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1巻

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 ◇ ◇ ◇


「――つまり、なんでこの家にたどり着いたのかは自分でもよくわからないけど、気付いたら全裸で乙女の布団の中にいたっていうこと?」

 玲奈の部屋を離れ、ここは同じ平屋の家の南側にあたる店舗カフェ部分。
 家主れなの尋問に、隣に座る赤目の男――どうやらあやかしらしい――はちっとも真面目に答えようとせず、カップ麺をすすり続けていた。

「ずるずる……ん、左様さよう。まあ酒に失敗はつきものだからな……ずぞぞぞぞ」

 ドリンクカウンターの丸椅子に玲奈と男が並んで座り、そのカウンターの内側には右鬼が、後方の客席側には左鬼が阿吽あうんの仁王像のごとき形相で立っている。
 警戒の色を隠さない双子に前後を挟まれピリピリとしたムードが漂う中、当の謎のあやかし本人だけが、のんきにカップ麺をがっついている。

「あのー、一度麺すするのやめてもらってもいいかな」
「ん? 我のことは気にせず話を続けろ……ずずず」
「こっちが気にするっつってんだよ!」
「まあまあ左鬼、落ち着いて」

 ほんの数十分前、禍々しい霊気で右鬼と左鬼を圧倒していたこの全裸のあやかし。
 玲奈に羽毛布団で巻きにされてからは恐ろしげな気配は引っこめたものの、今度はやれ食い物を寄越せ、酒はないのかなどと騒ぎ出すからたちが悪い。
 そのくせ衣服にはまったく頓着せずに全裸のままウロウロしだしたので、仕方なく故人である父のたんすにしまわれていた男物の着物を着せてやったところである。

「昨日納戸なんどでひっくり返ってた白蛇があなただったの? つまり、製菓用リキュールのストックを全部空にした犯人はあなただってことだよね?」
「聞こえんな……ぷはぁ」

 堂々ととぼけるあたり、どうやら図星らしい。
 昨夜この男が空けた酒瓶は十本近くに上る。金額にすればかなりの損害だ。
 しかし玲奈は目の前で豪快に麺をすする男の姿に「いい食べっぷりだなぁ」と妙に感心してしまい、もはや怒る気が削がれていた。
 右鬼と左鬼のひりつくような視線をまったく無視して、男は悠然とスープを飲み干しカップ麺を完食する。

「他に食い物はないのか? 次は甘いものがいい」

 玲奈の父の形見である藍地の小紋こもんを着流した男は、まるで我が城のように優雅な態度でカウンターに片肘をついた。
 艶のある黒髪、吊り上がった赤い瞳。だらしなく着崩した着物の胸元は磁器じきのように白く、妙な色気がある。
 黙っていれば絶世の美青年なのに、古風な口調とのギャップが玲奈にはどうにもユーモラスに映ってしまう。先ほどカップ麺にお湯を注いでやった時に「なんと奇天烈きてれつな……」と赤い目を丸くしていたのは、今思い返してもちょっとおかしい。
 寝起きに鉢合わせた時の変態扱いはどこへやら。
 彼があやかしだと知った途端、玲奈の警戒心は早々に緩んでしまっていた。
 玲奈が思い出し笑いを噛み殺していると、男は子供のように口を尖らせた。空のカップ麺をこつこつと叩いて、おかわりの催促を始める。それがまたおかしくて、玲奈はついに噴き出してしまった。

「お嬢、甘やかさなくていいぞ。だいたい、あやかしに食事は必要ねーんだよ。こいつの言ってることはただのわがままだ」

 あやかしは元が精神生命体であるため、食事をせずとも生きられる。
 左鬼の言い分はもっともなのだが、パティシエールである玲奈は「甘いものを食べたい」と言われたら叶えてやりたくてうずうずしてしまう。
 それにこの男、食いっぷりからして食事自体がかなり久々のようだ。ほんの少しの同情心もあった。

