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百合風エピローグ
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緊張の糸が切れたのだろう。エルフィンに泣き縋ったまま、気絶するように寝入ってしまった少年の軽い身体をどうにか支えて部屋に入れて。いつ誰が来るともしれない廊下よりはマシだろうと、寝台に横たえてやった頃には、エルフィンの身体の疼きや違和感は幾分か治まっていた。
気力を振り絞った結果なのか、悲観的な思考を一時的にでも打ち切ったからなのか。健やかとまでは行かないが、いくらかは軽くなった頭をベッドに沈めることはなく、エルフィンは眠る少年の番をしていた。もしあのスライムが戻ってくるようなことがあれば、今度こそ狂ってしまうような気がしたから。
「……可哀想に」
ぽつりと呟いて、腫れ上がってしまった瞼を指先で撫でる。人魚の回復力があろうとも、疲労ばかりはどうすることもできないのだろう。目の下には隈があり、青白い肌には衰弱の気配があった。
それはまあ、自分も人のことを言えた義理ではないのかもしれないが、と。眼差しを伏せて苦笑すれば、少年の睫毛が微かに震えた。
そのまま薄らと開かれた瞳に、起こしてしまっただろうかと申し訳なくなる。けれどそんな恨み言に瞳を曇らせることもなく、少年はまたじわりと涙を滲ませると、騎士様、と。唇だけで囁いた。
「まだ、起きない方がいい」
すぐに身を起こそうとする少年を、慌てて制止しながら背に手を添える。大丈夫だと言いたげに、ふるふると首を打ち振った少年は、濡れた瞳でエルフィンを見上げた。
「助けて、くれて。ありがとうございます。……ありがとうございます……」
ただ言葉を紡ぐだけの間にも耐えられないように、はらりと涙を落とした少年は、何度見ても性奴隷として生きるには華奢過ぎる。彼の苦痛を想えば、エルフィンが今してやれたことなど、なかったことにも等しいのに。それでも奇跡に直面したとばかりに感じ入っている少年に、エルフィンはかける言葉を探すこともできずに目を伏せた。
騎士様、と。無垢に繰り返す少年を見つめ返す勇気が持てないまま、自嘲気味に口を開く。
「……エルフィン、だ。私はもう、騎士と名乗れる身分ではないから」
そう口にすれば、察するところはあったのだろう。一度言葉を詰まらせた少年は、従順に、エルフィン様、と。音を紡いだ。
「お優しい、エルフィン様。……それでもあなたは、僕を助けてくださいました」
ありがとうございます、と。そう続けた少年は、濡れた瞳を一途に向けながら、寄り添うように慎ましく身を寄せてくる。どこか品を感じさせる仕草の一つ一つに、彼が王家の生まれとも喧伝されていたことを、エルフィンはふと思い出した。
「部屋を飛び出したのは……どこか、帰るあてが?」
現れたスライムから、突発的に逃げ出しただけのことかもしれないが。名家の生まれであるのならば、戻れる先もあるのではないかと。そう口にしたエルフィンを見つめたまま、少年は小さく微笑み、いいえ、と。口にした。
「いいえ、エルフィン様。僕の国は……もう、人しか売るものがないくらいに貧しいから。……僕は最初から、売られるために生まれたのです」
戻ればそれは契約違反です、と。目を伏せた少年の、震える睫毛が寂寥を感じさせて。不用意なことを尋ねてしまったとエルフィンは後悔したが、少年は気に病まないで欲しいと言いたげに、穏やかに微笑んだ。
「それはもう、仕方のないことなので。エルフィン様がお顔を曇らせることはありません。……でも」
覚悟は決めていたはずだったけれど、と。憂うように呟いた少年の瞳から、またハラリと涙が落ちる。
過ぎた日々の過酷さを思い出してか、悲哀と苦痛に濡れた瞳は、それでもどこか美しかった。そっと腹部を手で押さえた少年が、涙声で言葉を続ける。
「でも、嫌です。もう、痛いのも、苦しいのも。……子、供を。取られる、のも」
その身にあまる凌辱を受けながら、恐らくは苦痛ゆえに正気を手放せなかったのだろう少年が零したその一言に、エルフィンは瞳を陰らせた。――これこそが、きっと。彼が耐えていたのだろう弱音の全てだと思ったから。
「愛でることも、育てることもできないのに……もう、産むのは嫌です。だから」
僕はここから出て行きたいのです、と。ぼろぼろと涙を零しながら、それでも迷いなく紡がれた少年の言葉は、己の尊厳を守る術を知っているものの言葉だった。
