緑夢幻想 リ・バースデイ

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 違うんだ。



 そんなつもりは無かったんだ。本当に……全く。


 そりゃあ確かに嫌いだったし、憎らしかったのは事実だ。いっそいなくなればいいのにと考えた事も、数え切れないくらいある。

 でも違うんだよ。俺はコイツを……

 妹を殺すつもりなんて、全く無かったんだ。






 薄暗く、ひんやりとした台所。五月の陽気の中、ここの空気だけは異質なもののように感じる。


 ここに妹は寝転がっている。微動だにせず、血溜まりの中、顔だけをこちらに向けて。


 ほんの数分程前までは感情を隠そうともせず、まさに生き生きとしていたその顔も、今では虚ろに瞼を半分開いているだけの、ただの肉塊にすぎない。


 仲が悪かったとはいえ、兄妹として暮らすこと十二年、表情の豊かな妹の、こんなにも無表情な顔を見るのは初めてだった。


「……美花みか?」


 当然、返答がある筈はない。美花が既に死んでしまっている事は、誰が見ても明らかなのだから。


「美花、起きろよ……。おい、美花!」


 そっと抱き起こして肩を揺さぶると、後頭部からおびただしい量の血がこぼれ落ちる。


「……ふざけんな、目ェ開けろよ、美花!」


 俺は怒りに任せて美花の髪を引っ張った。


 美花の自慢の長い髪を、である。黒髪が似合わないから、と中学に入るのと同時に髪を金色に染め上げた俺に比べ、美花には腰までの長い黒髪がよく似合っていた。


『美花ちゃんはまるで日本人形のようね』

 そう言われた事は数知れず。そしてこの後に続く言葉もまた、一様だった。

大樹だいき君はあんななのに……』


 それに対し、美花はいつも微笑った。さぞかし気分が良かった事だろう。


 しかし今の美花は、髪がどれだけ抜けてもまるで無反応で、まさに『人形』そのものだ。──何と素晴らしい皮肉だろう? 


 俺は一人笑みを浮かべた。

 無性におかしくなって、声を上げて笑う。一度笑い出すと、後はもう箍が外れたように留まる所を知らなかった。



 やがて両頬がだんだん重くなってくる。笑うという行為にこんなに腹や頬の筋肉を使うなんて、初めて知った。


 笑い疲れて緩んだ唇から、唾液が床にぽたりと落ちる。それをぼんやりと眺め、今度は鼻で笑った。

 まるで気が狂った人間のようじゃないか。



 美花の頭を膝に乗せて幼い子供にするように頭を撫で、髪を梳く。思っていたよりも細く柔らかなその髪質は、俺とそっくりだった。

 美花が死んでからようやく、美花は俺の妹なのだと実感したのだった。


 途端に、俺は怖くなった。

 死んでしまった美花がというより、そんなつもりはなかったとはいえ、殺人者となってしまった自分自身が。将来が。


 いっそ本当に狂ってしまえたなら楽かもしれない。


 街は既に夕暮れ時。陽が沈めば母親が帰って来る。母親が帰って来たら……。



「神様……」


 無意識に呟いていた。擦り込みとは、驚くほど効果があるらしい。神など信じないと豪語してきた俺でも、最後に出る言葉がこれだ。


 いや、この際そんな事は言っていられない。今の俺を助けてくれるなら、神様だって何だって信じよう。

 たとえそれが聖人君子な天使であろうと、極悪非道な悪魔であろうとも。



 ── ア ク マ デ ア ロ ウ ト モ ──




 刹那、何処からか突風が吹きつけてきた。目も開けていられない程で、両手を顔の前にかざす。生温い風が俺を取り囲み、竜巻のように下から上へと巻き上げ、重力が奪われる。

 しかしそれもほんの数秒の出来事で、何が起きたのか考える間もなく風は治まり、ほっと息を吐いて目を開けた俺は――愕然とした。



 そこは見慣れた我が家の台所ではなかった。いや、見慣れている事には違いないが……俺は最寄り駅の商店街にいたのだ。



 これは夢なのか。俺は気を失ったのか?


