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禁忌への覚悟
79.
しおりを挟む一呼吸を要して。
「・・記録はあります。ですが、」
冬乃は、小さく頭を下げた。
「ごめんなさい、“歴史”の勉強不足で・・詳しくは存じ上げないんです」
冬乃の口からではない、山南の口から確認しなくてはならない。
今、どこまでの情報が彼の元にあるのか、
「ただ、年末に天狗党が、京へ向かっていたということは聞いた覚えがあります、今も・・でしょうか?」
何を、その心に想うのか。
今日は二月一日。つまり、
つい先日に、天狗党の身柄は幕府に引き渡され、およそ人道でない扱いで彼らは、魚の貯蔵用の倉へ放り込まれたばかりなはずだ。
まだ、その情報は山南達に届いていない可能性が高いとはいえ。
冬乃の危惧は。
山南が、それを知った時、
そしてこの後の処刑を知った時、
(もし、それで・・)
「ああ、彼らは京へ向かってきていたが、一橋公を頼って加賀で投降したと聞いている」
「そうでしたか・・」
山南の返事に、冬乃は小さく頷いた。
(やっぱり、情報はまだ届いていないんだ)
「まあ、同家中の一橋公であれば、悪いようにはしまいと、安心してはいるものの、・・やはり万事が終わるまでは気懸りではあってね」
冬乃は。
胸奥に刺し込んだ息苦しさに。ふらつきそうになった体を、咄嗟に背後で片手を突いて留めていた。
なにげないふりを装って、前へ向いて小さく息を吐き。
「そうですか・・」
漸う返事をした。乾いた喉を潤そうと、湯呑を両手に支えて取る。
水戸の天狗党が、
幕府に背信の意図があっての挙兵でなかったことは、この時期の知識層には周知の事だ。
朝廷も、幕府内にも諸藩にも、彼らの穏便な処遇を望む声は強く。
篤実で気の優しい山南もまた、事態の顛末を案じるのは、おもえば当然だった。
(だけど、・・・聞いてくる程までに心配しているとなると)
冬乃は湯呑を持つ手に力を込めた。
胸騒ぎがする。
(・・うろたえていても、どうにもならない)
「何か、思い出したらお伝えいたします」
顔の緊張を気づかれないように。冬乃は隠すようにして会釈をした。
「有難う」
山南はそう言うと、膝を動かし、共に持ってきていた膳へと向き直った。
・・水戸は。
あの芹沢たちの母郷であり、
幕末期のじつに初期から、尊王攘夷志士を輩出した、魁の藩であり。
そして先の禁門の変を経た今、幕末期最後に残った純真たる尊王攘夷志士の集団、といってもいい天狗党を生んだ藩。
幕末における水戸藩は、悲壮なまでに藩論が分裂していて。その悲劇は、のちの明治まで続くこととなる中で、
彼らのうちの急進派が集い、尊王攘夷の決行を目指して昨年挙兵した集団が天狗党だった。
しかし、初期の天狗党やその分隊は、草奔の志士の中に悔やまれることには暴徒も交え、
軍資金の徴収と称して、宿場の焼き討ちや民衆の殺害まで行ったために、幕府から討伐に追われることとなった。
のちに穏健派が加わった頃から、統制のとれた集団へと変わってゆくも、時すでに遅く、幕府の征伐軍との交戦は免れえず、
元々幕府へ背信の意図があったわけでは決して無く、あくまで攘夷決行のための軍であった旨を陳謝するために、
朝廷および水戸生家の一橋慶喜がいる京を目指し進軍し、彼らは加賀の地にまで達していた。
そのさなか、幕府側征伐軍の総督として慶喜が彼らを迎え討つ側に在る事を知り。
主君にも等しき慶喜に、万一にでも敵するような事態になってはならないと、彼らは京へ入るを諦め、降伏を決意したという。
加賀藩を通して降伏を受理した慶喜は京へ戻り、加賀藩は彼らの沙汰が決まるまで丁重に預かることとなった。
そこまでは良かったのだ。
(なのに・・)
手に感じる汗に冬乃は、膳へ湯呑を戻しながら。そっと横目に山南を窺った。
この後の事態を。
山南だけではない、この時期の誰もが、予想さえしていなかったのではないか。
一説には、年が明けて慶喜の元へとやってきた、時の若年寄、田沼玄蕃頭が『天下の公平な沙汰』を主張し。天狗党への厳罰を断行することとなる。
慶喜も立場上、止めることは無かったのか、または完全に田沼に一任し、その後を知るよしもなかったか。
二人の間でどのようなやりとりがあったにせよ、慶喜から全権を引き継いだ田沼は、一月末、加賀藩から天狗党の身柄を引き取るやいなや、
彼らをニシンの貯蔵用の倉へ、身ぐるみ剥がして投げ込み、食事もろくに与えずに放置し。
(そして・・)
今日より三日後。田沼は彼らの大量斬首を開始することとなる。
二十三日までの、数日にわけて行われた処刑は、その数、三百名を優に超した。
『武士の情け』を失った、
血迷ったかと。
幕府の処置を非難する多くの声の一方で、
彼ら天狗党に、町を奪われ家族を殺された民にしてみれば、確かに『当然に公平な処罰』ですらあったのだろうか。
それでも、この大量処刑が世間に与えた衝撃は、計り知れず。
(処刑が始まり数日もすれば、新選組にも情報が来るにちがいない・・・その時・・)
或いは不可能ではないかと。危惧していた事。
冬乃は胸内を覆い始める不安に、震える手を握り締めた。
山南が、
今の時点でさえ、一橋公ならと安心しながらも彼らを気にかけ、こうも案じているのならば、
この後の幕府の対応を知れば彼は、間違いなく幕府に失望してしまうだろう。
そして、そうなった時。
冬乃どころか誰が、彼を救うことなど、できるのか。
希望を託し、信じて仕えた幕府への、
その深い失望感から、
―――新選組に居る意味を見失う、
虚無感から。
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