たとえ命を落とすことになっても、と。声にされることはなかった部分こそを聞き逃すことができなかったエルフィンは動揺したが、それでも、彼を止めることはできないだろうと知っていた。
(……せめて、魔力が戻っていれば)
ほんの僅かな炎を扱っただけで、あれほど疲労感を覚えたのは。気力の問題もあるだろうが、そもそもの魔力が回復し切っていないのだろう。奴隷の身分から解放された後にも、自堕落に惚けて過ごしていた日々を悔いた所で、一朝一夕でどうにかなるものでもない。
だが、戻るあてもない。恐らくは、戦う術も持たない彼を一人、辺境とは言え魔界に放り出す気にもなれなかった。
「一緒に行こうと……言えたら、いいのだが。今の私は」
言葉を濁し、歯噛みしたエルフィンの姿に、思う所があったのだろうか。気遣わしげな顔をして、遠慮がちにエルフィンの手に触れた少年は、労わるようにその指先を握りしめてきた。
「……エルフィン様。僕の名前は、リアムと言います」
「あ……ああ」
そう言えば、彼の名前を聞いていなかったと。今更気付いて顔を上げたエルフィンの目前で、濡れた黒い瞳が瞬く。
ちゅう、と。可愛らしい音を立てて控えめに口付けられて。心臓を直接揺さぶられたかのような衝撃を覚えたエルフィンは身を引きながら、震える唇から声を零した。
「リアム……?」
はい、と。答えた少年が、控えめな微笑みを浮かべながら、そっとその身を擦り寄せてくる。思わず身を強張らせたエルフィンを見つめる瞳は悲しげで、それでも何度踏み躙られても、決して汚せなかった優しさを湛えて美しかった。
「僕は……人魚の体質に、近付けられているので。多分……エルフィン様を、癒せます」
ほんの少しの躊躇いを宿しながら、それでもはっきりと口にした少年は、もう一度身を乗り出して口付けをした。触れ合った粘膜から――高純度の魔力と生命力を流し込まれて、酩酊する。
「リアム……っ!」
教えてもらったばかりの名に、制止の意を込めて呼びかけるが、リアムはやめようとしない。
回復力に長けた人魚であれども、他者に生命力まで分け与えては、彼の寿命を損なうだろう。柔らかく背に絡む腕の感触に、ざわりと肌を粟立たせたエルフィンはなおも彼を止めようとしたが、はらりと頬にこぼれ落ちた涙の温度に焼かれて口を噤んだ。
「エルフィン様。……僕に優しくしてくれたのは、あなただけ」
お慕いしています、と。優しく悲しい声で囁いて泣く少年を拒むことができなかったエルフィンは、縋り付いてくる小さな体を抱き留めながら、静かに瞼を伏せた。
気力を振り絞った結果なのか、悲観的な思考を一時的にでも打ち切ったからなのか。健やかとまでは行かないが、いくらかは軽くなった頭をベッドに沈めることはなく、エルフィンは眠る少年の番をしていた。もしあのスライムが戻ってくるようなことがあれば、今度こそ狂ってしまうような気がしたから。
「……可哀想に」
ぽつりと呟いて、腫れ上がってしまった瞼を指先で撫でる。人魚の回復力があろうとも、疲労ばかりはどうすることもできないのだろう。目の下には隈があり、青白い肌には衰弱の気配があった。
それはまあ、自分も人のことを言えた義理ではないのかもしれないが、と。眼差しを伏せて苦笑すれば、少年の睫毛が微かに震えた。
そのまま薄らと開かれた瞳に、起こしてしまっただろうかと申し訳なくなる。けれどそんな恨み言に瞳を曇らせることもなく、少年はまたじわりと涙を滲ませると、騎士様、と。唇だけで囁いた。
「まだ、起きない方がいい」
すぐに身を起こそうとする少年を、慌てて制止しながら背に手を添える。大丈夫だと言いたげに、ふるふると首を打ち振った少年は、濡れた瞳でエルフィンを見上げた。
「助けて、くれて。ありがとうございます。……ありがとうございます……」
ただ言葉を紡ぐだけの間にも耐えられないように、はらりと涙を落とした少年は、何度見ても性奴隷として生きるには華奢過ぎる。彼の苦痛を想えば、エルフィンが今してやれたことなど、なかったことにも等しいのに。それでも奇跡に直面したとばかりに感じ入っている少年に、エルフィンはかける言葉を探すこともできずに目を伏せた。
騎士様、と。無垢に繰り返す少年を見つめ返す勇気が持てないまま、自嘲気味に口を開く。
「……エルフィン、だ。私はもう、騎士と名乗れる身分ではないから」
そう口にすれば、察するところはあったのだろう。一度言葉を詰まらせた少年は、従順に、エルフィン様、と。音を紡いだ。
「お優しい、エルフィン様。……それでもあなたは、僕を助けてくださいました」