 血で汚れた筈の両手も制服も、まるで全ては夢だったかのように跡形もなくなっているし、履いた覚えのないスニーカーまでしっかり履いて、とある店の前にいたのである。



『緑夢』



 深緑色の木製の看板には、メルヘンチックにそう描かれている。

 店名だけは知っていた。占いや風水関連の雑貨を扱っているらしく、クラスの女子に人気の店だ。もっとも、俺にはただの怪しい店にしか見えないのだが。


「胡散臭い店だな」


「おやおや、酷い言われよう」

「──誰だ!」


 いつの間にか隣に子供が立っていた。老人のような白っぽい髪と薄い茶色の瞳が目を引く、中学生くらいの少年。

 日本人離れした容貌から察するに混血児なのだろう。



 少年は俺が不躾にもジロジロ見ても気を悪くした様子はなく、ゆっくりとした歩調で先に立ち、店の扉を開けた。


「おい、お前。ちょっと待て」


 少年は俺の呼びかけに振り返ったが、口を開く気はないらしい。俺の顔を無表情に眺めている。

 その人形のような顔に、美花を思い出した。


「俺は……何故こんな所にいるんだ?」


 美花の事をどうにかしなければならないのに。


「君が呼んだから」


 少年はさらりと言うと店へ入っていってしまった。


「おい!」


 俺は後を追おうとして、躊躇った。

 俺が呼んだ? アイツを? いつ? どうやって?


 疑問は尽きない。それに比べ、あの少年は何もかも知っているような口振りだった。

 俺は覚悟を決め、店の扉をくぐった。






 『緑夢』には噂通り、開運グッズや占いに用いられる商品が並べられていた。

 しかし白と緑色を基調とし、什器からちょっとした小物まで同系色で統一された店内は思ったよりも明るく、雰囲気も悪くはない。


 少年は左奥のドアの前に立って、物珍しげに店内を見回す俺を楽しそうに眺めていた。


「……何だよ」

「いーえ。こちらへどうぞ?」


 少年はドアを開けて中へ入るよう促す。俺は不本意ながらもそれに従った。


 その部屋は、いかにもな『占いの部屋』だった。

 店とは違って黒色で統一されていて、明かりといえば数ヶ所にある燭台に灯された炎のみだ。部屋の奥に肘掛け付の椅子が二脚と、布が掛けられたテーブル。その上には水晶玉やカード類。更に怪しげな、用途の分からない金属片などが無造作に置かれている。


 勧められた椅子に座ると、少年も向かい側に腰を下ろし、口を開いた。


「ようこそ、緑夢へ」


「あんたは誰だ。俺が呼んだってのは、どういう事だ?」


 待ちきれずに疑問をぶつけると、少年は驚いたように目をみはった。


「君、本当に解ってないんだ」

「だから聞いてるんだろ」

「うーん、ごもっとも」


 おどけたように言う少年。どこまでが冗談でどこからが本気なのか。


「僕はセツ。雪と書いてセツ。ここ、緑夢の店主で占い師だよ」


 占い師。クラスの女子達が騒いでいたのは、きっとこの雪のせいだったのだ。



「ただしそれはあくまで副業でね、本業は他にあるんだよ。……北沢大樹くん」

「何で……俺の名前」

「君、さっき僕らを呼んだじゃないか」

「……何の事だ?」

「君はさっき、何を願った? 誰に祈った?――さあ、思い出して」


 雪が言い終えるのと同時に――まるで誰かに操作されているかのように、俺の頭の中にある言葉が浮かんだ。



 ――たとえそれが聖人君子な天使であろうと、極悪非道な悪魔であろうとも――




「じゃあ、あんたは俺を救いに来た天使様って訳か?」


 疑いながらも喜びを隠せずに問うと、雪は弾かれたように笑い出した。


「やだなぁ、あんなのと一緒にしないでくれる? それに僕がもし本当に天使だったら、君を助けたりなんかしないと思うけど」


「じゃあ、あんたは……悪魔なのか?」


 緊張しながら返事を待つ俺に対し、雪は軽く肩をすくめる。


「まさか。僕は人間さ」

「何だよ、期待させやがって……」



「まぁ、人間とはいっても、僕は降魔師でね」

「……何だって?」


 コウマシ……?

