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禁忌への覚悟
76.
しおりを挟む店先に呼んでもらった籠で二挺、連れ立って屯所へと帰ってきた後、
「ご馳走様でした」ともう一度深々と礼をして別れてから、冬乃は深い溜息をついた。
いつまでたっても。好きな男のまえでは、どう振舞えばいいのか全然わからないでいる。
惨めな気分にさえ、なって。
今一度、冬乃は盛大な溜息をつき、がっくりと肩を落とした。
それまで休みがちだった穴埋めに、連日それこそ朝から晩まで働き通し、
さすがに疲れが出てきた、ある日の夜に冬乃は、
巡察なのか隣に沖田がいない夕餉の席で、ぽつんと食事をしながら危うく泣きそうになった。
沖田とは、あれから食事時などに顔を合わせても、挨拶や少しの世間噺ばかりで、
どこか互いによそよそしい態度になっていることを感じないわけにいかなかった。
冬乃のほうは気まずいからなのだが、沖田のほうまで何故か同じ様子で、完全に表面的な浅いつきあいの態度でくることに、
静かながら確実に冬乃の胸内は蝕まれていて。
(やっぱりあの台詞を言ったせいなのかな・・)
冬乃の、沖田への気持ちがあの時、伝わってしまったのかもしれず。
だから自然と距離を置かれているのだとしたら。
(もうばか)
なんであんなふうに言ってしまったのだろう。
今更どんなに後悔したところで如何しようもないが。
やはりどうかすると涙が滲んできてしまいそうで、冬乃は慌てて目を瞬いた。
明日は休息も兼ねて、千代のところに顔を出す為、茂吉に休みをもらったが。
こんな気持ちのまま、沖田の未来の恋人にのこのこ会いに行くのは、いくらなんでも自虐的すぎるのではなかろうかと。
思っても。
(こんなの序の口なんだよねきっと)
沖田と千代が恋仲になってしまえば、今の憂鬱度合いどころではないのだから。
(わかってるのに)
わかってないのだきっと。
一緒にいられるだけで幸せだと、
一時はあれほどまでに強く、確実に感じていたのに。
もう平静でいられる、今度こそもう大丈夫だと、安心し始めた頃に、
またちっとも平静でいられなくなる、大丈夫じゃなくなる。
何回、こんな嵐の心模様を繰り返せば、真に落ち着けるのだろう。
(そんな日なんて来ないのかもしれない、もはや)
沖田と接し続ける限り延々と、一喜一憂して。
(でもこんなふうに悩めるくらいに、彼の傍に居られることは、やっぱり奇跡で贅沢なことで。だから)
今のようになんとなく距離を置かれてしまって、冬乃の気持ちは到底受け入れてもらえないことが、これで分かっても、
嫌われてはいないだけ、いいではないか。
・・違う、
(沖田様を、病から護れる可能性が残っているうちは、)
究極の選択でいえば。
たとえ沖田に嫌われてさえ。
以前のように時代を遠く隔て、彼の傍に居られない日々よりかは、
こうして傍に居られる日々を結局自分は選ぶのだと。
冬乃は、ふと思い至った。
(・・・そう、だった)
何を惑うことがあったのだろう。
沖田にとって最も幸せである道を彼が歩めるのなら、それだけでいい。
いま冬乃のすべきことは、そのために何を冬乃が選択するのが最善であるのか、早く、どうにかして見極めること。
(彼が私のコトどう想ってるとか、そんなの悩んでる場合じゃなかった)
心に鬱積していた澱を吹き飛ばすように。冬乃はつと背を正し。ひとつ深呼吸した。
(まずはもう一度、お千代さんに会いにいこう)
何かしら、また判断の材料に得られるものがあるはず。
結論までの猶予はあまり無いとはいえ、まだ間に合う内に、選択肢を狭めないように、
今はとにかく全ての可能性を諦めずに、あたってゆくしか。
「・・・不思議ね、ほんとに」
千代の声に、冬乃は顔を上げた。
店内の喧噪に阻まれて、よく聞き取れず。
ここの甘味屋は、蟻通たちと行った茶屋寄りの店や、街道沿いにあるような店とはまったく雰囲気が違い、