「玲奈さま、どこの馬の骨とも知れぬ者の道楽につきあう必要はありません」

 正面に立つ右鬼がぴしゃりと言い放つと、男はそれを鼻で笑った。

「ふっ。つまらぬ鬼どもだ。現世うつしよとはおしなべて無駄なもの、取るに足らぬものの集まりであろう。いる不要いらぬかだけで物事を判断するならば、この世のすべてが我にとっては無用の長物よ」

 男の尊大な言いぐさに、右鬼と左鬼の霊気がざわりと揺らぐ。周囲をぽやぽやと漂っていた低位あやかし達が一斉に逃げ出したので、玲奈はふたりを「まあまあ」となだめた。

「私はこのあやかしくんが言いたいこと、なんとなくわかるよ。だって、ただ生きるためだけに食べるならこの世にスイーツは必要なくなっちゃうもん」

 自分に言い聞かせるように、ぎゅっと胸の前で手を握る。

「でも、落ち込んでいる時に甘いものを食べたらちょっぴり元気になれるでしょ? 好きなひとと一緒にケーキを食べたら、それがしあわせな思い出になる。スイーツって、そういうものだと思うから」

 スイーツは腹を満たすためのものではない。心を満たすためのもの。それが玲奈のポリシーだ。
「ね?」と笑いかけると、双子の鬼は揃ってため息をついた。
 彼らは玲奈のスイーツにかけるひたむきさを好ましいと思っている。彼女の心根がまっすぐで、魂まで美しく澄んでいることも。
 それゆえ、ふたりは彼女のお願いごとには弱い。

「話のわかる芋だ」
「芋じゃないって言ってるでしょ!」

 すでにこの日何度目かわからない応酬を玲奈と男がくり広げていると、主の意向を汲んだ右鬼がキッチンの冷蔵庫から白い皿を取り出し戻ってきた。
 無言でカウンターの上に置かれたのは、一切れのチョコレートケーキ。
 早速男が手づかみで平らげようとすると、隣から玲奈の手が伸びて「ノン!」と皿ごと取り上げた。

「このケーキはあなたにあげる。でもその前に、あなたは私達に言うべきことがあるんじゃない?」
「……?」

 男は着物のたもとで腕を組んで、まじまじと玲奈を見た。

「礼が欲しいと? ……抱いてやろうか?」
「だっ、抱かれるわけないでしょ!」

 思わず丸椅子から尻が浮いてしまい、咳払いして座り直す。玲奈は男の目の前で人差し指を立てると、まるで犬をしつけるように言い聞かせる。

「勝手にお酒を飲んじゃって『ごめんなさい』、それから『いただきます』だよ」
「我にこうべを垂れよと言うのか?」
「ちゃんと言えない子にはおやつはあげませーん」
「ぐぬ……芋のごとき小娘が生意気な……」

 歯噛みした男の背後で突然、黒いもやが立ち上った。
 それは蛇のように長い影となって、小皿を持つ玲奈の右手に絡みつく。右鬼と左鬼がハッとして臨戦の構えを取ると――玲奈は少しもたじろぐことなく、平然と男の頭にチョップを食らわせた。

「ダメなものはダーメ!」

 するとまるで叱られた仔犬のように、しゅるると影が引っ込んでゆく。男はしばらく難しい顔をして玲奈を睨みつけていたが、ついに観念して瞑目めいもくした。

「……蔵の酒を勝手に呑んだのは我が落ち度よ。……許せ」
「いただきますは?」
「……イタダキマス……」

「よくできました」と玲奈が褒めると、男はなぜか得意げにフフンとふんぞり返る。
 その様子を、双子は複雑な心境で見ていた。

『左鬼、この自称白蛇のあやかしをどう思いますか?』
『どうもこうも、明らかにただ者じゃねえだろ。見た目は色男だが、相当力のあるあやかしなのは間違いない。……下手すれば俺達を凌ぐほどの』

