力になれることの方が良いと思うのに。
表情に出たのか、沙紀は泉を宥めるように肩を叩いた。
「大丈夫。無理に何かしようと気負った泉っちの姿なんて見たくないと思うよ。あんたの良さが分かってるやつなら、絶対、そう思うって」
がつんと頭を殴られたような、いきなり頭の中がクリアになったような、そんな気がした。
「私、気負ってた?」
途端に沙紀の顔が疲れたようにげんなりする。
「気付いてなかったの? あんた授業中ずっと顔が強張ってたわよ。悲壮感たっぷりって感じで」
淳と同じ選択教科じゃなくって良かったと本気で思った。同じだったらきっと心配させてしまったはずだから。
「あっ」
沙紀の視線が肩越しに飛んだ。
「噂をすればなんとやら……」
面白そうにそう言って、沙紀は笑った。
振り返ると淳が同じように他の移動教室から戻ってきたところだった。
淳は泉と沙紀を見比べ、思案げにため息をついた。
「もしかすると、長井は僕のライバルだったりするのかな?」
「今頃気付いたのかい、お兄さん。私と泉っちは幼稚園のころからの長い付き合いだからね。とってもらぶらぶなのよ」
「……それは困ったな」
少しも困ってないような口調で淳は言う。沙紀との軽口を楽しんでいるようにも見える。
「僕もとっておきの切り札を出したいところなんだけど……でも、とっておきすぎるから出さないでおこうかな」
はじめてみる、いたずらっ子のような笑みだった。それを余裕の笑みと取った沙紀が悲鳴のような声を上げる。
「あー、もうなんなのよ、その余裕な笑みはっ。むかつくわ、この男」
どうしようもなくなって、泉はぷっと吹き出してしまった。幼稚園からの付き合いである幼なじみよりもさらにとっておきの切り札は確かにある。
ただ口にはできないけれど。
大切な、何よりも大切な絆だ。
笑い出した泉をみて、穏やかに淳は沙紀に言う。
「もしかして、ありがとうというべきなのかな?」
「そうね、感謝して欲しいわね、お兄さん」
二人の言葉にはっとした。
これは二人がわざとやってくれたのだ。
それに気がついて、泉は申し訳なくなってしまった。
「ほら、俯かないでがんばれ」
背中を軽く叩かれ、泉は顔を上げる。沙紀が投げてよこしたウィンクに笑顔で頷く。
気負わず、自分が出来ることをする。
この人のために自分は何ができるだろう?
まっすぐに淳の瞳を見つめて、泉は言った。
「明日の朝、屋上に来てくれる?」
淳は少し首をかしげて、笑って頷いた。
二十四日の朝は、快晴だった。
長い梅雨場の中で、この晴れ間は珍しいくらいだ。まだ少し水気を含んだ涼やかな風が泉の髪をもてあそびながら、気ままに吹きすぎていく。
泉はフェンスに寄りかかりながら、グラウンドを眺めていた。
まだ早朝だが、何か大会でもあるのだろうか。昨日までの雨でグラウンドはかなりぬかるんでいるだろうに一生懸命、走りこんでいる何人かの姿が見える。
「泉、おはよう」
ふいに背後から声をかけられても、驚かなかった。たぶんそろそろ来る頃だと、なんとなく予感していたからだ。
風にあおられて乱れた髪を撫で付けながら、泉は淳と向き合った。
「おはよう」
懐かしさと、切なさと、くるおしいほどの愛しさが溢れてくる。
その想いが涙へと変わる。
「泉!?」
何事かと慌てる淳に微笑んで、泉はこぼれて真珠へと変わった涙を両手で包み込むように受け止めた。
手の中には一粒の真珠。真珠姫だけが作り出すことが出来る奇跡のしずくが輝いている。
「私ね、ずっと考えていたの。どうしたらあなたの力になれるのかなって……」
「泉、それは……」
「待ってるのは嫌なの。だから一緒に歩いて行きたいの。あなたが戦っているものと、私も一緒に戦いたいの。あのときは出来なかった。私たちには水界があったから。水界を守らなくちゃいけなかったから。離れなくちゃならなかった」