女性しか入ってこれそうにない、もとより女性のための甘味屋といった様相で。男の存在のない此処店内で、遠慮というものから解放された女たちの姦しさたるや、とにかく尋常でなく。
(いつの世にも、こういうお店は存在するんだなあ)
「ごめんなさい、もう一度言ってください・・」
騒々しさに、もはや苦笑したままの冬乃は、そしてもう一度、聞き直した。
「不思議・・って言いましたの」
この店に冬乃を連れてきた張本人の千代もさすがに、この周囲の音量には閉口している様子で、同じく苦笑しながら繰り返した。
「だって、貴女とは何かすごく・・なんていえばいいのかしら。ほんとこうして一緒にいると、やっぱりもっとずっと前から一緒にいたような・・」
冬乃は頷いてみせた。
「私に初めて会った気がしないって、お千代さん言ってくれてましたよね」
忘れるはずもなかった。
冬乃とて、出会った時、強烈な既視感に驚いた。
もっとも冬乃の場合は、千代だけへの既視感というよりは、あの場の、・・沖田と酒井と喜代が居て、夏の、うだるような暑さの中、あの家を背にした光景・・・・
(・・・変なの)
改めて思い出すと、随分とおかしな既視感ではある。
(て、既視感自体が変なんだろうけど)
「冬乃さんも感じません?」
互いの脇には、さきほど古着屋で買い込んだ服を包んだ風呂敷包みがあり。
千代の持ってきた鮮やかな色彩のその風呂敷に、もう何度もつい視線を奪われている冬乃は再び、千代のその言葉に彼女を見返した。
「もちろん私も、感じます」
事実で。
あの既視感も、千代の言っているような感覚も確かに、冬乃の心にまるで鉤の刺さるかのように引っかかっている。
「こういうのって、運命っていうのかしら?」
ふふ、と千代が嬉しそうに微笑って。
「私達、すごくすごく深いご縁があるに違いないわ」
「・・そうなのでしょうね」
きっと。
何か、このタイプスリップの奇跡の、見えない意図のような力にこれも関係があるのだろうと、冬乃は想像しているものの。
そもそも、本当に何らかの意図が働いているとして、それが千代どころか沖田にすら関わっているのかどうか本当のところ分からない。
ただ毎回、冬乃は土方の文机につまずいて出現しているのだから、
あるとすれば、すくなくても土方か新選組の誰か又は何か、に関わる意図なのだと考えるのが自然ではあり。
そしてこれまで土方よりも他の誰よりも、此処へ来た当初から沖田と関わった回数が圧倒的に多いともなれば。
(だから・・ううん、何よりも)
沖田への、出逢う前からの強い想いをもってして冬乃は、
理屈でどうこう考えるよりも直感的に確信している。もし、確かに何かの意図がこの奇跡に働いていて、そして冬乃に何かの使命が課されているのならば、
それは間違いなく、沖田に関しての事だと。
「外に出ましょうか・・」
新たに姦しく談笑しながら三人組の女性が入店してきて、千代はもう、困ったわと顔に描いたような表情で冬乃を見てきた。
「はい」
冬乃も同じ表情をしただろう。頷いて、互いに立ち上がった。
「ごめんなさいね。前回初めて来た時には、あそこまでうるさくなかったの」
「いえ」
勘定を終えて二人は外の通りに出ながら、苦笑し合う。
「まだお話したいことはいっぱいあるのに」
千代がぽつりと呟いた。
「歩きながらでも、いいかしら」
「もちろんです」
こころなしか暗い声になった千代を、冬乃が横から覗き込むと、
「この前のことよ」
千代が顔を上げて、冬乃を見上げてきた。
(この前の事・・)
千代に、肺結核の患者との接し方をお願いした事だろうと。冬乃はすぐに分かって。
「冬乃さん、この前、労咳の患者さんを看ていらしたお知り合いが亡くなったこと、教えてくれたじゃない」
はたして千代は、切り出してきた。
「ごめんなさい、あの時は正直おどろいてしまって、ところどころきちんと覚えてなくて・・もう一度、詳しく話してはいただけないかしら」
冬乃は。千代がこうしてもう一度聞いてきてくれたことに、心の底から嬉しくなりながら、
