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第一楽章
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ホテルに向かうタクシーを待つ間、今度は月を見つけたフレッドが興奮した子犬のようにじゃれつきながらエリックに月を紹介していた。
「エリック! 見て! 月! 月だよ!」
フレッドが指差す方向には、遠くそびえ立つビル群から空へ向けて投影される宙空投影を、外気圏のさらに向こうから眺めるように浮かぶ月をエリックは見た。地上を見下ろす不可侵の存在、月。
最近の宇宙開発分野では、火星への人類進出計画が期待をもって進められ、過去に流行っていた月へ向けての計画は、いつの頃からか目的地が火星へとシフトするとともに、文字通り宙に浮いた状態のまま凍結されたと聞く。
「エリック。どこの国に行っても月の顔って同じに見えない? 少し黒っぽくなっているところの形がいっしょだよ。ここって北半球のずいぶん東にある島でしょ?」
「実際、地球からは見える月はいつでも今見てる表側だけで裏側は見えないんだ。黒く見えるところは月の海。水はないけどね」
「裏側が見えないなんて、僕たちの世界と一緒だね。見えてるこっち側しかないみたい。月もこの世界もおんなじなんだ」
「ちゃんと裏側はあるよ。ヴェネツィア・カーニバルのマスクみたいにくりぬかれてるわけじゃない。表面しか存在してないわけじゃないんだ」
兄の説明にフレッドは、ふうん、と頷いた。
「じゃあエリックは裏側には何があると思う?」
のぞき込んでくる弟の瞳の色は、極薄い色の付いた膜に覆われ、飛行機の窓から見えた夜の海のような色をしていた。自分の瞳も同じ色だろう。
「闇かな。静かな安寧の闇」
誰からも見えなくても、誰からも脅かされない二人だけの世界。
「やみ! 闇だ! やっぱり! 僕もそう思ってた!」
同じキーワードだったとしても、自分とはだいぶ趣きの違う喜びをフレッドは見せる。
「闇はダークサイドの世界だもんね! ダークサイドは月の裏側、闇の世界から来たって言ってるもん!」
エリックはいつでも明るく笑う自分の片割れを見つめ、起き出して来た声が『相変わらずだな……』と、眠たそうにつぶやくのを聞きながら「そうだね」と答えた。
しばらくすると滑るようにやってきたタクシーに乗り込むなりフレッドはまたはしゃぎ始めた。
「すごい。タクシーに格付けがある!」
「何これ? 優良ってシールが貼ってある! 優良と優良じゃないのって、お金一緒なの?」
「おもてなしってなに? 表がないの? 裏だけってこと?」
外国から親子で日本に観光かと思い英語で挨拶した初老の運転手は「日本で56年ぶりにオリンピックが開催されると言われたあの時に覚えました」と、やつぎばやに飛んでくるフレッドの質問攻めに嫌な顔一つせず、丁寧に答えていた。
「せっかく少し覚えたものですから、そのまま英会話のレッスンを続けましてね。今は色んな国からいらっしゃる方とお話できて、とても良かったと思っています」
ドアが自動でしまり、安全を確認すると車は動き出した。
「とてもお上手ですよ」
ジムは、日本語で返した。
「あなたも日本語がお上手だ。お仕事で使われている?」
「実は母が日本人でね。この子達に母の国を見せてやろうと思ったんだ」
「そうでしたか。里帰りは久し振りですか?」
日本には何度も来ているが、里はそもそもどこにもないな。ジムはそう思いながら「ああ。とても久し振りだ」と答えた。
「そうですか。それではこれから向かう都内を見られたら驚かれるかもしれませんね。ここ数年の変化はここに住んでいても驚くほどの変わりようです」
窓から外を見たいとそろって言う双子に挟まれる形で車に乗り込んだジムは、しばらく窓から外を眺めていたエリックが、一人得心した様子で「そうなんだ。すごいな。実際に見るのが楽しみだね」と呟きながら正面に向き直ったのを見ていた。双子は、相互通信が出来る。だから今もエリックが独り言を言っているのか、二人が二人だけで通じる頭の中で喋っているのかはジムにはわからなかった。だが、無邪気なフレッドとは対照的に、いつも静かなエリックが嬉しそうな顔を露にして手に持ったキャップのロゴを見つめている横顔に思わず声を掛けた。