 ふたりは言葉を用いず、互いの思念を直接伝えあう念話で密談していた。
 この赤目の男、飄々ひょうひょうとした老人のような言動と美しい容姿のギャップにだまされそうになるが、出会い頭の右鬼と左鬼をその眼力だけで圧倒したあやかしである。
 彼の真名まな――つまり正体が何者であるかもわからない以上、玲奈のように気安く接するのはリスクでしかないのだ。
 結果としてしつけに成功しているのは、芦屋道満の血筋が為せる技か。

「どうぞ、召し上がれ」

 双子の懸念をよそに、玲奈は満面の笑顔で小皿をカウンターに置き直す。先ほどはよく確かめもせず食べようとしたそれを、男は今度はじいっと見つめた。

「なんだこれは。土塊つちくれか?」
「失礼ね。ガトーショコラっていう食べ物だよ」

 男は手渡された銀のデザートフォークでガトーショコラをつついた。生クリームとミントの添えられた黒い塊。粉糖のまぶされた表面の焼き目が、ほろほろと崩れる。半信半疑で匂いを嗅ぎ、口に運ぶ。

「どう? おいしい?」

 自分の作ったものが誰かの口に入る瞬間は、うれしいと同時に緊張する。玲奈がおっかなびっくり問うと、一口目で男の手が止まった。

「甘いな……。胸焼けしそうなほど」
「そ、そんなに? 甘さ控えめなはずなんだけど……」
「この甘味、うぬが作ったのか?」

 いきなり美しい顔を近付けられて、玲奈はどきりとした。もしや口に合わなかったのかと不安がよぎりつつ、頷く。

「そうだよ。私はパティシエールで、スイーツを作るのが仕事なの」
「ふむ」

 その答えを聞くや否や、男は残りのガトーショコラにフォークを突き刺してばくんと一呑みにした。

「すべて寄越せ。今ここにある甘味、すべて」
「ええっ? ま、まあ、どうせ破棄予定だし……昨日の売れ残りならいいけど……」

 気に入ってくれたというなら悪い気はしない。
 玲奈は言われた通り、昨日の残り分をすべて出してやった。悲しいかな、昨日も来客はゼロに近かったので狭いカウンターがいっぱいになる。

「だ、大丈夫? こんなに食べてお腹痛くならない?」

 ガトーフレーズにミルフィーユ、タルトフリュイに栗かぼちゃのシブースト。
 玲奈の心配をよそに、男はすべてのケーキをあっという間に平らげてしまった。

「なるほど、これは甘露かんろ。――気に入った」

 最後に口の端についたクリームを舐め取ると、男はくるりと丸椅子を回転させて玲奈の正面を向く。その手で玲奈の顎を掴んで、強引に自分の方へ向かせた。

「喜べ芋娘。我はしばらく、この屋敷に食客しょっかくとして滞在することに決めた」

 男の妖しくも美しい赤い瞳には、きょとん顔の玲奈が映っている。
 このままふたつ返事で了承しかねない主の様子に、双子はあわてた。

「だめだお嬢、こいつはただのあやかしじゃない。だいたい食客しょっかくってなんだよ。ただの居候、ムダ飯喰らいってことじゃねーか!」
「玲奈さまに無体をはたらくような痴れ者を留め置くなど!」
「う、うん。でも……」

 玲奈はちらりと窓の外を見た。

「今放り出しても、行くところがないんじゃない? かわいそうだよ」

 すでに朝七時近いが相変わらず外は暗い。東京周辺は、数日前から今も強い雨が降り続いている。

「困っているあやかしは助けてあげるっていうのが、パパの信条だったから。私は陰陽師じゃないから、全部を救うことはできないけど――。でも、この屋敷を頼ってきたあやかしは見捨てられない」

 今から約千年前に活躍した、玲奈の祖先にして偉大なる陰陽師・芦屋道満。
 彼はかの有名な安倍晴明など、他の力ある陰陽師達が朝廷に召し抱えられ官位を得ていた平安の世で、在野の陰陽師として民草と共に生きる立場を貫いた。
 そして玲奈の父も、陰陽師として人々を助け、悪霊をはらい――時にはあやかし達をも救っていた。陰陽師にならなかった玲奈に陰陽道の知識はほとんどないが、情け深い性格は父譲りである。

