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1巻

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   序章 見鬼けんきのパティシエールと全裸の男


 一流の菓子職人パティシエールへの道。それは早起きから始まる。
 洋菓子店の朝はとにかく早い。覚えることの多い新米であればなおのこと。
 砂糖や小麦粉の計量、大量の卵の殻割り、フルーツのカットに掃除から皿洗いまで。華やかな店頭のショーケースとは打って変わって、単純で、地味で、重労働の作業の連続だ。
 それでも玲奈れなは、この仕事が好きだった。
 老舗しにせパティスリーで修行して五年。独立してカフェを開いてからもうすぐ一年。
 今はまだ、叶えるべき夢の途中だ。


 ――「スイーツでみんなを笑顔にしたい」という、大きな夢の。


 ◇ ◇ ◇


 十月の朝五時。
 目覚まし時計の電子音が古い和畳の部屋に響く。部屋の主、芦屋玲奈あしやれなは布団から腕だけを生やすとほとんど無意識のうちにそれを止めた。
 今日もパティシエールとしての夢を叶えるため、眠りの淵から引き戻される。日の出前に起きるのも、もはや慣れっこのはずだった。
 しかし普段ならば寝起きのいいはずの玲奈は、この朝なかなか布団から出てこようとしない。
 それもそのはず、彼女は心地よい温もりに包まれていたのだから。

「ふへ……あったかぁい……」

 大きくて、すべらかで、あたたかい何か。
 遠い昔を思い起こさせる感覚に、ぴったりと肌を寄せる。なんだか無性に懐かしくて、心は安堵に包まれる。玲奈が無意識のうちに温もりを抱きしめると、それも優しく玲奈を抱き返した。

「もの欲しげな女だな。抱いてほしいのか?」
「ぅん……?」

 聞き慣れない声が頭上に降ってきた。同時に何かが玲奈の顎を掴んで引き上げる。脳裏に直接響く低い声に、玲奈はぼんやりと薄目を開けた。すると上向かせられた寝ぼけまなこに飛び込んできたのは、血のように赤いふたつの輝き。

「んんっ⁉」

 途端に玲奈は飛び起きた。
 十畳の和室の中央に敷かれている玲奈の和布団。今まさに彼女が飛び起きたその真横、新調したばかりの綿のシーツの上に、いるはずのない何かがいる。
 涅槃仏ねはんぶつのように肩肘をつき、さも当然のごとく堂々と隣に横たわっていたのは。

「良いぞ。特別に慈悲をくれてやろう」

 黒髪の合間から真っ赤な瞳を爛々らんらんと光らせ、跳ねのけた羽毛の上掛けの下で白いからだを惜しげもなく晒した――見ず知らずの全裸の男だった。

「◎■☆※#▲%ぎゃああああ誰ぇぇええええ⁉」

 築八十年の古民家に、家主れなの悲鳴が響き渡った。

五月蝿うるさいやつだな。あまり興醒めさせるでない」

 全裸の男は悠々とした寝姿のまま小指で耳をかっぽじると、その指にふうっと息を吹きかけた。
 ほどよく筋肉がつき、彫像ちょうぞうのように均整の取れた身体は間違いなく男のもの。しかしいかにもやる気がなさそうに横たわるもの憂げな表情は、しっとりと妖艶で。
 発光するかのような白い肌。濡れ羽の黒髪。鮮やかすぎる赤い瞳。
 そのすべてがこの世のものとは思えぬ異様な美しさを放っていた。

「わーっ来るな寄るな変態! 痴漢ちかん! 不法侵入者!」

 腰を抜かした玲奈は尻餅をついたままガサガサと畳の上を後ずさる。

「女、そもそも肉付きに難があるぞ。まな板の上のいもだってもう少し弾力があろうが?」
「ぜぜぜ全裸でひとの布団に入ってきて、ひとの身体をさんざん撫で回しておいてよりによって芋呼ばわり⁉ だいたいあなた誰なのよ!」

 いくら美しかろうと、勝手に乙女の布団に上がり込んだ不埒者ふらものには変わりない。尻餅のまま部屋の壁際まで下がりきった玲奈が叫ぶと、男はゆらりと立ち上がり偉そうに仁王立ちしてみせた。全裸で。

「ふっ。うぬごとき端女はしために名乗る真名まななどないわ。我が玉体ぎょくたいに触れ共寝を許されたこと、せいぜい光栄に思うが良い」
「寝てないーっ! 共寝してない! 誤解される言いかたしないでよ変態! 早く出てってってば!」

