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ゆく末への抗い
115.
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今、冬乃は屋根の上に居る。
この広大な屋敷のどこかでブヒブヒ活動しているはずの豚たちを探すため。なわけではさすがに無く、
この時期の強風で飛ばされた洗濯物が、見事に瓦に引っかかったせいである。
もしかしてあるのではないかと物置用の簡易蔵に探しに行ったら案の定、普通の家より半階ほど高い此処の屋根までも十分に届く梯子を見つけた冬乃は、
自慢の力で担いで運び出してきて、難なく屋根まで上がり、無事に洗濯物を回収した。
そんなわけで。
ニワカくのいち冬乃が、そのまま暫し屋根からの景色を堪能すべく、洗濯物を手にしたままその場で座って見下ろしてみれば、
想像通りの広大な屯所風景が眼下に広がっていた。
(・・・あ)
ついに豚発見。
(あんなとこに居たんじゃ、会えないわけだよね)
冬乃が行くことはまず無い、隊士部屋側の裏庭の向こう、幹部部屋側と同様に屯所を囲う塀まで延々と続く低木の区域が、彼らの活動場所だったようだ。
低木の緑や茶色に交じって、ピンク色が見え隠れしている。
その手前で裏庭に出ていた隊士達が数名、ちょうど井戸で体を洗おうと服を脱ぎ始めるのが次には目に映って冬乃は、慌てて背を向けて座り直した。途端、
(わぁ・・!)
冬支度に入った錦色の京の市中が、冬乃の瞳を見開かせた。
中でも真っ先に錦を披露したのは、こうして見ると改めて驚くほど雄大な西本願寺の境内で。
少し奥を横方向へと続く町並みは、島原の一帯だろう。
さらにその向こうには色とりどりの山々を背に、壬生の畑や野原が果てしなくひろがり、各所に点在する家や寺が見える。
八木邸や前川邸はあの辺りだろうかと、
そして、千代の家があった辺りも。冬乃は目頭が熱くなりながら見つめて。
つと視線を右へと流せば、
先日の大政奉還の為された舞台、二条城の一帯が、遠く幽かに存在を醸していた。
さらなる遠く、北野の一帯も、此処からではもはや見えないけれどきっと奥の山の裾野に広がっていることだろう。
もうあと少しで離れてしまうこの京の地を、
見納めるように。冬乃はそれから膝を抱えて、暫く眺め続けた。
(また上ろう・・)
これ以上はさぼってもいられまい。体がだいぶ冷えた頃、冬乃は顔を上げた。
結局見納めたりない想いは次回があるを期待して持ち越す。
そろそろ近藤たちが外出から帰ってくる頃だ。
冬乃は洗濯物を首にかけると梯子を下りて、再び蔵へ戻すべく担ぎ上げた。
このところ、書類の台風状態が漸く収まってきたというのに、今度は近藤の要人通いが前にもまして頻繁になっていた。
(やっぱ薩摩の事が心配で仕方ないのかな・・)
書簡のやりとりから冬乃には、いま近藤の大きな懸念のひとつが薩摩の動向であることは、ひしひしと伝わってきて。
彼が連日出かけては要人たちに論説しているであろう内容にも、大いに含んでいるに違いなく。
じつは薩摩は、未だこの時期、藩をあげての討幕に踏み切ったも同然でありながらそれを世間に表立って気取らせてはいない。
実像を知るのは、
討幕に向けた薩摩の朝廷工作成立または阻止のため懸命に働いてきた渦中の公家たちや、慶喜や土佐の容堂など彼らと親密な要人たち極一部であり、
とうに同盟も結んだ同士のはずの長州から見てさえ、未だ薩摩の意向が今一つ読み切れないでいる時期で。
京で浪士達と暴動の火種を撒き散らしてきたのはあくまで薩摩の内の過激派であって、土佐の例のように上層部を含めた大半は『変わらず』親幕派である、
そんな印象が、ここにきても未だ世間には残っていた。
実際、薩摩家老の小松帯刀などは、部下の西郷ら討幕側に寄り添いながらも一方で穏健派的な行動をも同時にとっていたような存在で、
この時期の京での最高責任者たる彼からしてそうなのだから、いかに薩摩が傍目に複雑怪奇であったか、言わずもがなである。
(それでも)
日々京を見廻り、肌で情勢を感じている新選組は、薩摩の親幕がもはや仮面であることはとうに察知していて、
表立って動いてはいない今の薩摩に対し、
藩邸や薩摩と親しい公家たちの邸宅を見張るなど、せめてもの警戒と牽制に最大限努めてきた。
(あと“仮面” というなら・・)
尾張、
その徳川血筋の御三家の藩を率いてながら、のちに新政府側につく徳川慶勝も、
親幕の仮面をつけていた一人と言ってしまえるのだろう。
彼は、第一次長州征伐の際、長州の処分を西郷と共に穏便な措置で済ませてしまった第一人者である。