「お嬢は一度決めるとほんっと頑固だからなあ……」
「昔から犬猫のようにあやかしを拾ってきますしね……」

 呆れた様子で目配せし合う右鬼と左鬼だったが、その表情にはどこか昔を懐かしむような喜色が混じっていた。こうなるともはや玲奈の決意を折ることは不可能と判断して、ふたりの視線は男の方へ移る。

「この屋敷に留まり玲奈さまの温情にすがると言うのなら、相応の至心ししんを見せろ。真名まなを明かせ」

 しかし男は懐手で腕を組むと、「はて」と首を傾けた。

真名まなか。……忘れたな」
「テメェ……!」

 白々しい答えに、怒りを抑えきれない左鬼が掴みかかろうとする。
 すると突然、男がその場から消えた。
 いや、一瞬消えたように見えただけで、昨夜納戸なんどでひっくり返っていたのと同じ体長五十センチほどの白蛇に変化していた。
 蛇は嘲笑あざわらうようにカフェカウンターの上を這うと、玲奈の腕伝いに身体をよじ上る。そのまま肩の辺りを一周して、ちろりと赤い舌を見せた。

『なれば芋女、うぬに特別に、我を好きな名で呼ぶことを許す』

 白蛇の姿のまま、霊力を用いて声を紡ぐ。
 右鬼と左鬼は信じられないものを見るような目つきで蛇を見た。

「名付けの権利を、玲奈さまに与えると?」
『そう言うておろうが』

 玲奈の顔の横で白い鎌首を持ち上げて蛇はうそぶく。双子はやはり、信じられないといった表情で互いに顔を見合わせた。
 あやかしにとって、名前には特別な意味がある。
 だが当の玲奈はその重大さをいまいちわかっていない。少しだけ考えるそぶりを見せて、すぐに両手を叩いた。

「じゃあ、白蛇だからシロ!」
『さすがにもう少しひねってくれ』

 一瞬で否定されて、玲奈も玲奈で「そっか。じゃあ考えとくね」と安請け合いする。双子は先行きに不安を拭えず、この日一番大きなため息をついた。

「よろしくね、名無しの白蛇さん。私は玲奈。ようこそカフェ9-Lettersナインレターズへ!」

 玲奈は笑顔で右手を差し出した。白蛇に握手を求めようとして、すぐに「あっ、手がないから無理か」と気付いて引っ込めようとする。
 すると、白蛇は再び人の姿を取った。玲奈が驚いて少し身を引くと、赤目の男は差し出された手を掴む。そのまま自分の顔の方へ引き寄せると、そっと口元に近付けた。目をつぶる男の湿った吐息が、玲奈の手の甲にかかる。
 それはまるで、西洋の騎士が貴婦人に誓いの口付けをするかのような光景だった。
 初心な玲奈は戸惑ったが、男はどうやら匂いを嗅いでいるらしい。スンスンと形のいい鼻が甲から腕へと柔肌をたどって、かと思うと急に玲奈の耳元に顔を寄せ、首筋をぺろりと舐め上げた。

「ぎゃあ⁉」

 思わず色気もへったくれもない悲鳴で飛び退くと、男はぞっとするほど美しい笑みで玲奈を見下ろす。

「実に甘露。――たのしくなりそうだ」

 真紅の瞳は獲物を捉えて、ゆらりと妖艶に輝いていた。


   一章 陰陽師と抹茶ガトーフロマージュ


 玲奈の記憶にある一番古い思い出は、三歳の誕生日だ。
 丸いバースデーケーキに映える真っ赤ないちご。上品な絞りのデコレーションの上にはカラフルなろうそくが三本立っている。
 ろうそくの小さな明かりが照らすのは玲奈が十二歳の時に亡くなった父親と、今とまったく変わらない右鬼と左鬼の顔だ。母親は生後すぐに死別しているので顔を知らない。
 彼女にとっての家族はこの三人と、屋敷に棲むあやかし達だった。

