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禁忌への覚悟
54.
しおりを挟む五日の日暮れに漸く止んだ雨は、多量の湿気を置き去りに、本格的な猛暑へと夜の京都を陥れた。
翌六日に至っては、昼が近づくにつれてもはや灼熱と化し、冬乃は屋内に居ても倒れそうになりながら、沖田達の帰りの報を待った。
昼頃になって、ついに隊士の誰かが「帰ってきたぞ!」と叫ぶのを聞いて、冬乃は門まで飛び出した。
(わ・・・)
遠くから、
真っ赤、としか形容しようのない集団が見えて。
その、返り血や傷で血塗れになって凱旋してくる男達に。
冬乃は、瞬間、暑ささえ忘れて立ち尽くした。
近づいてくるにつれ、
その男達の、まさに先頭を、肩にだんだらの羽織を引っ掛けて歩んでくる沖田と土方の姿、
そのすぐ後ろに、隊士たちに前後左右を護られるようにして歩んでくる近藤を。冬乃の目は捉え。
その近藤の隣には、藤堂の姿もある。そして藤堂が早くも冬乃へ大きく手を振ってきた。
額に傷がある様子は無い。
(安藤様は・・っ)
はっと安藤を探した冬乃の目には、穏やかに歩んでくる彼の姿もすぐに映った。
(良かった・・・!)
彼らの無事に、安心したら膝が震えそうになり、冬乃は門に咄嗟に手をつきながら。
ふと視界に映った道の反対側には、為三郎達も見に来ていて。八木妻女と目が合い、互いに会釈を交わし。
そのうち沖田達が、門まで辿りついた。
「おかえりなさいませ」
冬乃は押し寄せる様々な感情に震える手を握り込んで、丁寧にお辞儀をしてみせた。
「ただいま、冬乃さん」
近藤が輪の中で、真っ先に応えてくれる。
彼らが門の中へ入ってゆく中、沖田が冬乃の前で立ち止まった。
その服に凄まじい返り血を浴びている。乾ききっているはずなのに、むんと血の臭いがする。
さすがの沖田も、狭い屋内の接近戦で返り血をいちいち避けている場合ではなかったのだろう。
どこか青い顔をしているのが気になって、冬乃は「どうされましたか」と咄嗟に発声したものの、
沖田を見上げながら、次に何て聞いてみればいいのか迷った時。
「眠い」
と第一声が落ちてきた。
(え?)
「ったく、こいつには脅かされた」
隣に居る土方が、刹那に吐き捨てて。
「会所行ったらうつ伏せでぴくりとも動かねえからまさかと思えば、ただの眠気で昏倒してやがった」
「昏倒、て大袈裟な。残党狩りも終わって漸く仮眠とってたところに貴方は、」
「いや、おめえのあの寝方は昏倒だ、怪我人でひしめいてる中であんな紛らわしい寝方してんじゃねえ」
(え、何)
勃発した二人のやりとりに目を丸くする冬乃の前、沖田がげっそりと、その青い顔を土方に向ける。
「こっちは昨日の夜明け前から、働き通しだったんですよ、ぶっ倒れるように寝てて当然でしょう。叩き起こされた身にもなってください」
・・ようするに、やっと眠れたと思ったらまたすぐ、吃驚した土方に起こされたらしい。
「へっ、脅かすおめえが悪い」
「ひどいな」
残党狩りは夜通し行われたはずだ。
(眠くてあたりまえです・・)
このところの連日の巡察、五日早朝から昼過ぎまでの探索、ろくに食事もせぬまま屯所へ戻ってすぐまた会所へ向かい、夜の数時間の歩き通しに、池田屋での死闘、続いた夜通しの町中での残党狩り、
朝になってつまりやっと仮眠したのだろうが、それも間もなく終わり、凱旋の路について、そして今は昼前。
沖田のように昨日の早朝から動いていた隊士の割合は少数でも、
おそらく皆、それなりには似たり寄ったりで、未だ冷めやらぬ興奮のおかげで、こうして起きているのだろうが、
沖田のことだから、一早くその手の興奮状態からは抜け出していて、まっとうに極度の睡眠不足と疲労に向き合っているに違いない。
(本当にお疲れさまでした、沖田様)
土方が近藤のところへ歩んでゆくのを目に。
「冬乃さん」
ふと、沖田が腰に下げていた冬乃からの水筒を手に取り。
「ごめん。言われたとおり水は入れたんだが、出る時、会所に置き忘れてしまって飲めてない」
水筒を手渡されながら、「いいえ」と冬乃は首をふった。
振りながら。
(あれ・・?)