 突如露わになった男の全貌に、玲奈は視線をやることもできず目をつぶってまくし立てた。
 だが男は美しい裸体を隠そうともしない。部屋の隅、たんすと壁の隙間にまで玲奈を追い詰めると、片膝をついて彼女の寝起きの髪を一房掴み、己の口元へ引き寄せた。

ねているのか? それとも後朝きぬぎぬの歌でも詠めと? ん?」
「ちょっとはひとの話を聞きなさいよ!」
「そもそも我を床に引き入れたのはうぬであろうが」
「……え?」

 玲奈は思わず閉じていた目を見開く。
 見上げた面前で、男の鬼灯ほおずきのように真っ赤なひとみあやしく揺らめいていた。

(私が、この全裸男を部屋へ上げた……?)

 玲奈は必死に昨夜の自分の行動を思い出そうと頭をひねった。


 ここ数日、都内では記録的な長雨が降り続いていた。
 天気予報士泣かせの変則的な降りかたの雨で、同じく数日前まで雨雲のかかっていた西側では大規模な土砂災害があったと聞く。
 雨脚が激しく軒を叩く音をよそに、玲奈は昨夜もいつも通り、キッチンの作業台の前に立っていた。
 玲奈の自宅兼店舗であるこの屋敷は、築八十年とかなり古い。しかしステンレスの作業台やコンベクションオーブンが備えられたキッチンは、ぴかぴかに磨き上げられていていつでも明るい。
 スマートフォンから流れるお気に入りアイドルグループのミックスリストをBGMに、玲奈はパレットナイフを濡れ布巾で拭う。
 そして集中のためふー、と一度息を吐いた。
 丸い土台の上に、たっぷりとクリームを垂らす。ナイフの面の部分でクリームを慣らしながら回転台を手早く滑らせれば、クリームは踊るドレスの裾のように美しく均一に広がっていった。
 それはパティシエの基本にして重要な技術のひとつ、「ナッペ」だ。
 ケーキなど菓子の表面にクリームやジュレを均一に塗る作業で、美しさはもちろん、スピードも要求される。
 ケーキの土台にナッペし、絞りでクリームをデコレーションする。玲奈はその日も閉店後に、同じ作業をくり返し練習していた。
 と言っても、さすがに練習のたびに本物のスポンジと生クリームを使うわけにはいかないので、今は発泡スチロールの土台に食用油脂ショートニングをクリーム代わりに塗っているのだが。

「じゃーん。うふふ、かわいいでしょ? この間雑貨屋さんで見かけたかぎ針編みのレースをイメージしてみたの」

 本日何度目かの練習用デコレーションケーキが完成し、絞り袋片手に得意げに胸を張る。虚空に向かって話しかけると、誰もいないはずの空間にうすぼんやりとした光がいくつも浮かぶ。
 ひよこほどの大きさの光達は、ケタケタと楽しそうにからだを揺らして笑った。
 自称・未来の一流パティシエール芦屋玲奈は、平安時代にその名を馳せた偉大な陰陽師おんみょうじ芦屋道満あしやどうまんの子孫である。玲奈自身にも見鬼けんきの才があり、人ならぬ怪異、あやかしが視えるのだ。
 通常、そこらを漂っている低位のあやかしは普通の人間には視ることができない。
 彼の者らは現世うつしよ――玲奈達が暮らす現代社会――に干渉する力が弱く、せいぜい自身を小さな発光体のように見せるか物をカタカタ鳴らすくらいしかできないからだ。
 ちまたで怪異現象と騒がれるもののほとんどはこういった低位あやかしの気まぐれか悪戯いたずらなのだが、世間ではあやかしという存在そのものが認知されていない。

「えーと。明日の仕込みは終わったでしょ。材料の発注も済ませたし……」
「玲奈さま。そろそろお休みになられるお時間ですよ」

 玲奈の周りを漂っていた低位あやかし達の光が、ぴゃっ! と一斉に散って消える。キッチンと繋がっているカフェカウンターの小窓から玲奈に声をかけたのは、すらりと背の高い優男だった。
 人間ならば二十代。身長は一八〇センチを超える長身で、流れ落ちる滝のごとき長い青髪に、整った目鼻立ち。どことなく怜悧れいりで涼やかな印象だ。

右鬼うき! もうそんな時間?」

 あわてて時計を見上げると、時刻はすでに午前零時近かった。
 明日もいつもと同じく五時起きなので、そろそろ床に就かねばならない。玲奈はあくびを噛み殺しつつ、作業台を片付け始める。