あの美しいアクアマリンの世界を思い出すと涙が出てくる。だが今は泣いている時ではない。
「でも今は、違う。私たちが守るべき水界はもう失われてしまったわ。だけど、この世界に生まれ変わることが出来て、あなたと巡り合えて、もう、私たちが離れている理由なんて何もないはずよ。だから、ずっと一緒にいたいの。一緒に戦いたい。……どうしたらあなたの力になれるのか、考えていたの。何かしたくて。でも……私が出来るのはこれぐらいしかないの」
思いを涙に。
涙を真珠に。
そして、それは守りの力になる。
真珠姫だけが持ちえる力。
信じよう、自分の力を。
「受け取って、私の気持ち」
差し出した両手から、真珠が零れ落ちる。
それは淳の手の平に納まった。
「あなたが好きよ、大好き」
驚いたように顔を上げて、淳はしばらく目をしばたつかせた。そして、破顔する。
「信じられないな、最高だよ」
嘆息と共に、抱きしめられた。
「嬉しいよ、泉……こんなに心強い援軍はないよ」
たった一粒の真珠に宿る、祈りのチカラ。
「君ともう一度出会えただけでも、幸せだと思っていたのに……」
淳の声が震えて霞む。
「側にいてくれるだけで何にも勝る力になるんだよ……それだけで、戦えるよ、僕は」
嗚咽交じりに聞こえてきた微かな声が紡ぐ言葉が、泉はとても嬉しかった。
思いを涙に。
涙を真珠に。
それが愛する人を守る力になる。
たった一つの、自分だけのやり方。
第一話、終。
まだまだ梅雨前線、停滞中。
始業前の喧騒の中、高橋泉はいつものように教室に入っていった。
自分の机にかばんを置き、顔を上げると無意識に視線は右斜め前の席へと向く。
まだ荷物はない。
もしかすると、また中庭でお楽しみの真っ最中かも知れない。
泉は、ひとり楽しそうに雨に濡れているだろう少年の姿を思い浮かべ、顔をほころばせた。
「おはよう、泉っち、何をニヤニヤしてるのかなぁ?」
様子を見に行こうかと腰を上げた途端、背後から長井沙紀が抱きついてきた。
「さ……沙紀ちゃんっ……おはよう。べ、別にニヤニヤなんて……」
してないもん、と続けるつもりが、沙紀の揶揄するような視線に負けて口ごもってしまった。
沙紀は泉の数少ない、親しく話せる大事な友人である。
いつでも明るく姉御肌の沙紀は、クラスメートの中でも人気者で、赤面症で人見知りの激しい泉はとても羨ましく思っている。
まったく正反対の性格をしているが、沙紀とは幼稚園の頃からの付き合いで、幼なじみの関係だ。
「ふふん。分かってるよん。清水っちのこと考えてたんでしょ」
真っ赤になっている泉に小声で沙紀はからかう。
清水淳と付き合い始めたのはつい最近のことで、そのことを知っているのはクラスの中では多分、沙紀一人だけのはずだ。
幼なじみで親友とも思っている沙紀にはと、泉から打ち明けた。
沙紀はとても喜んでくれて応援すると言ってくれた。 泉にはそれが嬉しかったし、心強くもあった。気恥ずかしいのももちろんあったけれども。
「明日は誕生日だもんね、彼。あー、そういえば、あんたたち誕生日近いじゃん?」
「え、ホント?」
「彼の誕生日は確か二十四日だったはずだよ。あんたは二十七日でしょ」
「そうなんだ、知らなかった」
泉のつぶやきに沙紀は苦笑する。
恋する乙女は、好きな相手の誕生日ぐらい知っていて当然だといわんばかりである。
確かにそうかもしれないが、経緯が経緯なだけに、彼のパーソナルデータはほとんどといって知らないことに改めて気がついた。
昔のことはよく知っているが、そうは言っても、その事情を沙紀に話すわけにもいかない。
昔、淳は水界の精霊王で、自分はその妃だったと言ったところで、一笑されるのが関の山。