浮かんだ疑問に、おもわず沖田を見上げていた。
(飲んでも無くて・・熱中症で倒れてもない・・・?)
「あの、・・仮眠とられる時以外に、どこかの会所へ行かれたりも、してませんか?」
「どういう意味?」
「あ、たとえば闘いの途中とかに、・・」
「闘いの途中?」
「なんのために?」
横からの藤堂の声に、冬乃は、はっと藤堂を見やった。
近くで見ても、やはりその額に何も傷がないことに、冬乃は改めて安堵しながら、
「沖田が戦闘の途中で抜けるわけないでしょ」
呆れたように微笑う藤堂の声を受けて。
「土方さん達が来てくれるまで、そもそも俺達あの場で外に出るなんて余裕なかったよ。・・あ、池田屋って旅籠で俺達、浪士の集まりに出くわしてさ、」
藤堂が、こちらはまだ興奮冷めやらぬ様子で続ける。
「あの場で死に物狂いで向かってくる奴らとは死闘だったし、逃げ出す奴らは殺すわけにはいかないけど、捕縛してる暇ないから峰打ちはできないし、でも逃げられないようにしなきゃならないから、追いかけ回して傷負わせて、でもそうするとまた、殺されると思って歯向かってくる奴も出てくるでしょ。もう大変だったんだから」
そして、そんなふうに冬乃に説明してくれる藤堂に、
「まったくだよ、」
沖田が相槌を打ち。
「もう埒あかないから逃げてる奴は吹き抜けへ蹴り落とした」
(え)
「ほんとさ勘弁してよね、何かいきなり降ってきたと思ったら。驚かさないでよ」
「仕方ないだろ、」
沖田が笑う。
「とにかくあの場じゃ片っ端から戦闘不能にさせるしかなかったんだから」
(・・・じゃあ)
けろっとしている沖田を冬乃はまじまじと見つめた。
(沖田様が病で離脱したというのは、やっぱり永倉様の史料の記録間違い・・?)
もっともその顔なら、死ぬほど眠そうだが。
今も大あくびをしている沖田を見上げながら冬乃は、永倉の記録を思い起こす。
(たしか、)
『浪士文久報国記事』、永倉が直筆した記録。
それには、
池田屋の主人が、現れた近藤達に驚き、
二階の志士達へ告げるためか主人は、奥の階段のほうへと走ってゆき、
近藤達はその後を続いて追ったところ、
二階で志士たちが抜刀し、
近藤はそれに対して「御用改めである、手向かうものは斬り捨てる」と威嚇した。
それでも斬りかかってきた者を沖田が斬り捨て、それにより下へ逃げる者が出て、
近藤は「下へ」と指図した。
とあったはず。
なら、近藤達はある程度、奥の階段を上がっていて、
そして沖田が最初に斬り伏せたなら、近藤と沖田が先頭を昇っていたはずで、
永倉と藤堂は昇りきらずに二階を見上げる中途の位置、または表階段側を昇りきった位置に居て、
階段は近藤達に塞がれているから、志士達は二階から一階へと飛び降りて逃げだしたのだろう。
(おかしいのは、)
そこで『沖田総司病気ニテ会所江引取』の一文がいきなり続いていることで。
まるで誰かが、その空いていた余白に後から書き足したのではないかとさえ思う程に唐突で、不自然な。
(もしそんなさなかで“病気”で何らかの不調を起こしていたら、斬られもせずにいられるものなのか、ずっと不思議だった・・)
この謎の沖田に関する一文の直後は、
『是(これ)より三人奥奥ノ間ハ近藤勇~台所より表口ハ永倉新八~庭先ハ藤堂平助~』と、
近藤、永倉、藤堂三人の、その後の移動先が書かれていて。
是(これ)、つまり、沖田が斬り捨て、志士が一階へと飛び降りてゆくのへ近藤が「下へ」と指図した、それにより、永倉と藤堂が一階へと完全に戻って、近藤自らも階段を駆け下り一階の奥の間へ、永倉は台所、藤堂が吹き抜けの中庭を固めた。