 そんなものは見た事は勿論、聞いた事すらなかった。思考が追いつかない俺を見て、雪はにっこり笑う。


「僕は君みたいに悪魔の手助けを欲している人間と、悪魔達との仲介をしているんだ」


「仲介? じゃあ、あんたは俺を助けてくれるのか?」


 難しい事は解らないが、肝心なのはやはりそこだ。椅子から身を乗り出して訊ねると、雪も少し身を乗り出してくる。


「僕は仲介人。望みを叶えるのが仕事だもの。さあ、君の望みは何?」


 そう言った雪の瞳が妖しく煌めいたように見え、俺は初めてこの少年を不気味に感じた。

 まるで全てを見透かしているような瞳。一度その瞳に捕えられると、逸らす事は恐ろしく難しい。



「君の、望みは?」


 雪はゆっくりと繰り返す。


「妹を……生き返らせて欲しいんだ」


 俺が言ったというより、勝手に口が動いていたという感じだった。


「死んじゃったんだ? 妹さん」


 別段面白くもなさそうな顔で雪は言う。


「……殺したんだ。俺が」

「へえ。それはまた、どうして?」


 呟くように答えた俺に、雪は声色一つ変えずに続けた。


「……よくある話だ。俺はこの通り落ちこぼれだが、美花は優等生だった。勉強も運動もそつなくこなすし、顔の造りだって良い」

「凄いね。見事に正反対だったんだ」


 雪は俺の顔をまじまじと見ながら言う。


「お前な……。まぁその通りだが」

「おや、認めてるんだ。偉いね」


 雪は柔らかく微笑む。馬鹿にされているのだろうが、こんな笑顔を前にすると怒る気も失せる。


「俺もあんたみたいにせめて顔だけでも良かったら、こんな事にはならなかったのかもしれないな……」


 つい、そんな事を口走ってしまうと、雪は片眉を上げて俺を見た。


「あれ。僕、もしかして喧嘩売られてる?」


 俺は溜め息をついた。少しだけ分かってきたが、コイツは俺の反応を楽しんでいるのだ。そんなのに付き合っていられるほど暇じゃないし、付き合うつもりも毛頭ない。


「おい、悪いように取るなよ。今のはあんたの顔を褒めただけだ」

「ふぅん」


 相変わらず雪の表情からは何を考えているのか読み取れない。


「それで?」

「今年美花は中学受験を受け、合格した。この辺じゃ一番の難関校で、それ以来美花は更に俺の事を見下すようになった」


 一度言葉を切ると、その間も雪は俺をじっと見つめていた。続きを催促するように。


「……今日は機嫌が悪かったんだ。煙草が切れてたから。しかも金もねぇ。

 授業もフケてゲーセンに行ったが、平日の昼間じゃカモにする相手もいる訳がなかった。


 しょうがなく家に帰ると、美花が既に帰ってきてた。テスト期間中で帰りが早かったらしい。俺がゲーセンに入る所を目撃したらしく、顔を合わせるなり非難してきた。

 相手は歳の離れた妹だし、最初は俺も我慢したさ。適当に聞き流していればそのうち諦めるだろうと思った。両親みたいに。でもあいつに引く気はなかったらしい。延々と続く美花の話に、俺はだんだん怒りが込み上げてきた。

 元々俺の中の理性なんて僅かなものだったんだ。


 そんな中、あいつは俺に受験生なんだから勉強をしろと言ってきた。

 俺は大学なんて行くつもりはないし、第一俺の成績で入れる大学なんて聞いた事もない。卒業も怪しいくらいだ」


「自慢にもならないね」


 雪はさも面白そうに笑う。美花にも雪のような柔軟さが少しでもあったら良かったのだ。柔らかすぎて理解し難いのは困るが、美花は真面目過ぎる。



「……美花は俺の言葉を聞いて、信じられない、と顔を歪めた。

 まるで汚い物を見るような目で、血の繋がった兄である俺を見たんだ!


 俺は――カッとなって美花を殴ろうとした。勿論本気じゃないから、反射神経の良いあいつは軽々と避けたよ。


 ……だが、問題はその後だった。避けたのは良かったが、その後、美花はバランスを崩して後ろにひっくり返ったんだ。

 俺達が言い争ってたのは台所。そして美花の倒れた先にあったのは、シンクの角だった。


 ……それからはあっという間だった。ガツンと音がしたかと思ったら、そのまま美花は床に崩れ落ちた。

 俺は……何が起こったのか分からなかった。でも美花の頭から溢れ出てきたものを見て、やっと理解した。


 俺が、殺したんだって」



「不運な事故だったとは思わないんだ?」


 探るように――しかし何処か楽しそうに訊く雪に、俺は自嘲の笑みを漏らす。


「俺があんな事をしなきゃ、美花が死ぬ事はなかった。俺のせいだ。あいつは悪くない。

 だから頼むよ。あんたは……雪は望みを叶えてくれるんだろ? 