「玲奈、お誕生日おめでとう」

 父親が優しく笑った。右鬼と左鬼も笑っていた。
 玲奈の父は力ある陰陽師で、困っているひとのためならば全国どこへでも行く。
 子供心にしょうがないことだとわかっていたから「寂しい」と口に出したことはなかったけれど、こうやって笑顔で皆とテーブルを囲めるなら、毎日が誕生日になればいいのにと思った。
 玲奈のしあわせな記憶はいつもスイーツと結びついている。
 父親と遊園地でソフトクリームを食べたこと。ケンカをした後はいつもドーナツを買ってきてくれたこと。風邪の時に右鬼と左鬼が作ってくれるフルーツゼリーが優しい味で心と身体に染みたこと。
 だから玲奈はスイーツが好きだ。
 それこそが、「スイーツでみんなを笑顔にしたい」という夢の原点でもある。


 ◇ ◇ ◇


 正体不明の名無しのあやかしが芦屋家の屋敷に居着いて、何日目かの朝。
 時刻は午前九時五十五分。カフェの開店直前である。

「客席よし! 玄関よし! えーと立て看板は……」

 玄関ホールに立つ玲奈が元気に指差し確認をしている。すると何もないはずの虚空から、骨ばった赤い手がヌッと現れた。
 右手と左手、手首から先だけの一対の腕は木製の立て看板を掴んでいる。

「あっ。ありがとう!」

 玲奈が礼を言うと、右手はぐっと親指をサムズアップさせた。
 かつて玲奈の安眠を妨害したあやかし「枕返し」は、今は店の看板を管理するのが仕事だ。赤い手が玄関の引き戸をガラリと開け、ついでに戸の外側にかかっている「CLOSE」の札をひっくり返して「OPEN」に変える。そのまま雨の中を、看板を持って出て行った。
 いつも通り敷地の前に手製の木製看板が立てば、いよいよ開店である。

「さあ、カフェ9-Lettersナインレターズ今日も開店! 張り切っていくよー!」

 玲奈の明るいかけ声は、ざあざあ降りの雨にかき消された。
 玲奈の自宅であり、彼女が経営するカフェ9-Lettersナインレターズの店舗も兼ねるこの古民家は、東京都武蔵野市・吉祥寺の閑静な住宅街にひっそりと存在する。
 都心にほど近く、いわゆる高級住宅街と呼ばれる区域とも隣接しており周囲にはひときわ立派な門構えの邸宅が並ぶ。玲奈の家も敷地だけは負けないくらい広い。
 ――そして、とにかく古い。
 古きよき時代を感じさせる築八十年の入母屋造いりもやづくりの平屋は、玲奈が生まれるよりも以前、怪異現象が頻発する幽霊屋敷として半ば放置されていたものを、玲奈の両親が破格で手に入れたものだという。
 現在は耐震補強も済ませ、玲奈やこの屋敷に棲まう有形無形のあやかし達の手により立派な古民家に再生していた。


「はあ~今日も一日雨かぁ」

 午後三時。玲奈はキッチンの作業台に突っ伏してため息をついていた。

「一体いつまで続くんだろ。お客さん、来ないねぇ……」
「客が来んのは雨のせいなのか?」

 いつの間にか後ろに現れたのは、父の形見の着物姿がすっかり板についた黒髪赤眼のあやかしである。歯に衣着せぬ彼の問いに、玲奈は答えに窮した。

「痛いところを突くね……」

 実のところ、カフェ9-Lettersナインレターズは一年前のオープンからずっと閑古鳥かんこどりが鳴いている。連日の雨もあって、ちょうどピークタイムにもかかわらず店内に客の姿はない。