信じてもらえるはずがないのだ。この世界では、精霊の認識は皆無だ。
「お祝いしなきゃねー」
「うん」
「うーん、いいねぇ。かわいいねぇ、この子はっ」
「……沙紀ちゃん、私をからかって楽しんでるでしょ?」
「んー、ごめんね、分かる?」
おどけるように笑って、沙紀は泉を抱きしめていた腕を解いた。
「ほら、カレシが来たよ」
「んも~」
視線を向けると、清水淳が教室内に入ってきた。しっとりと髪が濡れているところをみると、やはり想像したとおりだったらしい。ちゃんと着替えてきているのだが、なんともいえない色気があって、知らず知らずに見とれてしまった。
「おはよー、清水っち。今日も麗しいね」
淳は目をしばたつかせ、沙紀と泉を交互に見比べた。
「おはよう。仲がいいね」
「ふふん、ヤキモチかい、清水っち?」
淳は面白そうに沙紀を見、にっこりと笑って見せた。
「……そうかも」
「あはは。お兄さんも言うねぇ。邪魔者は退散するよ、じゃあねー」
朝っぱらからこの人は何を言ってるのだろう。淳の爆弾発言に、泉は机に突っ伏してしまった。
きっと顔は真っ赤になっているだろう。 俯いたまま、泉は顔を上げずにいると、様子を伺うように、淳が顔を覗き込んできた。
「おはよう、泉」
「お、おはよう」
淳がふわりと笑った。
いつもの穏やかな優しい笑み。この笑顔を見るだけで、胸がドキドキしてしまう。
懐かしくて、切なくて涙がでそうになる。覚醒時よりは落ち着いてきたはずなのに、なかなかおさまらない。
こんな風になるのは自分だけなのかも、とつい不安になってしまう。
淳はどうなのだろうかと背中を眺めてみる。淡々と授業の準備をしている横顔はいつもと同じで落ち着いている。
なんだか少し憎らしく思えた。
昔からそうだったが、彼はいつも大人で、とても同い年とは思えなかった。年齢よりも大人びていて、優しくて、穏やかだった。
彼には使命がある。水界の王としての責務が彼を否応なしに大人にさせる。
それは今、この時代も変わらずに、彼の中に在る。
だからだろうか。魂の奥底に根付いているどうしようもない寂しさも思い出してしまうのだ。
泉は淳の背中を見つめながらそっと息を吐いた。マイナス思考に陥ってしまいそうになる。
ゆっくり首を振ってその思考を無理やり追い出した。
アイシャは、待っているだけだった。ただ無事を祈り、泣きながらも、待っているだけだった。
こんな風に彼の背中を見て、泣いているだけ。
「でも、私は違う。違うわ―――」
今度は彼の隣に立って、一緒に歩いていきたい。
それは誰にも聞こえない小さな声。だが確かに意思を込めた言葉だった。
選択授業で移動教室から戻る道すがら、ふいに肩をたたかれた。
驚いて顔を上げると、沙紀がいつもの明るい笑顔でこちらを覗き込んでいた。淳もそうだが、泉がすぐ俯いてしまうので、覗き込まざるを得なくなるのだ。情けないとは思いつつもすぐには直せないのが悔しい。
もっと自信を持って堂々と出来ればいいのに。
だから、ダメなのだ。いつも同じところで立ち止まってしまう。
「どうしたの、泉っち。ぼんやりして」
「あ、うん……ちょっとね」
「考え事でもしてた?」
「……うん」
授業中、ずっとそのことに捕らわれてしまって、全然授業に身が入らなかった。
強くなりたい。
彼の力になりたい。
でも何をしたらいいのか分からない。
何ができるのかも分からなかった。
今日も淳は中庭で雨に濡れていた。
雨の力を借りて、呼びかけているのだ。
―――思い出して。
―――戻ってきて。
その思いを受け止めて、泉は覚醒した。
彼はまだ雨の中で、祈っている。
誰に呼びかけているのか?
何を取り戻そうとしているのか?
水神の名を持つあの人の望みはいったいなんなのか?