元々尾張の幕府や徳川宗家との関係はかなり複雑な歴史を経ていて、のちの裏切りに及ぶ抵抗は少ない側面があった。
それでも藩内には、旧幕府へ殉ずるべきと義を訴えた藩士が大勢いた。だが、そう遠くない未来に慶勝は彼らを処刑してしまう。
近藤は、慶勝の旧幕府への裏切りも危惧していた。予見していたということになる。
薩摩や尾張の慶勝という近藤の目からみれば明らかに反幕府派である人間たちが、慶喜と並んで新国政のいち主導者としてより力を持つ事態を、そうして近藤は懸念し続けている。
ましてや長州もが、参与するなど。近藤からすれば、もってのほかで。
(だから・・かな)
四侯会議頓挫の後も、幕府内からは勿論の事、平和的改革を諦めていない薩摩以外の雄藩(薩摩内部の穏健派は含める)から数多の建白書が飛び交っていたなかで、
大政奉還の建白書を作成していた土佐の後藤象二郎へ、そのころ近藤はその中身を気にして幾度も訪問を願い出ていた。
佐幕の土佐家中とはいえ、長州に寛容的な後藤のこと。どんな案を出すのやら、近藤は心配でやきもきしていたのかもしれない。
まして大政奉還後の、この今は、
これまで通りに慶喜や旧幕府要人たちが、新体制でも主導的な権力を維持、つまり重要な要職に確かに留まるか如何も。
近藤の心配の種に加わり。
こうして彼の悩み事は次から次へと尽きないのである。
(近藤様の胃薬の量が、最近順調に増えてるし・・)
冬乃も冬乃で、そんな近藤が心配で仕方がない。
近藤の懸念は、そもそも尤もな事だった。
幕府体制での統治はもはや立ち行かなくなってしまったけれど、
それでも、これまで長く日本を統べてきた存在を除け者にし、経験のない朝廷や大名たちに俄かに要職を与えたところで、やはり統治は立ち行かない。
事実、明治の世で、新政府は結局多くの旧幕臣を要職に登用することになる。彼ら経験豊富な役人たちの働き無くして、実は維新は成り立たなかったのである。
とはいえ、登用できたのは当然、生き残っていた人たちのみ、
悔やまれる事には、それまでに既に多くの人財が戦さによって喪われてしまっていた。
(だから・・)
今も昔も近藤が望んできた変革は、これまでの主導者がこれまで通り然るべき要職に在ってこその変革であって。
つまり積もり積もった幕府体制の膿を掻き出す、いってみれば形骸化したり腐敗した不要な仕組みを洗い出して撤廃した上での、新たな体制と仕組みの構築であっても。
新たな人事ではない。
変革に人財の活用ならば当然でも、あくまで活用迄のこと、
雄藩が、国事において主導的立場でいるべき慶喜や幕府要人たちと同列以上に上がってくるようでは、舵取りからして儘ならなくなると。
殊に、真っ向から幕府に反目してきた長州が恩赦され新体制の要職に登用されるような事まであれば、どうなるだろう。
机上の戦いなど超えて、結局は武器をとっての戦さになる可能性を、拭いようも無い。
近藤が第二次長州征伐後から、この今に至るまで尚、長州を赦してはならないと訴え続けてきた理由のひとつはここにあるのだろう。
後藤や伊東が、その点で、新体制内で慶喜や旧幕府要人たちと長州が仲良くやっていけると考えているとしたらその事のほうが、近藤からすれば絵空事なのではないか。
(それでも、・・この先は・・・)
大政奉還に至っても長州が変わらず討幕を掲げ続けて、
やがて薩摩も討幕の気配を遂に表立って露わにし始める頃、
なお旧幕府側と討幕側双方の歩み寄りをめざし、あくまで平和な新体制の確立をめざし続けた存在が、
龍馬と同じく、
伊東もであったとしたのなら。
(近藤様にとって・・やっぱり伊東様は、なくてはならない人になってゆくはずなのに・・これまで以上に)
この先の、討幕側の戦意の高揚とは正反対に、
旧幕府側は、ある時点までは戦さになる事態など望んではいなかった。
これ以上国内が割れているべきではないのも然ることながら、
未だ第二次長州征伐時の痛手を負ったままに、旧幕府も佐幕諸藩もあいかわらず戦さどころではない経済状況なのだから当たり前である。
そのような中、倒幕側の暴走を鎮めるべく、かつ、慶喜や旧幕臣を新体制の要職に留めた理想的な政体を実現すべく、伊東が奔走したのならば。
近藤がそんな伊東を疎むようになるはずがない。
伊東の活動を疎む者がいたとすれば、それはむしろ、
討幕側――――
(その上もしもこの先、伊東様と新選組の内々の関係に気づいた人たちがいたとしたら)
その彼らこそが、
伊東を『始末』しようと考えたのではないのだろうか。
(・・・でも、その場合って・・)
「ただいま冬乃さん」
(ひゃ!)