「いきなりあんな話した私がいけないんです。あの時は驚かせてしまってごめんなさい」
前置いて。あの時のように、作り話であって作り話ではない忠告を、もう一度練り出した。
「私の知り合いの方は、労咳の末期の患者さんを、お千代さんのように献身的にたびたび訪れては看病なさってました。自分は労咳にはかからない体質みたいだから大丈夫と、・・お千代さんのように仰って」
「そう・・」
千代は少し顔を曇らせ、それでも素直に頷いて冬乃に先を促す。
「でもある時、体調を崩されて、その後もいつまでも咳が止まらなかったんです。でも風邪だと思ってらした」
「・・そうじゃなかったのね」
「はい」
冬乃はゆっくり歩きながら、言葉を探しては紡いでゆく。
「労咳にかからない体質の方なんて、本当のところはいないと思うんです。誰もが、体調を崩す時くらいあって。そんなときが危ないんです。だから、」
立ち止まり冬乃は。千代を見据えた。
「お千代さんにも決して、油断していてほしくないんです」
「わかったわ」
千代が静かに頷いた。
「でも看ないわけにはいかないのよ、どうしても」
困ったように続ける千代へ、
今度は冬乃が頷いてみせ。
「仕方ありません。お仕事ですものね、ですけど、」
「これからお伝えすることはどうか必ず実践してください。ひとつには・・」
前回に伝えた注意事項を、そして冬乃は繰り返した。
「あの、鼻と口元を覆うって・・それにお日様の光っていうのは・・?」
けれど千代が途中で首を傾げて。
結核菌は空気感染を起こし、そして紫外線には弱い。だがそんな知識は、この当時に無い。
近寄るとうつる。そんな漠然とした恐怖感が支配していた時代だ。
「そういった看病の仕方が良いと、どこかの文献で目にしたことがあるんです」
冬乃はごまかした。
「文献って」
いや、ごまかしきれてはいまい。千代がむしろ余計に驚いて。
「医学書・・お読みになられたの?」
「はい。蘭学のほうではありますが」
冬乃は腹をくくって頷いた。いっそ、多少の医学、それも西洋の蘭方医学をかじっているとでも思ってもらえたほうが、もしもこの先、千代を西洋薬で治療する機会があるとすれば、事も進め易いはずだと。
千代が、当然だが目をまんまるにした。
「冬乃さんって、・・」
何者?
と口にしなくても言いたげである。
使用人をしていると聞いたはずなのに、この時代にはまだ少数派な蘭方医学の心得がある、というのはさすがに奇妙に決まっている。
「いろいろ実家のほうで事情がありまして」
今度こそ冬乃はごまかした。
「・・・」
それ以上いわない冬乃を見やって、深追いしてはいけないと思ってくれたらしく千代が押し黙る。
(お千代さん、ごめんなさい)
冬乃は胸内で詫びながら、
今のやりとりと千代の素直さに、たしかな希望がみえた気がして。
祈りを込めつつ、ほっと冬乃は細く息をついた。
別れ際、千代が「あ、そうだわ」と振り返った。
「じつは江戸におります親戚が大病をして、母も私も近く治療に向かうのです。そのまま今年は、冬を越すまで江戸に滞在するつもりですの。なのでまた長らくお会いできなくなってしまいますけど・・」
お土産、いっぱい持ってきますわ
と千代が微笑って。
冬乃は、
一瞬に胸内に奔ってしまった安堵と、同時に起こった罪悪感とで、「あ・・りがとうございます」と間の抜けた返事を零してしまい、
すぐに、
「どうかご親戚の方が良くなられますように」
慌てて継ぎ足した。
(お千代さんがしばらく居ない・・お千代さんと沖田様の間が進展しないで済む)
理由が理由なだけに、喜んでいいことではないが。
沖田と千代とのことで迷っていてもいい時間が、どうやらもう少しだけ確保された、
その安息感からどうしても逃れ得ずに。
気の抜けたまま、冬乃は別れの挨拶を終えても、道の向こうへ歩んでゆく千代の小さな背を、ぼんやりいつまでも見送っていた。
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