そのように、謎の一文を除外して前後をそのまま続けて読めば、つまり沖田がその場に留まり、近藤、永倉、藤堂の三人が、煌々と照る灯りに助けられつつ一階を固めに行った、と受け取れる。
しかし謎の一文を挟んだ場合。そうして三人が、逃げ場を求めて飛び降りる志士達に対して一階の場を死守するまでの間、沖田はどうしたのか。
そもそも報国記事での永倉の一文では、とくに沖田が“倒れた”とも書いてはいない。
なんらかの病気の不調が出たが倒れるほどではなかったとしたなら、沖田がその混乱と乱闘のさなかをひたすらぬって玄関まで進み、
死闘を繰り広げている近藤と仲間を残して、ひとり遠くの会所まで行ったということになる。
あまりにも、それは考え難い。
ちなみに永倉が老年に口述で遺した小樽新聞の記事においては、”肺病で倒れた”とある。
肺病はどうとしても仮に本当に沖田が倒れたのだとして、この状況で誰が、奥の階段から沖田を無事に運び出して会所へ連れていけたのか。
その時点でそんなことが無事に済むような経路も人手もあるはずがなく。
(しかも倒れたというのは新聞記者さんが、晩年の永倉様から話を聞いて書いたものだから、)
記者の方がところどころ読者に読ませるために盛り足した文章であることは否めず。
そもそも永倉の直筆の報国記事と比較すると、池田屋内部での、配置から、事の時系列まで一致していない。
勿論、肺病による喀血云々に至っては、どちらにも記載は無い。
(あまたある当時の記録の中で、沖田様が戦線離脱したと記録しているのは、永倉様だけなんだよね・・それも、後世に誤解を生む元となった「病気にて」の言葉付きで・・・)
続く史料・資料も、永倉の書の写本を保持していた永倉の知己が書いたものであったり、永倉の遺した話をそのまま転用したり参考にしたもの。
近藤の遺した書簡には勿論、記録は無い。
(でも、もし永倉様のご記憶違いの場合、何故そんなことが・・・?)
「闘いのさなか、永倉様と会いました・・?」
冬乃は聞いてみた。
「永倉さん?」
沖田が一瞬、記憶を探るような表情をし。
「いや、会ってないね」
「永倉さんは俺と一階を持ちまわってたから、沖田と会うはずないよ」
藤堂が答えて。
「そういえば、近藤さんまで早々に一階に来たし、沖田ひとりで二階大変だったんじゃない?」
「まあ一階ほどじゃなかったよ」
沖田が例によって飄々と返した。
「結構な数があっというまに飛び降りていったから、残り程度俺ひとりで充分だったし。屋根伝おうとしたのか、わざわざ戻ってくる奴はいたが」
「・・言ってくれるよね、あいかわらず」
「何。おまえだって何人も相手に大立ち回りしてたんだろ」
「ああそうだね、しかも、ときどき人ふってくるの避けながらねっ。そう考えるとなんか俺すごくない?」
もはや苦笑いで沖田に抗議している藤堂の前で、沖田がうんうんと返しつつ何度目かわからないあくびをしている。
「ああ、・・そういや」
そんなあくびの中途で、沖田がふと思い出したらしく呟いた。
「土方さん達が来た頃に、永倉さんと井上さんが廊下を駆けてゆくのは見たな。俺が浪士ども縛って廻ってた時で二人はこっちに気づいてなかったが」
まあ二階座敷の奥は暗かったからね
と言い足し。
「俺も残党狩りの間はずっと会わなかったなあ・・・あとで会所でなら見かけたけど」
藤堂が追加した。
「俺が会所で手当て受けてた時、沖田が寝に来た後くらいかな。永倉さんは親指の手当に来たんじゃない?」
(え)
「手当って、藤堂さ・・さんは、どちらを怪我されたんですか」
額は無事なはずだ。
慌てた冬乃に、
「たいしたことないよ。少し肩先をね」
きっと冬乃ちゃんの“お願い”のおかげで、これで済んだのかな?
