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うき世の楽園
208.
しおりを挟むおなかがいっぱいになって、再びうとうとしていた冬乃だが。
やがて廊下の向こうから近藤と沖田の声を耳にして、急速に覚醒してゆき。つい廊下のほうへ耳を澄ましてしまいながら冬乃は、沖田が部屋へ戻ってくるのをどきどきしながら待った。
まもなく沖田の、近藤と別れる挨拶が聞こえ。襖を開けて入ってきた沖田が、
「具合はどう」
と起きている冬乃を見て布団の横に座るなり、おでこに手を当ててくれて、風邪もいいかもしれないだなんて冬乃はこっそり想ってしまいながら、
「だいぶ良くなりました、」
と微笑んでみせる。
「総司さんのおかげです。ありがとうございます」
「俺は何もしてないよ」
冬乃の額から手を離した沖田が微笑み返してきて。服と額の手ぬぐいを替えただけだと、そして、
食事を作ったのも茂吉さんだろと言うかのように、盆のほうへと目を遣った沖田を、
冬乃は見上げたままに首を振る。
「いいえ、茂吉さんから聞きました。御足労おかけしてごめんなさい、珍しいものだなんて知らなくて・・本当にありがとうございました」
「ああ、」
ちくわのことかと沖田が笑った。そのまま尚も何でもなさそうに冬乃の頭を撫でてくれるので、冬乃はもう胸がきゅうと締め付けられるような感激に、涙まで滲んで。
あいかわらず。
(一生かけても恩返しなんて叶わなそう・・)
幸せをもらいつづける記録は、更新している。
「どうしたら、お返しができますか」
困って口に出てきた冬乃のことばに、
「ちくわの?」
沖田が、解っていながらわざとはぐらかしたのか如何か、冬乃には判らないものの、
にこやかに聞き返してくるのへ冬乃は、
「ぜんぶです、ちくわのことだけじゃなくてこれまでのこと何もかも、です」
はっきり言い直してみせ。
「総司さんにはもう、ここに来てからずっとお世話になってばかりで」
沖田が肩を竦めるようにして微笑った。
「冬乃を世話していたのは仕事でもあったわけだし、それは気にする事じゃない」
「でもっ、それだけじゃなくて、いえ、それだって私には身に余るほどのお世話をされてましたし、もう今は仕事じゃなくても、かわらずたくさんのことを総司さんはしてくださいます。今日だってこうして」
「そりゃ今は、冬乃が風邪ひいてるからであって。だがそれだって、べつに大した事はしてないだろ」
あくまで沖田の中では全て何でもないことなのか。冬乃は、もはや目を丸くした。
「私には・・ちくわの事ひとつとっても、御礼を言い尽くせません。ましてこれまでもう、数えきれない程たくさんのことをしてもらってきて、いったいどうしたら、いつになったら、私はお返しさせてもらえるのかと思うと・・」
なかば訴えるような物言いになってしまいながら、再び誘発された咳に冬乃は慌てて横を向いて、胸の奥から咳込んだ。沖田に背を撫でられて落ち着いてゆくなか、
「おねがい・・します、」
今しがたの胸の苦しさ以上に辛い心苦しさのままに、冬乃は縋った。
「教えてください、どうしたら、総司さんにお返しできますか・・」
布団の上、沖田に向き直って冬乃は沖田を見上げた。
もし何か、沖田が望んでくれることがあるのなら、
沖田が冬乃にわがままを言っていいと思ってくれるように、冬乃もまた、沖田にわがままを言ってほしい。
(いつも私ばかり、)
してもらう側で。返し方も分からないままなんて。
「冬乃、」
無心に見つめる冬乃の瞳に。なぜか、沖田の苦笑したような表情が映った。
「お返しと言うなら、とっくにしてもらってる。どころか、俺のほうこそ冬乃に返しきれないほどに」
いま聞いた言葉は、聞き間違えじゃないかと冬乃は一瞬声も無く、沖田を見返した。
「・・・え、と」
なんで
「何、を、ですか」
漸う返した声が、自分でも滑稽なほど困惑していて冬乃は、
「何か、できたことなんて・・あったでしょうか」
沖田が冬乃へ返しきれないと言う程の、冬乃が沖田にしてあげられた事など、全く思いつかずに。思考が途絶えて呆然と沖田を見つめた。
(・・あ)
沖田の返してきた眼はあまりにも優しくて、冬乃は心の臓を掴まれたように刹那、息さえ止まって。
そんな冬乃の、頬を。彼のいつもの温かな手が深く包み込んだ。
「冬乃が居るおかげで、この世を楽園のように感じられる、という事」
こんな世でもね
沖田が言い添えた。
「つまり、感謝するのは俺のほう。これほど返しきれない事は無いでしょ」
「それは・・っ・・私のほうこそ・・!」
まさか、
「そう思っているのは、私のほうです・・・っ・・」
沖田も同じように思ってくれていたなんて。
想像もしていなかった冬乃は、身を起こしかけるほど訴えていた。
「私のほうこそ、感謝してもしきれませんっ・・・いいあらわせないほど幸せで、」
だって
「総司さんが、居てくださるから」
生きていたいと思えるんです
言葉ごと息を呑んだ冬乃は。
次には力強い腕に掻き抱かれた。
「だったらまた、お互い様だね」
(あ・・)
互いを褒め合う結果になったあの時を冬乃は思い出して。
耳奥に残る今の愛しげな声に、心まで温めてくれる常の深いぬくもりに。目を瞑った。
(総司さん)
沖田にそんなふうに想い返してもらえていたこと、
これではまた恩が増えてしまったようなものだと。いつまでたっても、追いつけないのだと、もう冬乃は強い幸福感のなか、諦めるしかなく。
貴方がいたから、
生きることの愛しさも輝かしさも
知ることができた
貴方がいれば、この世界は
「楽園」
沖田の穏やかな声を頬越しに冬乃は聞いた。
「そんな所、解脱でも果たさねば辿り着けぬものとばかり思っていたが」
低く響いてくるその優しい振動を頬に、冬乃はうっとりと耳を傾ける。
「此の世にも在ったとはね。・・有難う、冬乃」
「それは・・・ですから、」
再び強く抱き締められながら冬乃は、たまらず目の前の襟を握り締めた。
「私の、台詞なんです・・。」
くすりと笑う息を耳元に感じた。なんだか互いに言い合ってばかりで、確かにもう笑うしかない状況かもしれないと、次には冬乃も沖田へ寄せる頬に笑みが零れ、
冬乃は。
この状況に乗じて、
「総司さん」
熱が、まだあるふりをして。
「愛してます」
そっと、囁いた。
ずっと口にしたかった、このことばを。
息を呑むような気配がして、冬乃はとくとくと打つ互いの心の臓を感じて。
「“だからそれは俺の台詞”」
珍しいほど照れた声が、
そして落ちてきた。
「愛してるよ、冬乃」
あわせて頬がとけ落ちたかの冬乃は。
本当にまた、一気に熱が上がった感とともに、
激しく。恒例の眩暈を迎えた。
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