「そういえば、帳簿はつけ終わった? 今週の売り上げはどうだった?」
「いつも通り赤字です」

 平然と答える右鬼の微笑に、玲奈はがくりと肩を落とした。
 昨年、勤めていた老舗しにせパティスリーのオーナーシェフが年齢を理由に店を閉じたのを機に、玲奈は一念発起してパティシエールとして独立した。
 両親から受け継いだ自宅の古民家を改装して、和のおもむきあふれるレトロな空間で自慢のスイーツをたのしめる「カフェ9-Lettersナインレターズ」としてオープンさせたのだ。
 本来、洋菓子作りは十年でようやく一人前と言われる厳しい職人の世界である。十代の頃から修行に明け暮れ、オーナーから実力を買われていたとはいっても、二十四歳の玲奈はその理論に照らせばまだ半人前、道半ばというところだ。
 それでもあえて独立開業に踏み切ったのには理由がある。
 ちょうど同時期に、「こんな古い屋敷は取り壊してこの土地にマンションを建てましょう」と、不動産業者からしつこい営業を受けていたせいだった。
 都内でも珍しい築八十年の古民家である玲奈の自宅には、昔からたくさんのあやかし達が棲んでいる。玲奈にとってあやかしは家族同然であり、彼らの居場所を奪うような取り引きに同意できるわけがない。
 しかし業者の営業攻勢は日に日に悪質になり、しまいには右鬼が「あの男達、粉微塵こなみじんにして埋めてもいいですか?」などと不穏なことを言い出す始末。
 玲奈は悩みぬいた末、「だったらいっそのこと、古さを活かしたカフェにしてしまおう!」と思い立ったのだ。
 おかげで業者をあきらめさせることができ、家を守ることはできたものの――商売は勢いで成り立つほど甘くはなかった。

「うう、来年の固定資産税払えるかな……頭が痛い……」

 なにせここは東京武蔵野市むさしのし吉祥寺きちじょうじの中心地からほど近い。文化的な価値を除けば屋敷自体にはほとんど値はつかないものの、土地がやたらと広いのが問題だ。
 不動産業者が目をつけるのもさもありなん、である。
 頭を抱える玲奈を横目に、右鬼は慣れた手つきで店のシルバー類を磨いている。

「平安の昔より、民から搾り取れるだけ搾り取ろうというのが御上おかみのやりかたです。道満さまもよく都の腐敗を嘆いておられました」
「ま、まあ納税は国民の義務だからしょうがないよ。芦屋道満――私のご先祖さまは、朝廷には仕えていないフリーランスの陰陽師だったんだっけ?」
「ええ。『陰陽術はまつりごとの道具にあらず、広く民草たみくさのために力を振るうべし』というのが道満さまの信条でしたので」
「おっ、なんだお嬢。俺達と歴代の芦屋家当主の活躍を聞きたいってか?」
左鬼さき!」

 いつの間にか右鬼の後ろから小窓を覗き込んでいたのはもうひとりの若い男だった。高く結われた赤髪に、快活で人懐こい笑み。背丈も顔の作りも右鬼と寸分違わず同じだが、纏う雰囲気は対象的だ。

「話すと長くなるぞ~。なにせ千年分あるからな」
「あはは……今度にしとく」

 右鬼と左鬼。実はこのふたりはあやかしだ。平安時代に芦屋道満が自ら成敗し服従させたという双子の鬼で、千年近く芦屋一族に仕えている。
 どちらも相当高位のあやかしらしいのに、今玲奈がさせていることと言ったらこの通り、カフェの手伝いである。お揃いのサロンエプロンで店頭に立つふたりをご先祖さま達が見たら卒倒してしまうかもしれない。
 当の本人達は手慣れたもので、意外とこの状況を楽しんでいるのだが。

「お疲れさま。今日の作業はおしまい!」

 ねぎらいの言葉をかけると、ふたりは下がっていった。玲奈もキッチンを出て、身につけていたコックコートを脱衣場の洗濯機に放り込む。
 さて寝るか、と最後にもう一度キッチンに戻って消毒用のアルコールを作業台に吹きつけていると、何者かがキッチンの入り口からこちらを窺うのが目に入った。
 丈足らずのかすりの着物を着た、おかっぱ頭の童女である。

「どうしたの?」

 突然現れた怪しげな子供。白すぎる肌が印象的なその姿は、夜の闇にわずかに透けていた。しかし玲奈は特に驚くでもなく、親しげに話しかける。
 この童女はいわゆる「座敷ざしきわらし」。この屋敷に暮らす多くのあやかしのうちのひとりだ。彼女が無言で廊下の奥を指差すので、玲奈もキッチンから顔を出してそちらを確認すると。