と藤堂が微笑って。
冬乃は、ほっと息をつきながら。
(じゃあ、・・もし後世の改ざんとかでもなくて、永倉様の記憶違いだった場合の原因は、おそらく・・)
志士達が飛び降りてきた混乱の直後から先、長らく沖田と顔を合わせなかった記憶に、
のちの沖田の病の強烈な記憶と、
そして或いは、沖田がある時点で会所に居た記憶とが重なって、混合されたのではないか。
まして死闘のさなかだ。少なくても十五人はいたといわれる敵数に対して、屋内に入った近藤達はたった四人。
誰もが目の前の敵で精一杯だった中で、正確に全てを記憶しているほうが難しい。
「あーそうそう沖田、刀どうだった?無事?」
藤堂が急に思い出した様子で沖田に尋ねた。
「いや。ここぞと突きばっかやったら、最後のほうで帽子が折れた」
しょうがないからそのままで使ったが
と、沖田がその場で切先付近の破損した大刀を抜いてみせ。
「ほんとだ、まあ確かにこれならまだ使えてたね」
藤堂が覗きこんで感想する。
「やっぱ屋内は突きだよね・・俺はべつに突きは得意なわけじゃないし一階は広かったから、ひたすら袈裟と籠手斬りしてたらさ、もう刃がボロボロになって、」
藤堂も刀を抜いた。
「見てよこれ。もう直せるかどうか」
気に入ってたのに
と嘆いてみせ。
「ああそうだ、永倉さんの刀なんか最後の頃ぽっきり折れてたよ。俺あわてて、倒れてる奴の刀、引き抜いて渡したけど」
(すごい・・・)
皆、本当に奮闘したのだと。
それも、敵方のほうが人数が多く、少数対多数でありながらも、逃げる者まで殺すことはなく。
池田屋事変では、夜半にようやく会津や幕府兵も加わっての、町中の残党狩りや御用改めによって多くの志士が亡くなったが、池田屋屋内に限っていえば、近藤達が絶命させた人数は少ない。
殆どは斬りつけ等で戦闘不能にさせておき、後々捕縛した。
土方達が到着してからは、なおさらである。
ただ一方の、建物の外へと飛び降りて逃げた志士たちを迎え撃った、裏庭配備の近藤隊の隊士達は、重症を負った。
安藤も裏庭にいたはずだ。今回無事だったことは、冬乃にとって嬉しい吉報だが、安藤と同じくその場を守っていた他の二人は、助からなかったはずで。
(私が何か言っていれば、あるいは、安藤様と同じく助かった可能性もあった・・・?)
今回、安藤が無事だったということは。歴史はその変更を受け入れたということではないか。
だとしたら救うことができたかもしれなかった他の二人の事が、悔やまれてならない。
(申し訳ありません、・・・)
「眠い。限界だ」
つと、沖田が訴えた。
「ああ・・なんか俺も、屯所帰ってきたせいか眠くなってきた」
藤堂が答えて。
冬乃は、あわてて二人を促した。
「どうか、早くお寝みになられてください」
「だがまず、風呂入らないと無理だよな」
返り血塗れの沖田の溜息に、同じ状況の藤堂が頷く。
「布団までの道のりは長いね」
藤堂の、いっそ諦めて清々しい声が響いた。
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