「お気に入りだな。どこで手に入れたんだ」
「ロンにお願いしたんだよ。すごく好きなバンドなんだ」
「フランク・ゲーリーのグッゲンハイム美術館みたいな楽曲やら、複雑な多重構造物的ギターなんだろう?」
初めてこの話を聞いたとき、エリックがめずらしく興奮気味に説明していたのを覚えている。
「知ってるの?!」
知ってるさ。声につられて横を向けば、思いがけず高揚したエリックと目があった。その目に見つめられ、迂闊にも回答してしまった自分を殴りたくなった。
「……誰かが言ってた気がする」
「誰か? ジムの知り合い? その人と話ししてみたいな」
「すまん。誰だか忘れちまった」
「そっか。ジムでも忘れることあるんだね。その人と話してみたかったな」
素直に残念がる様子に、また一瞬言葉を失う。任務の最中にエリックとこの話をしたときの記憶はジムの中にしか残っていない。任務の記録と一緒に簡単に消去されてしまった会話。澱のような後ろめたい感情など勝手にこちらが感じているだけだろうに。黙ってしまったジムを見て、キャップに描かれた月のロゴに視線を落とすと、エリックはいつもの静かな声で問いかけてきた。
「ねぇジム。ジムは見てみたいと思わない?」
「何をだ?」
「裏側! 月の裏側だよ! ね、エリック」
高速道路を走るタクシーの窓から、次第に近付く世界有数の都市東京の中心部の夜景に目を奪われていたフレッドが、突如、振り返ると会話に乱入して来た。フレッドをあやしつつエリックは続ける。
「地球からは絶対に見えない。だけど存在する。僕たちの世界のような場所」
「別に思わん」
「ジムはいつも見てるから?」
何を意図して投げかけられたのか無邪気なフレッドの顔からは伺い知る由もなかったが、ジムは腕を伸ばし、両サイドに座る二人をおもむろに胸に抱くと少しだけ力を入れた。「苦しい!」とか「ジム!」と、くぐもった抗議が双方から聞こえてきたが無視した。しばらくじたばたとしていた双子だったが、大人しくなると温かい暗闇の中でくすくすと笑う声が聴こえてきた。
「エリック! 見て! 月! 月だよ!」
フレッドが指差す方向には、遠くそびえ立つビル群から空へ向けて投影される宙空投影を、外気圏のさらに向こうから眺めるように浮かぶ月をエリックは見た。地上を見下ろす不可侵の存在、月。
最近の宇宙開発分野では、火星への人類進出計画が期待をもって進められ、過去に流行っていた月へ向けての計画は、いつの頃からか目的地が火星へとシフトするとともに、文字通り宙に浮いた状態のまま凍結されたと聞く。
「エリック。どこの国に行っても月の顔って同じに見えない? 少し黒っぽくなっているところの形がいっしょだよ。ここって北半球のずいぶん東にある島でしょ?」
「実際、地球からは見える月はいつでも今見てる表側だけで裏側は見えないんだ。黒く見えるところは月の海。水はないけどね」
「裏側が見えないなんて、僕たちの世界と一緒だね。見えてるこっち側しかないみたい。月もこの世界もおんなじなんだ」
「ちゃんと裏側はあるよ。ヴェネツィア・カーニバルのマスクみたいにくりぬかれてるわけじゃない。表面しか存在してないわけじゃないんだ」
兄の説明にフレッドは、ふうん、と頷いた。
「じゃあエリックは裏側には何があると思う?」
のぞき込んでくる弟の瞳の色は、極薄い色の付いた膜に覆われ、飛行機の窓から見えた夜の海のような色をしていた。自分の瞳も同じ色だろう。
「闇かな。静かな安寧の闇」
誰からも見えなくても、誰からも脅かされない二人だけの世界。
「やみ! 闇だ! やっぱり! 僕もそう思ってた!」
同じキーワードだったとしても、自分とはだいぶ趣きの違う喜びをフレッドは見せる。
「闇はダークサイドの世界だもんね! ダークサイドは月の裏側、闇の世界から来たって言ってるもん!」
エリックはいつでも明るく笑う自分の片割れを見つめ、起き出して来た声が『相変わらずだな……』と、眠たそうにつぶやくのを聞きながら「そうだね」と答えた。