 悪魔でも何でもいい。美花をもう一度俺の所へ返してくれ!」


 俺は懇願した。自ら頭を下げる気になったのは、およそ生まれて初めてだった。





 ゆっくり顔を上げると、雪は組んだ手の上に顎を乗せて俺を見ていたが、目が合うとにっこり笑った。


「やっと僕の名前呼んだね。……いいよ。君の望みを叶えてあげる。ただし、君には一つ条件がある」

「条件?」


 聞き返すと、雪は左手を差し出した。


 細い指先を見つめると、何処からか黄色い紙がはらりと落ちてきて、雪の手に納まった。雪はその紙を俺の前に差し出す。

 紙には英文が筆記体で書かれており、俺にはさっぱり読めない。

 一目で匙を投げた俺に雪はクスリと笑い、また何処からか現れた羽根ペンを優雅に受け取った。



「これは契約書だよ」

「契約書……」


 何だか本格的だ。いや、ここまできて嘘だったら困るのだが。


「いつの世も、旨い話ってやつはリスクを伴うものなのさ。君も本や何かで読んだ事があるだろ?」

「リスク?」

「そう。君の望みを叶えるにあたって、君には代償を払ってもらわなければならない。君は何をくれる?」


 代償。漫画で読んだ事があるいわゆる『悪魔』は、寿命何十年分とか自分の命と引き替えだったが、本当にそうだとしたら……。



「ああ、そんなに重く考えなくてもいいよ。君はまだ若い。別に今すぐ君の事をどうこうしようなんて思っちゃいないさ。

 ……勿論、そういう手っ取り早い方法もあるけれど?」


 雪は俺の顔色を窺うように言ってにやりとする。今ここで俺が死んだら、助けてもらう意味がなくなってしまう。

 本末転倒というやつだ。それは何としても避けたい。


「そうだねぇ。じゃあいつか君が死んだら、その時君の魂を貰うっていうのはどう?」

「俺が死んだら魂を差し出す? そんな事でいいのか?」


 意外な条件に気が抜けたように言うと、雪はわざとらしく険しい顔をして俺の目の前に人差し指を突き出した。


「そんな軽々しい事じゃないと思うよ。悪魔に魂を渡すという事は、君はもう二度と輪廻転生の輪の中に入れないという事だよ? それでもいいの?」


「死んだ後の事なんてどうでもいいさ。ただ、わざと殺されるのだけは勘弁してくれよ」


「勿論。そのくらいは心得てるよ」


 雪は頷き、契約書と羽根ペンを改めて俺の前に差し出す。


「インクは?」


 羽根ペンは、よく見かけるペン先がボールペン状になっている物ではなく、インクがないと書けない本物仕様だった。


 雪は俺の左手を取り、また何処からか現れたナイフで俺の薬指の腹を小さく裂いた。鈍い、痺れるような痛みがじわりと伝わり、左手を退く。どうやらこれがインク代わりらしい。血の契約という訳だ。


 契約書にサインを終えると雪は満足そうに微笑んだ。そして契約書を丸めて赤い紐を巻き、天に向けて投げる。


 宙に浮き上がった契約書は、しかし再び落ちる事はなく、空中で忽然と消えてしまった。マジックショーを見ているような気分だったが、これがタネのある手品だとは到底思えなかった。





「じゃあ、契約成立だね。――ノヴァ」


 はい、と低い声が聞こえて雪が背後のドアを開けると、そこには長身の男が立っていた。

 左目にアンティークっぽい黒の片眼鏡をかけた、二十代半ばくらいの青年。その男が腕に抱えている黒髪の少女は。


「――美花!」


 妹の美花だった。目を瞑っているが顔色は良く、死んでいるようには見えない。


「どうしてここに……」

「大樹、君はどうやってここに来たんだっけ?」

 ……そうだった。コイツの前では常識は通用しないのだ。


「あのままだったら、君、困ってたでしょ。こちらとしても手間が省けるし」


 そう言って雪は立ち上がり、美花の額に右手を置いた。何が起こるのかと俺も立ち上がり、美花を見つめた。


 雪が何かを囁いて美花の左右の瞼に触れると、美花は瞳をゆっくりと開いた。






「美花……」

「……お兄ちゃん?」


 名前を呼ぶと、美花は俺を見て微かに、だが確かに笑った。初めて自分に向けられたその微笑みは、名前通り美しい花のようだった。


 美花は雪の手を借りて立つと、雪の顔をじっと見つめた。



「あなたは?」

「僕は雪。占い師だよ」

「ふぅん。雪さん、格好良いね」

「ありがとう。美花ちゃんも可愛いよ」


 美花は嬉しそうに笑って俺の方を向く。


「お兄ちゃんも少しは見習ったら?」

「うるせぇよ」


 俺はついいつもの調子で言ってしまったが、美花はまた微笑んだ。


「冗談よ。お兄ちゃんが格好良くなっちゃったら、お兄ちゃんじゃなくなっちゃうもん」

「あはは、確かに」

「でしょ? さぁお兄ちゃん、早く帰らなきゃ。お母さんが心配しちゃう」


 美花が俺の腕を取って歩き出す。その手もちゃんと温かくて、さっきまで台所で冷たくなっていたとは到底思えない。

 折れた筈の首の骨も何ともないようだ。後頭部には血が流れた形跡もないし、引っ張って抜け落ちた部分の髪も元通りである。



 にわかには信じ難いが、確かに妹はもう一度戻って来たのだ。






 美花に引っ張られながら店の扉をくぐって振り返ると、雪はネクタイをノヴァなる青年に結い直されていたが、目が合うと小さく手を振ってきた。


「ありがとな」


 俺は精一杯の笑顔を作って、そう言った。


 外は既に真っ暗で、俺の手を引く美花の存在だけが明るく感じられた。








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