近藤と沖田の湯呑を湯で温めるべく注ぎかけたきり、やかんを手に動きが止まっていた冬乃へ、
近藤が襖を開けるなり突然声を掛けてきた。
いや、近藤からすればちっとも突然ではないのだが。
今ので正座のまま小さく跳ねてしまった冬乃に、
近藤の後ろから続いた沖田が、また冬乃が考え事に勤しんでいたことなど分かりきった様子で、くすりと目を合わせてきた。
「すまん、声が大きかったかな?」
近藤のほうは冬乃の驚いた様子にひどく申し訳なさそうな顔になり。
「いえっ・・その」
違うんです、思考中だったせいです。冬乃は恥ずかしくなって言い淀む。
おもえば蔵から戻ってまたも自動的な動きで茶の支度を始めたまではよかったものの、途中から考え事に夢中になり過ぎた。
やかんを手に持ったまま、どれだけ経過していたことやら。
(あ)
湯呑を温めようとした事までを次には思い出した冬乃は、大慌てで盆の上の湯呑たちを見下ろした。
勿論のこと、湯に殆ど浸っていない両底が瞳に映る。
「急いで淹れますので、少々お待ちください・・!」
湯から沸かし直さねばと冬乃は、手に持ったままのやかんを傍の火鉢へ向かわせた。
「そんな急がなくていいのだよ」
優しい近藤の声が、慌てる冬乃を止める。
「それと、冬乃さんもぜひ、ご自分の茶を用意してくれ」
と言いながら近藤が指さした、沖田が手にしている包みへ、
(?)
冬乃の瞳は向かって。
「団子。冬乃が好きな店の」
(あ・・っ)
沖田の言い添えたその言葉に、そのまま冬乃の瞳はぱあっと輝いた。
蟻通たちに連れて行ってもらったあの店である。
あれから冬乃は時々無性に食べたくなってはいそいそと買いに行って、気づけばすっかり常連になっている。
当然その頻繁ぶりから、すでに沖田の知るところだ。
「帰りに前を通ったから買ってきた」
そう言ってくれる沖田へ「有難うございます!」と冬乃は嬉しさのあまり声が華やいでしまいながら、
そういえば馬上の近藤や他の隊士もまさか一緒になって店の前で止まってくれたのだろうか、と思わず目を瞬かせた。
「組でも人気の茶屋だと聞いたよ。皆して買って帰ってきたんだ」
冬乃の疑問を知ってか知らでかにっこりと近藤が微笑む。
(・・あ)
たしかに。元々蟻通たちが連れて行ってくれた店であるし、買いに行くと時々隊士の誰かに会った事も、冬乃は思い出した。
串団子は間食にはうってつけで人気な菓子なので、競合店も多いのだけれど、
この店は、餅にヨモギを入れていたり、きな粉や蜜をまぶした甘いものから、醤油がけのあっさりしたもの、なんと味噌をのせて焼いたものまで、
実に創作的で多様な種類を用意しているうえに、そのどれもが美味しいので、幅広くファンがいるのも納得する。
「品書きを見ていたらどれも美味そうでついあれこれ買い過ぎてしまったから、冬乃さんにも頑張って食べてもらわないといかん」
「はいよろこんで!」
間髪入れず即答してしまった冬乃が、それから止められてようと大急ぎで茶の支度に励んだのは言うまでもなかった。
この広大な屋敷のどこかでブヒブヒ活動しているはずの豚たちを探すため。なわけではさすがに無く、
この時期の強風で飛ばされた洗濯物が、見事に瓦に引っかかったせいである。
もしかしてあるのではないかと物置用の簡易蔵に探しに行ったら案の定、普通の家より半階ほど高い此処の屋根までも十分に届く梯子を見つけた冬乃は、
自慢の力で担いで運び出してきて、難なく屋根まで上がり、無事に洗濯物を回収した。
そんなわけで。
ニワカくのいち冬乃が、そのまま暫し屋根からの景色を堪能すべく、洗濯物を手にしたままその場で座って見下ろしてみれば、
想像通りの広大な屯所風景が眼下に広がっていた。
(・・・あ)
ついに豚発見。
(あんなとこに居たんじゃ、会えないわけだよね)
冬乃が行くことはまず無い、隊士部屋側の裏庭の向こう、幹部部屋側と同様に屯所を囲う塀まで延々と続く低木の区域が、彼らの活動場所だったようだ。
低木の緑や茶色に交じって、ピンク色が見え隠れしている。