分からない。
だから知りたいと思う。
彼を想って泣いているだけなんて嫌だ。
雨が降る。
音もなく、静かな空間に。
ただひとり、水の精霊王だけがその静謐な空間を支配する。
「ぼくたちをこの世界に転生させたのは命の乙女その人であるはず……」
だから……。
「他の精霊王たちもきっと蘇っているはず……」
それが意味するところは……。
「まだ戦いは終わっていない」
突きつけられる現実。
忘れてはいけない。
彼が、精霊王であること。
己がその妻であったこと。
忘れない。
今は彼を助けるためにいるということ。
重い使命を背負っている彼を助けて、力になるために、自分はいったい何ができるだろう。
「何をしてあげればいいのかな……」
思いの淵に沈んでいた泉は、ふいに言葉に出していたことに気がつかなかった。
隣を歩いていた沙紀がびっくりして立ち止まるまで。
怪訝そうに立ち止まって振り返ると、今にも笑い出しそうな、でもびっくりして言葉も出ないような、奇妙な顔した沙紀がいた。
「沙紀ちゃん?」
呼びかけた瞬間、はじけたように沙紀は笑い出し、泉に抱きついてきた。
「ちょ、ちょっと……沙紀ちゃん?」
「やだわ、やられたわ! あんた、ホントに……かわいいったら!」
沙紀は教科書で泉の背中を叩きながら、笑い続ける。
「沙紀ちゃんてばっ」
「あー、ごめん、ごめん。そうかぁ、うんうん。そうだよね」
なにがそうなのか、沙紀は一人で納得している。
「清水っちのことだよね」
「……うん」
おそらくは沙紀の考えていることと泉が考えていることとは天と地ほどもかけ離れているだろう。ただの高橋泉なら、沙紀の思っていることだけ考えていればよかったかも知れない。彼の誕生日に何をプレゼントしたらいいか考えるだけでわくわくするし、幸せになれる。
普通の恋人同士のように。
他愛もない、でも一番の悩みだったかもしれない。
でもそれだけではダメなのだ。自分が誰なのか分かっているから。
だが、沙紀の次の言葉に泉ははっとして顔を上げた。
「難しく考える必要なんてないよ」
沙紀は嬉しそうに笑う。
「あんたがさ、してあげたいって思うこと、してあげればいいよ。自分のできることでさ、あんたじゃなきゃ絶対出来ないことってあるでしょ」
泉の頭に手を伸ばして、とても優しい目で小さい子をあやす様に撫でる。
これは沙紀流の愛情表現。
「あー、でも安心した。あんたさ、昔っから自分から意思表示するの苦手だったじゃん。だからちょっと心配してたんだよね。でも大丈夫そうだね」
「沙紀ちゃん……」
「その気持ちを伝えるだけでも大喜びすると思うよ。勇気出して、がんばってみなよ」
「そう……かな?」
ありのままの気持ちを口にすることがどれだけ大変なことか分かっているけれど、そう言わずにはいられなかった。何かもっと、彼にとって直接、力になれることの方が良いと思うのに。
表情に出たのか、沙紀は泉を宥めるように肩を叩いた。
「大丈夫。無理に何かしようと気負った泉っちの姿なんて見たくないと思うよ。あんたの良さが分かってるやつなら、絶対、そう思うって」
がつんと頭を殴られたような、いきなり頭の中がクリアになったような、そんな気がした。
「私、気負ってた?」
途端に沙紀の顔が疲れたようにげんなりする。
「気付いてなかったの? あんた授業中ずっと顔が強張ってたわよ。悲壮感たっぷりって感じで」
淳と同じ選択教科じゃなくって良かったと本気で思った。同じだったらきっと心配させてしまったはずだから。
「あっ」
沙紀の視線が肩越しに飛んだ。
「噂をすればなんとやら……」
面白そうにそう言って、沙紀は笑った。
振り返ると淳が同じように他の移動教室から戻ってきたところだった。
淳は泉と沙紀を見比べ、思案げにため息をついた。
「もしかすると、長井は僕のライバルだったりするのかな?」
「今頃気付いたのかい、お兄さん。私と泉っちは幼稚園のころからの長い付き合いだからね。とってもらぶらぶなのよ」
「……それは困ったな」
少しも困ってないような口調で淳は言う。沙紀との軽口を楽しんでいるようにも見える。
「僕もとっておきの切り札を出したいところなんだけど……でも、とっておきすぎるから出さないでおこうかな」
はじめてみる、いたずらっ子のような笑みだった。それを余裕の笑みと取った沙紀が悲鳴のような声を上げる。
「あー、もうなんなのよ、その余裕な笑みはっ。むかつくわ、この男」
どうしようもなくなって、泉はぷっと吹き出してしまった。幼稚園からの付き合いである幼なじみよりもさらにとっておきの切り札は確かにある。
ただ口にはできないけれど。
大切な、何よりも大切な絆だ。
笑い出した泉をみて、穏やかに淳は沙紀に言う。
「もしかして、ありがとうというべきなのかな?」
「そうね、感謝して欲しいわね、お兄さん」
二人の言葉にはっとした。
これは二人がわざとやってくれたのだ。
それに気がついて、泉は申し訳なくなってしまった。
「ほら、俯かないでがんばれ」
背中を軽く叩かれ、泉は顔を上げる。沙紀が投げてよこしたウィンクに笑顔で頷く。
気負わず、自分が出来ることをする。
この人のために自分は何ができるだろう?