「あ~納戸なんどかぁ……。また誰かが悪戯いたずらしてるの?」

 童女は無言で頷いた。彼女が指し示していたのはキッチンの北、製菓材料や器具を収納している小部屋だった。
 その位置は屋敷の北東うしとら。陰陽道では鬼が出入りするとされる方角、鬼門きもんである。
 玲奈はトレードマークである緩めのお団子頭を掻くと、ため息をひとつついた。
 納戸なんどにはこれまでも何度か低位あやかしが入り込んでいたことがある。大した悪戯いたずらはできないだろうが、とりあえず中を確認しなければなるまい。

「はい、これ。今日使ったタルト生地パートシュクレのあまりだけど。教えてくれてありがとう」

 玲奈は戸棚からシンプルな四角いクッキーを取り出して童女に渡す。座敷ざしきわらしは両手でそれを受け取ると、にっこり笑って闇に溶け、消えた。

「さて」

 ふんすと鼻を鳴らし、玲奈は明かり代わりのスマートフォンを手に取った。もこもこルームウェアの袖をまくりつつ、やや大股で廊下に出て納戸なんどの前に立つと、古い板張りの床がぎぃと軋む音を立てた。
 気まぐれな低位あやかし達をしつけるには最初が肝心だ。思いっきり息を吸い込むと、勢いよく正面の引き戸を開けて電気をつける。

「コラーッ! ひとの家に勝手に上がり込む悪いあやかしはいねがー………って、んんんんん⁉」

 なまはげ風の威勢のよいかけ声は、すぐさま驚きの叫びに変わった。
 部屋の明るさに馴染んだ玲奈の目にまず飛び込んできたのは――納戸なんどの床に転がった、大量のガラス瓶。

「ちょ、ちょっとちょっと! コアントローが……キルシュが! カルヴァドスがぁあ⁉」

 どれも製菓の香りづけなどに使うリキュールやスピリッツ、つまりは酒だ。
 白熱灯の黄みがかった明かりに照らされた大瓶達は、どれも中身が空っぽの状態で乱雑に倒れている。すべて未開封だったはずだ。

「な、何これ、どういうこと⁉」

 玲奈はとっさに床に這いつくばって、倒れた空き瓶を掻き集めた。これまでの低位あやかしの悪戯いたずらはせいぜい、食器をカタカタ鳴らすとか、よく見たらコーヒー用の角砂糖がひとつ減っているとか、かわいらしいものが関の山だった。
 それがまさか、ストックの酒類を全部空けてしまうだなんて。
 そもそもこの家には玲奈の父が施した強力な魔除けの結界が張られており、悪意を持つあやかしは外部から入ってこられないはずなのだ。

「えっ……もしかして、泥棒……?」

 今さらあやかしではない第三者の侵入に思い当たり、空の酒瓶を抱えた玲奈は恐る恐る立ち上がった。
 あやかしは何匹いようが怖くないが、人間の侵入者は怖い。陰陽師を父に持ち自身も見鬼けんきの目を持つ玲奈は、常人とは少し感覚がズレていた。
 ぶに。
 不意に、立ち上がった玲奈のもこもこルームシューズが何か柔らかい感触を捉えた。いや、正確には踏んだ。

「え?」

 嫌な予感がして、がに股になりながら右足を持ち上げる。抱えた酒瓶越しに床を覗き込むと、なんとそこには。

「びゃぁぁあああ⁉」

 体長五十センチほどの真っ白な蛇がひっくり返っていた。


 ――と、そこまで思い出して玲奈は意識を現在いまに引き戻す。


(そうそう。たしか昨日は納戸なんどで白蛇を拾ったんだ。右鬼と左鬼に見つかったら「ペット禁止!」って捨てられちゃうから、こっそり部屋に連れて戻ったんだよね。うちで飼うかどうかは別として、雨の中に放り出すのもかわいそうだと思って……)

 外は今もざあざあ降りの雨が続いている。

「――で、どう思い出してもあんたみたいな変態男を布団に入れた覚えはないんだけど?」

 白蛇は拾った。しかしこんなふてぶてしい男のことは知らない。
 もはや恥じらいを捨て、玲奈は目の前の全裸の男を睨みつけた。
 すると男は己の顎に手をやり、おどけたように首を傾げてみせる。

「ふうむ。ならば直接身体に聞いてやろう。芋女いもおんな、早くそのけったいなもこもこを脱げ」
「芋じゃ・な・い! ちょ、ちょっとこれお気に入りなんだから引っ張らないでよ!」