その手前で裏庭に出ていた隊士達が数名、ちょうど井戸で体を洗おうと服を脱ぎ始めるのが次には目に映って冬乃は、慌てて背を向けて座り直した。途端、
(わぁ・・!)
冬支度に入った錦色の京の市中が、冬乃の瞳を見開かせた。
中でも真っ先に錦を披露したのは、こうして見ると改めて驚くほど雄大な西本願寺の境内で。
少し奥を横方向へと続く町並みは、島原の一帯だろう。
さらにその向こうには色とりどりの山々を背に、壬生の畑や野原が果てしなくひろがり、各所に点在する家や寺が見える。
八木邸や前川邸はあの辺りだろうかと、
そして、千代の家があった辺りも。冬乃は目頭が熱くなりながら見つめて。
つと視線を右へと流せば、
先日の大政奉還の為された舞台、二条城の一帯が、遠く幽かに存在を醸していた。
さらなる遠く、北野の一帯も、此処からではもはや見えないけれどきっと奥の山の裾野に広がっていることだろう。
もうあと少しで離れてしまうこの京の地を、
見納めるように。冬乃はそれから膝を抱えて、暫く眺め続けた。
(また上ろう・・)
これ以上はさぼってもいられまい。体がだいぶ冷えた頃、冬乃は顔を上げた。
結局見納めたりない想いは次回があるを期待して持ち越す。
そろそろ近藤たちが外出から帰ってくる頃だ。
冬乃は洗濯物を首にかけると梯子を下りて、再び蔵へ戻すべく担ぎ上げた。
このところ、書類の台風状態が漸く収まってきたというのに、今度は近藤の要人通いが前にもまして頻繁になっていた。
(やっぱ薩摩の事が心配で仕方ないのかな・・)
書簡のやりとりから冬乃には、いま近藤の大きな懸念のひとつが薩摩の動向であることは、ひしひしと伝わってきて。
彼が連日出かけては要人たちに論説しているであろう内容にも、大いに含んでいるに違いなく。
じつは薩摩は、未だこの時期、藩をあげての討幕に踏み切ったも同然でありながらそれを世間に表立って気取らせてはいない。
実像を知るのは、
討幕に向けた薩摩の朝廷工作成立または阻止のため懸命に働いてきた渦中の公家たちや、慶喜や土佐の容堂など彼らと親密な要人たち極一部であり、
とうに同盟も結んだ同士のはずの長州から見てさえ、未だ薩摩の意向が今一つ読み切れないでいる時期で。
京で浪士達と暴動の火種を撒き散らしてきたのはあくまで薩摩の内の過激派であって、土佐の例のように上層部を含めた大半は『変わらず』親幕派である、
そんな印象が、ここにきても未だ世間には残っていた。
実際、薩摩家老の小松帯刀などは、部下の西郷ら討幕側に寄り添いながらも一方で穏健派的な行動をも同時にとっていたような存在で、
この時期の京での最高責任者たる彼からしてそうなのだから、いかに薩摩が傍目に複雑怪奇であったか、言わずもがなである。
(それでも)
日々京を見廻り、肌で情勢を感じている新選組は、薩摩の親幕がもはや仮面であることはとうに察知していて、
表立って動いてはいない今の薩摩に対し、
藩邸や薩摩と親しい公家たちの邸宅を見張るなど、せめてもの警戒と牽制に最大限努めてきた。
(あと“仮面” というなら・・)
尾張、
その徳川血筋の御三家の藩を率いてながら、のちに新政府側につく徳川慶勝も、
親幕の仮面をつけていた一人と言ってしまえるのだろう。
彼は、第一次長州征伐の際、長州の処分を西郷と共に穏便な措置で済ませてしまった第一人者である。
元々尾張の幕府や徳川宗家との関係はかなり複雑な歴史を経ていて、のちの裏切りに及ぶ抵抗は少ない側面があった。
それでも藩内には、旧幕府へ殉ずるべきと義を訴えた藩士が大勢いた。だが、そう遠くない未来に慶勝は彼らを処刑してしまう。
近藤は、慶勝の旧幕府への裏切りも危惧していた。予見していたということになる。
薩摩や尾張の慶勝という近藤の目からみれば明らかに反幕府派である人間たちが、慶喜と並んで新国政のいち主導者としてより力を持つ事態を、そうして近藤は懸念し続けている。
ましてや長州もが、参与するなど。近藤からすれば、もってのほかで。