まっすぐに淳の瞳を見つめて、泉は言った。
「明日の朝、屋上に来てくれる?」
淳は少し首をかしげて、笑って頷いた。
二十四日の朝は、快晴だった。
長い梅雨場の中で、この晴れ間は珍しいくらいだ。まだ少し水気を含んだ涼やかな風が泉の髪をもてあそびながら、気ままに吹きすぎていく。
泉はフェンスに寄りかかりながら、グラウンドを眺めていた。
まだ早朝だが、何か大会でもあるのだろうか。昨日までの雨でグラウンドはかなりぬかるんでいるだろうに一生懸命、走りこんでいる何人かの姿が見える。
「泉、おはよう」
ふいに背後から声をかけられても、驚かなかった。たぶんそろそろ来る頃だと、なんとなく予感していたからだ。
風にあおられて乱れた髪を撫で付けながら、泉は淳と向き合った。
「おはよう」
懐かしさと、切なさと、くるおしいほどの愛しさが溢れてくる。
その想いが涙へと変わる。
「泉!?」
何事かと慌てる淳に微笑んで、泉はこぼれて真珠へと変わった涙を両手で包み込むように受け止めた。
手の中には一粒の真珠。真珠姫だけが作り出すことが出来る奇跡のしずくが輝いている。
「私ね、ずっと考えていたの。どうしたらあなたの力になれるのかなって……」
「泉、それは……」
「待ってるのは嫌なの。だから一緒に歩いて行きたいの。あなたが戦っているものと、私も一緒に戦いたいの。あのときは出来なかった。私たちには水界があったから。水界を守らなくちゃいけなかったから。離れなくちゃならなかった」
あの美しいアクアマリンの世界を思い出すと涙が出てくる。だが今は泣いている時ではない。
「でも今は、違う。私たちが守るべき水界はもう失われてしまったわ。だけど、この世界に生まれ変わることが出来て、あなたと巡り合えて、もう、私たちが離れている理由なんて何もないはずよ。だから、ずっと一緒にいたいの。一緒に戦いたい。……どうしたらあなたの力になれるのか、考えていたの。何かしたくて。でも……私が出来るのはこれぐらいしかないの」
思いを涙に。
涙を真珠に。
そして、それは守りの力になる。
真珠姫だけが持ちえる力。
信じよう、自分の力を。
「受け取って、私の気持ち」
差し出した両手から、真珠が零れ落ちる。
それは淳の手の平に納まった。
「あなたが好きよ、大好き」
驚いたように顔を上げて、淳はしばらく目をしばたつかせた。そして、破顔する。
「信じられないな、最高だよ」
嘆息と共に、抱きしめられた。
「嬉しいよ、泉……こんなに心強い援軍はないよ」
たった一粒の真珠に宿る、祈りのチカラ。
「君ともう一度出会えただけでも、幸せだと思っていたのに……」
淳の声が震えて霞む。
「側にいてくれるだけで何にも勝る力になるんだよ……それだけで、戦えるよ、僕は」
嗚咽交じりに聞こえてきた微かな声が紡ぐ言葉が、泉はとても嬉しかった。
思いを涙に。
涙を真珠に。
それが愛する人を守る力になる。
たった一つの、自分だけのやり方。
第一話、終。
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面倒ごとは御免なんだが。
魔力量“だけ”チートな主人公が、店を手伝いながら、学校で学びながら、冒険もしながら、領主の息子をからかいつつ(オイ)、のんびり(できたらいいな)ライフを満喫するお話。
誤字脱字の訂正、感想、などなど、お待ちしております。
やんわり決まってるけど、大体行き当たりばったりです。
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