しばらくすると滑るようにやってきたタクシーに乗り込むなりフレッドはまたはしゃぎ始めた。
「すごい。タクシーに格付けがある!」
「何これ? 優良ってシールが貼ってある! 優良と優良じゃないのって、お金一緒なの?」
「おもてなしってなに? 表がないの? 裏だけってこと?」
外国から親子で日本に観光かと思い英語で挨拶した初老の運転手は「日本で56年ぶりにオリンピックが開催されると言われたあの時に覚えました」と、やつぎばやに飛んでくるフレッドの質問攻めに嫌な顔一つせず、丁寧に答えていた。
「せっかく少し覚えたものですから、そのまま英会話のレッスンを続けましてね。今は色んな国からいらっしゃる方とお話できて、とても良かったと思っています」
ドアが自動でしまり、安全を確認すると車は動き出した。
「とてもお上手ですよ」
ジムは、日本語で返した。
「あなたも日本語がお上手だ。お仕事で使われている?」
「実は母が日本人でね。この子達に母の国を見せてやろうと思ったんだ」
「そうでしたか。里帰りは久し振りですか?」
日本には何度も来ているが、里はそもそもどこにもないな。ジムはそう思いながら「ああ。とても久し振りだ」と答えた。
「そうですか。それではこれから向かう都内を見られたら驚かれるかもしれませんね。ここ数年の変化はここに住んでいても驚くほどの変わりようです」
窓から外を見たいとそろって言う双子に挟まれる形で車に乗り込んだジムは、しばらく窓から外を眺めていたエリックが、一人得心した様子で「そうなんだ。すごいな。実際に見るのが楽しみだね」と呟きながら正面に向き直ったのを見ていた。双子は、相互通信が出来る。だから今もエリックが独り言を言っているのか、二人が二人だけで通じる頭の中で喋っているのかはジムにはわからなかった。だが、無邪気なフレッドとは対照的に、いつも静かなエリックが嬉しそうな顔を露にして手に持ったキャップのロゴを見つめている横顔に思わず声を掛けた。
「お気に入りだな。どこで手に入れたんだ」
「ロンにお願いしたんだよ。すごく好きなバンドなんだ」
「フランク・ゲーリーのグッゲンハイム美術館みたいな楽曲やら、複雑な多重構造物的ギターなんだろう?」
初めてこの話を聞いたとき、エリックがめずらしく興奮気味に説明していたのを覚えている。
「知ってるの?!」
知ってるさ。声につられて横を向けば、思いがけず高揚したエリックと目があった。その目に見つめられ、迂闊にも回答してしまった自分を殴りたくなった。
「……誰かが言ってた気がする」
「誰か? ジムの知り合い? その人と話ししてみたいな」
「すまん。誰だか忘れちまった」
「そっか。ジムでも忘れることあるんだね。その人と話してみたかったな」
素直に残念がる様子に、また一瞬言葉を失う。任務の最中にエリックとこの話をしたときの記憶はジムの中にしか残っていない。任務の記録と一緒に簡単に消去されてしまった会話。澱のような後ろめたい感情など勝手にこちらが感じているだけだろうに。黙ってしまったジムを見て、キャップに描かれた月のロゴに視線を落とすと、エリックはいつもの静かな声で問いかけてきた。
「ねぇジム。ジムは見てみたいと思わない?」
「何をだ?」
「裏側! 月の裏側だよ! ね、エリック」
高速道路を走るタクシーの窓から、次第に近付く世界有数の都市東京の中心部の夜景に目を奪われていたフレッドが、突如、振り返ると会話に乱入して来た。フレッドをあやしつつエリックは続ける。
「地球からは絶対に見えない。だけど存在する。僕たちの世界のような場所」
「別に思わん」
「ジムはいつも見てるから?」
何を意図して投げかけられたのか無邪気なフレッドの顔からは伺い知る由もなかったが、ジムは腕を伸ばし、両サイドに座る二人をおもむろに胸に抱くと少しだけ力を入れた。「苦しい!」とか「ジム!」と、くぐもった抗議が双方から聞こえてきたが無視した。しばらくじたばたとしていた双子だったが、大人しくなると温かい暗闇の中でくすくすと笑う声が聴こえてきた。
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