 まるでそこらに散歩に行くような気楽さで、男は玲奈のルームウェアの胸元に手をかける。芦屋玲奈二十四歳、絶体絶命の貞操ていそうの危機であった。

「右鬼ーっ! 左鬼ぃー! 早く来てーーっ!」

 屋敷中に響き渡る大声で、先ほどから一向に現れない御守り役の名を呼ぶ。

「玲奈さま⁉」
「お嬢!」

 するとようやく右鬼と左鬼がすぱんとふすまを開けて部屋に乗り込んできた。

「やっと来てくれた……! 右鬼、左鬼、この変態をどうにかして!」

 玲奈は辛うじて壁際から逃れると、近い方の左鬼の足元にすがりついた。

「チッ。昨夜屋敷の結界が揺らいだから調べに出てみたら、まさかお嬢の部屋に忍びこむたぁな。一体どうやって九字くじの結界を割ることなく入り込んだよ」

 高く結った赤髪をひるがえし、左鬼が男を睨みつける。彼の正体は炎の気性を持つ「火垂ひだりの鬼」である。
 だがその燃える髪よりなお赤く、相対する謎の男の真紅の瞳は凶悪に輝いた。

「ほう、鬼か……。そこそこの格のようだがこの女の式神か? その割には芋女こやつからまったく霊力が感じ取れぬのだがな」

 男はゆらりと立ち上がる。すると双子の片割れの右鬼が、左鬼とその足元にしがみつく主を背にかばうように進み出た。

「我らは平安の昔に芦屋道満さまに降伏ごうふくされ、以降千年に渡り芦屋家に仕えし対が鬼。芦屋の後裔こうえいたる玲奈さまに仇なす者は、容赦しないと知れ」

 冷たく澄んだ霊気をまとう「水貴みぎの鬼」、右鬼は堂々と言い放つ。
 しかし、赤目の男は彼らの殺気に少しも臆することなく一笑に付した。

「ふっ、言いよる。ならば見せてみよ、容赦のないところとやらを」

 男が自身の目にかかる黒髪を払いのけ、挑発的にずいと一歩、前へ踏み出す。
 途端に場に緊張が走った。
 今、男と双子の間には見えない霊力のせめぎ合いがある。しかし赤目の男は、その両者の境界をあまりにもあっさり踏み越えたのだ。
 まるで、まったく意にも介さないとでも言わんばかりに。
 事態はまさに一触即発だった。霊力の高い者ならば、今この場を取り巻く重苦しい霊圧に呼吸すらままならなかったに違いない。その力は現世うつしよにもわずかに波及して、化粧台の上のプチプラコスメの小瓶達がカタカタと鳴った。
 だがそんな中、いまいち状況の深刻さを理解していないのが玲奈だった。左鬼の足元にひっついて隠れたまま顔だけを覗かせ、前に立つ右鬼をけしかける。

「右鬼、やっちゃえ! そいつ私の身体を撫で回した上に芋呼ばわりしたから! 容赦なくどうぞ!」

 だが、右鬼は動かない。
 過去に玲奈をナンパした見知らぬチャラ男を指一本で投げ飛ばし、並のあやかしなら片手で握り潰して滅するほどの力を持つはずの右鬼はいた。赤目の男が持つ、禍々しくも圧倒的な力の片鱗を前にして。
 しばし重い沈黙が場を支配する。

「てめぇ、何が目的でここへ来た」

 左鬼が吐き捨てるようにつぶやいた。

「ふむ……なんだったかな。とんと覚えておらん」
「おちょくってんのか……?」

 れなだけはなんとしても護らねばならない。双子の緊張を知ってか知らずか、赤目の男は余裕の態度を崩さない。腕を組み仁王立ちすると高らかに笑った。全裸で。

「ハハハハ! 良いだろう。久々に気分が良い、ふたりまとめて相手にしてや……」
「ひとんで早朝から全裸で笑ってんじゃなぁああい!」
「玲奈さま⁉」

 突如、玲奈が動いた。双子の影から飛び出すと、先ほどまで微睡まどろんでいた羽毛布団を両手に掴んで赤目の男に飛びかかる。

「おのれ何をす◯※□! ◎■☆▲%⁉」
「ハイッ、不審者確保ぉーっ! 右鬼、なんか縛るもの持ってきて! 左鬼は通報! 一一〇番ケーサツ!」
「警察ってお嬢……。そいつ、あやかしだぞ?」
「……へ?」

 羽毛布団の下でもごもごと暴れる男に跨がり押さえつけたまま、玲奈はきょとんとした顔で双子を見上げるのだった。


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