「我はかまわんぞ。客が来ないと、我の食う分が増えるのであろう?」

 客が来ない。つまり手をつけられず、廃棄されるケーキが増える。それはすべて、この自称食客しょっかくの偉そうな男の腹に収まっているのだ。

「ところで芋子いもこ、今日の甘味はいつ寄越すのだ?」

 もはや親しみすら感じる調子で玲奈を芋呼ばわりして、男は稼働中のオーブンを見た。ちょうど明日のためのジェノワーズスポンジケーキを焼いているので、キッチンには甘い香りが漂っている。

「あのねぇおじいちゃん。今日の分……というか、昨日の余りはさっき食べたでしょう? 他のものはまだ営業中だからダメ」
「つれないのう」

 まるでボケ老人のような扱いをされても、美貌の男はまったく動じない。それどころか突然、後ろから玲奈に体重をかけ覆い被さってきた。

「な、なに?」

 急に纏わりつかれて動揺する玲奈をよそに、じれったい動きで作業台に置かれていた彼女の手に自分の手を重ねた。パティシエ帽から覗く耳に唇を寄せて、フー、と熱い息を吹きかける。

うぬが菓子を捧げて乞うたなら、我とてその身を隅から隅まででてやるのもやぶさかではない……。極楽浄土を見たくはないか?」
「だっ、ダメなものはダメだから!」

 耳元でささやかれる声にぎょっとして、玲奈はあわてて身体を引き剥がす。
 色仕掛けが通じないとわかると、男は途端に口をへの字に曲げた。

「あーあーつまらぬのう。せいぜい身を粉にして働けよ。我はてれびを観るのに忙しいゆえ」

 すでに数日で屋敷に馴染みきったこの男は、気ままな居候生活を満喫していた。今はテレビにご執心らしく、朝から晩まで食い入るように観ている。もちろん、右鬼や左鬼のように家事や店の仕事を手伝ってくれたりはしない。

「働くにもお客さんが来ないんだってば……」

 悠々と去ってゆく後ろ姿を見送りながら、そう言えばせっかく考えた彼の名前を、まだ伝えていないことを思い出したのだった。
 カフェ9-Lettersナインレターズは、芦屋家の南側半分を使用している。
 玄関から見て左手にある二間続きの広い和室がメインの客間で、席はおおまかに二種類に分かれている。
 部屋の畳部分は、四つ脚のカフェテーブルが置かれたテーブル席だ。並べられた椅子はすべて形が異なっていて、それがいい塩梅にレトロ感を醸し出している。初期投資の節約を兼ねて古道具屋などから捨て値で買い集めてきたものを、玲奈と双子が一脚一脚磨き直してニス塗りしたものだ。
 そして広縁の板張りにラグを敷き、前庭を眺められるよう窓沿いに並べられた長座卓。座卓の周りにはゆったり足を伸ばしてくつろげるよう、大小様々なクッションが並べてある。
 ジェノワーズを焼き終えて客席を覗くも、やはり客足はなし。
 がらんとした店内は雨の音が響くばかりでどことなく寂しい。いてもたってもいられず、玲奈は傘を差して玄関を出た。
 今日は木曜日だ。いつも通りなら、そろそろ彼がやってくる時間だから。
 玄関の軒下から敷地の入り口の方を窺っていると、白くけぶる雨の中にひとりのシルエットが浮かぶ。

七弦なつる!」

 うれしくなって思わず名を呼んだが、近付いてきたのは想像していた客とは別人だった。玲奈はあわてて背を正し、接客モードに切り替える。

「いっ、いらっしゃいませ!」
「おとーふ、いる?」

 やってきたのはひとりの男児だった。市松模様の着物を着て、編笠を被っている。
 男児は玲奈の目の前までとことこ歩いてくると、丸い盆を突き出してかわいらしく小首を傾げた。うるし塗りの盆の上には、一丁の豆腐が乗っている。

「えっと……。誰かのおつかいで来たの?」
「おとーふ、いる?」

 玲奈が少しかがんで視線を合わせると、じぃっとこちらを見上げてくる。真っ白な絹ごし豆腐は何かを訴えるようにぷるんと揺れた。

「う、うーん。じゃあせっかくだし一丁もらおうかな……?」


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