(だから・・かな)
四侯会議頓挫の後も、幕府内からは勿論の事、平和的改革を諦めていない薩摩以外の雄藩(薩摩内部の穏健派は含める)から数多の建白書が飛び交っていたなかで、
大政奉還の建白書を作成していた土佐の後藤象二郎へ、そのころ近藤はその中身を気にして幾度も訪問を願い出ていた。
佐幕の土佐家中とはいえ、長州に寛容的な後藤のこと。どんな案を出すのやら、近藤は心配でやきもきしていたのかもしれない。
まして大政奉還後の、この今は、
これまで通りに慶喜や旧幕府要人たちが、新体制でも主導的な権力を維持、つまり重要な要職に確かに留まるか如何も。
近藤の心配の種に加わり。
こうして彼の悩み事は次から次へと尽きないのである。
(近藤様の胃薬の量が、最近順調に増えてるし・・)
冬乃も冬乃で、そんな近藤が心配で仕方がない。
近藤の懸念は、そもそも尤もな事だった。
幕府体制での統治はもはや立ち行かなくなってしまったけれど、
それでも、これまで長く日本を統べてきた存在を除け者にし、経験のない朝廷や大名たちに俄かに要職を与えたところで、やはり統治は立ち行かない。
事実、明治の世で、新政府は結局多くの旧幕臣を要職に登用することになる。彼ら経験豊富な役人たちの働き無くして、実は維新は成り立たなかったのである。
とはいえ、登用できたのは当然、生き残っていた人たちのみ、
悔やまれる事には、それまでに既に多くの人財が戦さによって喪われてしまっていた。
(だから・・)
今も昔も近藤が望んできた変革は、これまでの主導者がこれまで通り然るべき要職に在ってこその変革であって。
つまり積もり積もった幕府体制の膿を掻き出す、いってみれば形骸化したり腐敗した不要な仕組みを洗い出して撤廃した上での、新たな体制と仕組みの構築であっても。
新たな人事ではない。
変革に人財の活用ならば当然でも、あくまで活用迄のこと、
雄藩が、国事において主導的立場でいるべき慶喜や幕府要人たちと同列以上に上がってくるようでは、舵取りからして儘ならなくなると。
殊に、真っ向から幕府に反目してきた長州が恩赦され新体制の要職に登用されるような事まであれば、どうなるだろう。
机上の戦いなど超えて、結局は武器をとっての戦さになる可能性を、拭いようも無い。
近藤が第二次長州征伐後から、この今に至るまで尚、長州を赦してはならないと訴え続けてきた理由のひとつはここにあるのだろう。
後藤や伊東が、その点で、新体制内で慶喜や旧幕府要人たちと長州が仲良くやっていけると考えているとしたらその事のほうが、近藤からすれば絵空事なのではないか。
(それでも、・・この先は・・・)
大政奉還に至っても長州が変わらず討幕を掲げ続けて、
やがて薩摩も討幕の気配を遂に表立って露わにし始める頃、
なお旧幕府側と討幕側双方の歩み寄りをめざし、あくまで平和な新体制の確立をめざし続けた存在が、
龍馬と同じく、
伊東もであったとしたのなら。
(近藤様にとって・・やっぱり伊東様は、なくてはならない人になってゆくはずなのに・・これまで以上に)
この先の、討幕側の戦意の高揚とは正反対に、
旧幕府側は、ある時点までは戦さになる事態など望んではいなかった。
これ以上国内が割れているべきではないのも然ることながら、
未だ第二次長州征伐時の痛手を負ったままに、旧幕府も佐幕諸藩もあいかわらず戦さどころではない経済状況なのだから当たり前である。
そのような中、倒幕側の暴走を鎮めるべく、かつ、慶喜や旧幕臣を新体制の要職に留めた理想的な政体を実現すべく、伊東が奔走したのならば。
近藤がそんな伊東を疎むようになるはずがない。
伊東の活動を疎む者がいたとすれば、それはむしろ、
討幕側――――
(その上もしもこの先、伊東様と新選組の内々の関係に気づいた人たちがいたとしたら)
その彼らこそが、
伊東を『始末』しようと考えたのではないのだろうか。
(・・・でも、その場合って・・)
「ただいま冬乃さん」
(ひゃ!)