ありがとうございます、と。そう続けた少年は、濡れた瞳を一途に向けながら、寄り添うように慎ましく身を寄せてくる。どこか品を感じさせる仕草の一つ一つに、彼が王家の生まれとも喧伝されていたことを、エルフィンはふと思い出した。
「部屋を飛び出したのは……どこか、帰るあてが?」
現れたスライムから、突発的に逃げ出しただけのことかもしれないが。名家の生まれであるのならば、戻れる先もあるのではないかと。そう口にしたエルフィンを見つめたまま、少年は小さく微笑み、いいえ、と。口にした。
「いいえ、エルフィン様。僕の国は……もう、人しか売るものがないくらいに貧しいから。……僕は最初から、売られるために生まれたのです」
戻ればそれは契約違反です、と。目を伏せた少年の、震える睫毛が寂寥を感じさせて。不用意なことを尋ねてしまったとエルフィンは後悔したが、少年は気に病まないで欲しいと言いたげに、穏やかに微笑んだ。
「それはもう、仕方のないことなので。エルフィン様がお顔を曇らせることはありません。……でも」
覚悟は決めていたはずだったけれど、と。憂うように呟いた少年の瞳から、またハラリと涙が落ちる。
過ぎた日々の過酷さを思い出してか、悲哀と苦痛に濡れた瞳は、それでもどこか美しかった。そっと腹部を手で押さえた少年が、涙声で言葉を続ける。
「でも、嫌です。もう、痛いのも、苦しいのも。……子、供を。取られる、のも」
その身にあまる凌辱を受けながら、恐らくは苦痛ゆえに正気を手放せなかったのだろう少年が零したその一言に、エルフィンは瞳を陰らせた。――これこそが、きっと。彼が耐えていたのだろう弱音の全てだと思ったから。
「愛でることも、育てることもできないのに……もう、産むのは嫌です。だから」
僕はここから出て行きたいのです、と。ぼろぼろと涙を零しながら、それでも迷いなく紡がれた少年の言葉は、己の尊厳を守る術を知っているものの言葉だった。
たとえ命を落とすことになっても、と。声にされることはなかった部分こそを聞き逃すことができなかったエルフィンは動揺したが、それでも、彼を止めることはできないだろうと知っていた。
(……せめて、魔力が戻っていれば)
ほんの僅かな炎を扱っただけで、あれほど疲労感を覚えたのは。気力の問題もあるだろうが、そもそもの魔力が回復し切っていないのだろう。奴隷の身分から解放された後にも、自堕落に惚けて過ごしていた日々を悔いた所で、一朝一夕でどうにかなるものでもない。
だが、戻るあてもない。恐らくは、戦う術も持たない彼を一人、辺境とは言え魔界に放り出す気にもなれなかった。
「一緒に行こうと……言えたら、いいのだが。今の私は」
言葉を濁し、歯噛みしたエルフィンの姿に、思う所があったのだろうか。気遣わしげな顔をして、遠慮がちにエルフィンの手に触れた少年は、労わるようにその指先を握りしめてきた。
「……エルフィン様。僕の名前は、リアムと言います」
「あ……ああ」
そう言えば、彼の名前を聞いていなかったと。今更気付いて顔を上げたエルフィンの目前で、濡れた黒い瞳が瞬く。
ちゅう、と。可愛らしい音を立てて控えめに口付けられて。心臓を直接揺さぶられたかのような衝撃を覚えたエルフィンは身を引きながら、震える唇から声を零した。
「リアム……?」
はい、と。答えた少年が、控えめな微笑みを浮かべながら、そっとその身を擦り寄せてくる。思わず身を強張らせたエルフィンを見つめる瞳は悲しげで、それでも何度踏み躙られても、決して汚せなかった優しさを湛えて美しかった。
「僕は……人魚の体質に、近付けられているので。多分……エルフィン様を、癒せます」
ほんの少しの躊躇いを宿しながら、それでもはっきりと口にした少年は、もう一度身を乗り出して口付けをした。触れ合った粘膜から――高純度の魔力と生命力を流し込まれて、酩酊する。
「リアム……っ!」
教えてもらったばかりの名に、制止の意を込めて呼びかけるが、リアムはやめようとしない。
回復力に長けた人魚であれども、他者に生命力まで分け与えては、彼の寿命を損なうだろう。柔らかく背に絡む腕の感触に、ざわりと肌を粟立たせたエルフィンはなおも彼を止めようとしたが、はらりと頬にこぼれ落ちた涙の温度に焼かれて口を噤んだ。
「エルフィン様。……僕に優しくしてくれたのは、あなただけ」
お慕いしています、と。優しく悲しい声で囁いて泣く少年を拒むことができなかったエルフィンは、縋り付いてくる小さな体を抱き留めながら、静かに瞼を伏せた。
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