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壊劫の波間
47.
しおりを挟む将軍家茂の死去が公になり。次いで長州征伐停止の勅命が下った。
長州が、天皇および朝廷の敵であるという“汚名” を解かれたわけではない。
だが。
「あの制札が抜かれただと?!」
ようやく夜に向けては過ごし易くなってきた八月の末、
夕虫の音色をかき消す近藤の声が部屋じゅうに鳴り響いた。
部屋の中央に坐す近藤と土方の背後で、冬乃は二人の茶を用意していた。
なぜ冬乃がこの場に留まるよう土方に言われたのか、冬乃には謎だったが。
「ああ、いま急ぎ新調している」
「で、犯人は?!」
「どうせ長州派浪士共に決まってるさ」
忌々しげに吐き捨てた土方が、冬乃の差し出した茶を手にとり一気に飲み干した。
「奴ら、いい気になりやがってッ・・」
先の戦は幕府の敗北も同然に終わり、今や長州は、幕府などもう取るに足らぬと高笑いしているに違いなく。
「開戦すべきでない状況で開戦したからだ!本来ならば、幕府が長州ごときに後れを取るはずがなかった!」
憤懣やるかたない近藤が、茶を持たぬ側の拳を握り締めた。
いま闘っては敗戦も起こり得ると懸念していた近藤の読みは正しかった。かといって一度抜いた剣を納めるに納められず開戦を迎えた幕府もまた、この現状下、同じ想いでいることだろう。
「ああそうだ。今回は奴らに運が回ったまぐれにも等しい。にも関わらず制札に手を出してくるとは、随分と調子に乗ってやがるじゃねえか・・!」
土方がドンと湯呑を横の畳に置く。
彼らが言っている制札とは、長州が天皇の敵つまり朝敵である旨を公示した立て札で、三条大橋西詰に掲げられていたもの。
それを引き抜くということは、
長州がすでに今上天皇である孝明帝の赦しを得て戦争停止になったのだと、世間に印象づけることにもなる。
実際は、孝明帝は戦争継続を望んでいたものの、これ以上つづけても勝ち目は薄いからの、やむなき停戦であり、
決して孝明帝が長州を赦したからではない。
それがため、この件においても幕府側の悔しさは察するに余りある。
話は、ただの制札へのふざけた狼藉ではないのだった。
冬乃は縮こまったまま、膝の上の拳を見つめた。
「おい、」
そんな冬乃を。突然、土方が振り返った。
驚いた冬乃に、土方の鋭い眼ざしが向かい来る。
「おまえが知っているこれからの流れを全て教えろ」
冬乃は目を見開いた。
土方のその眼は、
全てを受けとめる覚悟を深く内に秘めたような、力強い意志の眼で。
「・・歳」
近藤が制止する声を出した。
「いや、」
土方が冬乃を睨んだまま、さらに近藤へ制止の意を返す。
「聞かせてもらう。近藤さん、俺達にはどうやら、この先の歴史を知っておくべき時が来ているようだ」
冬乃は、
土方が冬乃をこの場に留めた理由がこれだったことに、気づくとともに。
膝で握り締めていた両の手を。
前の畳へと降ろした。
「申し訳ありません」
土方の意志の強さに負けないように声を圧し出したはずが、掠れ。
「お話することは、できません」
畳についた冬乃の手が震えた。
頭を下げたのは、彼らの顔を見ることができないからでもあり。
(申し訳ありません)
「てめえ、これは命令だ!」
「ではご命令に背きます!御手討ちにしてくださって構いません!」
「おまえ・・!」
この先の歴史を伝えても、
抗いようのないその大波に、呑まれてゆく運命を、
聞いたところで彼らにも誰にも、どうすることもできないというのに。
近藤も、土方も、沖田たち新選組の皆も。
彼らがこの先の幕府の崩壊を知っても、その沈みゆく船から降りてはくれないことなど、冬乃には分かりきっている。
彼らの正義と信念と、誠の忠義が、それを許さない。
死へ向かう道を当然のように受け入れるだけ。
なら伝えて何になるだろう。
元より、伝えることなどあってはならない。
死しても変えることのできない、希望のない未来など。
「仮にも近藤さんの娘を、手討ちになんざできるわけねえだろが・・!くそっ・・」
土方は吐き捨てると、顔を上げた冬乃から視線を外して再び近藤へと向き直った。
「・・すまんな、歳」
まるで冬乃の代弁のように近藤が小さく呟いた。
冬乃が近藤の養女になった事は、隊に公にはしていない。だが土方や試衛館の頃からの仲間は勿論知っている。
(土方様、近藤様・・)
冬乃がもし近藤の養女でなくても、
(本当に申し訳ありません)
手討ちになどしないことも。冬乃は感じ取れた。あの場では本気で、そうなっても仕方ない覚悟で口奔ってしまったものの、後から思えば狡い回避だったのではないか。
「申し訳ありません」
今一度零れ出た冬乃の声に、
「もういい。用は済んだ、出てけ」
土方の背が、振り返らず一言答えて。
冬乃はその背に再び頭を下げて、震える膝で立ち上がった。
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