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音路町アロマージュ

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 その店がオープンしたのは、東京で桜の開花宣言がなされた翌日、俺たちが住んでいる郊外の街、音路町を流れる音路川の桜が灯りに照らされながらひらひらと花弁を落としているのがよく見える4月の頭。
 飲み屋街の脇にあるその川沿いにはテラスでビールやらハイボールやらを傾けながら夜桜を鑑賞する客で溢れている。シートを広げてやる花見も良いが、こっちはクリーンだ。ごみの不法投棄もない。
 小ぢんまりとしたその店の入り口には、チョークで【open】の文字が描かれている。中には芳醇なコーヒーの香りが漂い、店主の趣味であろうアシッドジャズやシティポップが流れている。新米の店主は柔らかな笑顔を浮かべながら小さく頭を下げ、よく通る声でいらっしゃいませと言った。そのカフェエプロンと白シャツの中には…鋼のような筋肉がついている。

「アマさん、待ってましたよ」

 俺、天河燎はこの音路町で昔からやってる老舗の今川焼き屋【あまかわ】の店主だ。こういうお洒落なカフェはなかなか入ることはない。まぁ、親父である天河一番の友人であるマスターが営む喫茶店くらいだ。

「お洒落ぇ!さすが充さん、センスあるぅ!」
「ふふっ、ありがとう美音ちゃん」

 キャバクラでボーイをやっていたこの布袋洲充が働いていたキャバクラを退職したのは、2月のこと。既に開店資金を貯めに貯めていた充は、店舗になりそうな土地を押さえ、過去の一件で懇意になった東雲株式会社の社長と相談をしながら、長年の夢だったカフェをオープンしたのだ。
 カフェの名前は【PEARL】。真珠って名前を普通付けるか?と思ったが、真珠は彼の誕生石であり、カフェを開いたらこの名前にしようと決めていたのだという。

「それにしても、客入るのか?」
「お陰様で。うちは夜しかやっていませんし、お酒を抜きたい女性とか若い人らが殆どですがね」

 この店は夜しか開かない。昼間はこだわりの豆をローストするのに時間を使う。やはり夜が一番仕事がし易いのだというが、そこはキャバクラのボーイらしい。

「前の店の娘らとかも来るだろ?」
「えぇ、あ、そうだ。おぉい」

 充が店の奥にいる誰かを呼んだ。薄く化粧をした背の高い綺麗な女性がやって来た。何か以前会ったことがありそうな気がするが、よく分からない。

「新人の店員さんです」
「綺麗な人ね、あたいその人になんかどっかで会ったような……」
「ぅおぉい!充さんっ!」

 へべれけに酔っ払った音楽ユニット【甘納豆】のギター担当。志藤夜湾が入ってきた。後ろからは介抱するようにキーボード担当の角田彩羽。一応この店には来たことがあるのだろうか。

「ここに店を出したって言うじゃないですか。おれら、充さんのカフェに行こうっつったら、いきなり夜湾の奴、えみりちゃんに会いたいっていうからキャバクラに……」
「余計な事言いなや彩羽よ……わいの心はまさにボロボロにKOされてもうたロッキー•バルボアみたいに…」
「あははっ、うまい事言うね夜湾くん」
「関心しなさんなや充はん…なんでキャバクラ辞めてもうたんやろ……あんたはええよ?あんたは…」

 長身の女性は夜湾の隣に座って言った。

「夜湾く~ん!ありがとう!」
「へっ?へぇ!?」

 俺の頭の中の鍵は外れた。

「えみりちゃんやないかい!」
「あたり⭐︎」

 充は爽やかな笑顔で言った。

「新人のえみりちゃんだよ。客商売ならバッチリ。僕がスカウトしたんだよ」
「ぜんっぜん…気付かなかったよ」
「…そないなカッコしても、えみりちゃんは素敵や」
「ありがと!夜湾くん。何飲む?」
「シャンパンを…」
「ここ、カフェだっての!なぁ充」
「……実はありますよ」
「……」

 実はピンクのドンペリまであるらしいカフェ【PEARL】の開店祝いにやって来た俺たちに、充はコーヒーを淹れながら言う。

「表の花輪、見ました?」
「あぁ、見たよ。東雲株式会社に、クラブミューズに、某作家とか……」
「名前は伏せてくれって、綺々先生ですよ。バレバレなんですよ。あんないかつい…ねぇ」
「言えてる言えてる」
「兎に角、皆さんのお陰ですよ。オープンできたのは。ホントに、有難う御座います」

 お世辞抜きでいい香りだ。温度を見ながらじっくりネルで淹れるコーヒーは長年の夢だった充の研究の賜だろう。

「ホンマもんのカフェのマスターみたいや」
「カフェのマスターなんだってば。ねぇアマさん」
「だよなぁ。いまいち実感ないな」
「あたいも~、でも充さんならアリかな」
「あはは、有難うね」
「ちょっとハリさんだったらアレだけど……」

 きっとアトリエで新作を作っているであろう陶芸家のタマゴ、針生天峰はキティちゃんのちゃぶ台に着いてくしゃみをしているだろう。容易に想像できる。

「針生さん、そういえばカップを作ってくれるんですって。そろそろできるとかって言ってたような……」
「あ~ちくしょ、花粉かな。それとも誰かオレの噂でも……あ、皆?」

 鬼太郎ヘアの痩せた黒ずくめの天峰は、ポップな箱に何かを入れて持ってきた。箱はポップだが、それを包むビニール袋は若井鵲のコンビニの袋だ。

「オレからのプレゼントだ」
「ハリさんカッコええわぁ」
「おい、タダだとは言ってないぞ」
「うわ、だっさ……」
「当たり前だろ、オレの魂を込めた作品だぞ。まぁ、対価は……依頼なんだけどな」

 なるほど、捜し屋の仕事か。テーブルに人数分のコーヒーが並んだ時、徐に天峰は話し始めた。
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