近藤と沖田の湯呑を湯で温めるべく注ぎかけたきり、やかんを手に動きが止まっていた冬乃へ、
近藤が襖を開けるなり突然声を掛けてきた。
いや、近藤からすればちっとも突然ではないのだが。
今ので正座のまま小さく跳ねてしまった冬乃に、
近藤の後ろから続いた沖田が、また冬乃が考え事に勤しんでいたことなど分かりきった様子で、くすりと目を合わせてきた。
「すまん、声が大きかったかな?」
近藤のほうは冬乃の驚いた様子にひどく申し訳なさそうな顔になり。
「いえっ・・その」
違うんです、思考中だったせいです。冬乃は恥ずかしくなって言い淀む。
おもえば蔵から戻ってまたも自動的な動きで茶の支度を始めたまではよかったものの、途中から考え事に夢中になり過ぎた。
やかんを手に持ったまま、どれだけ経過していたことやら。
(あ)
湯呑を温めようとした事までを次には思い出した冬乃は、大慌てで盆の上の湯呑たちを見下ろした。
勿論のこと、湯に殆ど浸っていない両底が瞳に映る。
「急いで淹れますので、少々お待ちください・・!」
湯から沸かし直さねばと冬乃は、手に持ったままのやかんを傍の火鉢へ向かわせた。
「そんな急がなくていいのだよ」
優しい近藤の声が、慌てる冬乃を止める。
「それと、冬乃さんもぜひ、ご自分の茶を用意してくれ」
と言いながら近藤が指さした、沖田が手にしている包みへ、
(?)
冬乃の瞳は向かって。
「団子。冬乃が好きな店の」
(あ・・っ)
沖田の言い添えたその言葉に、そのまま冬乃の瞳はぱあっと輝いた。
蟻通たちに連れて行ってもらったあの店である。
あれから冬乃は時々無性に食べたくなってはいそいそと買いに行って、気づけばすっかり常連になっている。
当然その頻繁ぶりから、すでに沖田の知るところだ。
「帰りに前を通ったから買ってきた」
そう言ってくれる沖田へ「有難うございます!」と冬乃は嬉しさのあまり声が華やいでしまいながら、
そういえば馬上の近藤や他の隊士もまさか一緒になって店の前で止まってくれたのだろうか、と思わず目を瞬かせた。
「組でも人気の茶屋だと聞いたよ。皆して買って帰ってきたんだ」
冬乃の疑問を知ってか知らでかにっこりと近藤が微笑む。
(・・あ)
たしかに。元々蟻通たちが連れて行ってくれた店であるし、買いに行くと時々隊士の誰かに会った事も、冬乃は思い出した。
串団子は間食にはうってつけで人気な菓子なので、競合店も多いのだけれど、
この店は、餅にヨモギを入れていたり、きな粉や蜜をまぶした甘いものから、醤油がけのあっさりしたもの、なんと味噌をのせて焼いたものまで、
実に創作的で多様な種類を用意しているうえに、そのどれもが美味しいので、幅広くファンがいるのも納得する。
「品書きを見ていたらどれも美味そうでついあれこれ買い過ぎてしまったから、冬乃さんにも頑張って食べてもらわないといかん」
「はいよろこんで!」
間髪入れず即答してしまった冬乃が、それから止められてようと大急ぎで茶の支度に励んだのは言うまでもなかった。
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