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うき世の楽園
196.
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沖田が、冬乃の涙をその指に伝わせたまま溜息をついた。
「全然、大丈夫じゃないだろ・・」
冬乃はとめどなく流れ落ちる涙を抑えるすべを持たずに、ただ目を瞑って。力無く首を振った。
「冬乃が今、思っている事は」
そんな冬乃の頬の涙を優しく払い、沖田が、
「俺に話せない事?」
困ったような声を出した。
冬乃も困って、そっと目を開ける。
「そういうわけじゃ・・、」
「でもこんな事は・・」
母親のことを許せないなんて事。
あのとき沖田に導かれて、母と話せて僅かでも再び心を通わせることができて、
仲違いした後もほんとうは、まだ愛されていたのかもしれないと。思えるようになっているというのに、それでも忘れられないのだから。
あの頃を。
(こんな心の狭い私なんか・・・)
実の母のことさえ許せないでいる、そんな罪悪感を抱えて、
(こんな私が。幸せになっていいわけないに決まってた)
いままで、どうして気づけなかったのか。今となってはむしろ不思議にすらなる。
「こんな事は、・・・誰も聞かされたくないと思います・・」
「だったら、俺はそれを聞きたい」
「・・え」
顔を上げる冬乃を迎えた沖田の眼は。どんな冬乃の想いも受けとめてくれると、いつかに冬乃を確信させてくれた沖田の愛情が、そのとおりに満ちたようなまなざしで。
(総司さん・・)
「話してみて」
そっと冬乃の体を支えながら、互いの身を起こす沖田に、
冬乃は。
小さく、頷いた。
「私は母のことを・・許せていないんです」
震える声が、喉を抜ける。
「今までの事を・・・親なのに、許せないなんて・・よくないのはわかってます」
「それは違う」
即座に、沖田が否定して、冬乃は驚いて沖田を見返した。
「親だからこそ許せないことがある。許せなければ、許せなくていい」
(あ・・・)
冬乃は、起き上がったままの居ずまいを正すのも忘れ、彼の深い愛情の篭った眼を見つめた。
そうだった。沖田はあの時も、言ってくれていたではないか。
受けた傷に苦しんだなら、それを無理に許そうとしなくていいのだと。
無理に親を許さなくてもいい、すでにそれを意味していたのではないか。
「重要なのはあくまで、冬乃が、できうるかぎり親御さんへの負の感情に囚われずに済むようになる事。許す許さない自体が重要なのではなく」
言葉を選ぶように沖田の、気遣う眼が冬乃を静かに見据えた。
「そもそも子は、産まれながらに親を無条件に愛する一方で、その逆は残念ながら親による」
「子が親を愛せなくなったとすれば、そんな結果を招いた親の側に問題があったのであり、子の側がその事で罪悪感を抱える必要など無い。つまり、親を許したくとも許せない事にも同様に」
冬乃は、再びこみ上げた涙を隠すように慌てて頷いた。
沖田の言葉が、冬乃の強張っていた心に沁みわたる頃。冬乃は抑えきれなかった涙を素直に手の甲で払って、
もういちど、静かに頷いた。
さいわいに冬乃は、完全に母を愛せなくなるよりも前に沖田と出逢えて、
そしてこの奇跡によってはからずも、母の側が冬乃を喪う恐怖を実感し得たことで、
冬乃と母は向き合い。冬乃の心は留まれた。
それでも、これまでの事を全て洗い流すことなど叶わず。
これまでの憤りも悲しみも苦しみも。全てを、母に打ち明ける日がいつか来るのか、それさえ冬乃はわからない。
もっとずっと前から、
冬乃が・・母が、一日一日を、或いは互いの最後の日になるかもしれないと。少しでも思ってみることができていたのなら違ったのだろうか。
(・・どうして)
子がただ生きていてくれるだけで、幸せなことだと。
そうして子を大きく包み込むことのできない親が、存在してしまうのか。
それができない親の矮小な器量を、
剥き出しにぶつけられたまま育った子が。また親になれば、
そのあまりに不完全な親としての有様を、やっと許せたような気になってしまう転化さえ起こりうる。
否、確かに許すことができたならば、いいかえれば、親のその罪はその程度で済んだまでのこと。だがそれですら、往々にして忘れることはできないもの。
まして、『その程度』ではなかったのに許した気になった場合の問題は、計り知れない。
親を許す理由をあれこれ己へ言い聞かせたことで、
そうして実は自身がその言い訳を得て、我が子へと同じ事をしてしまっても、そんな己をも許してしまうことへと繋がりかねず。ときにそれに気づくことすらなく。
それでは、自分の代で変えなければ。連鎖は止まらないというのに。
許せないならば許せなくていい
それが、これらの断ち切るべき呪縛をも示唆していることに、冬乃は思い至って。
(あるべき連鎖は)
沖田の言葉を、冬乃は思い出す。
こうあってほしいと願って援ける事と、
要求し強要する事は違う、と。
(願い援ける愛のほう・・)
願い援ける事が、そうして導く事が、子への大きな愛ならば。
要求し強要する事は、子への愛のふりをした別のもの。それはいわば親の内にはびこる自己愛であって。“親の責任” という名の隠れ蓑を被っていることに、ときに本人も気づかぬほどの。
(私が欲しかったのは、大きな愛のほうだったのに)
人なのだから、自己愛が言動を支配する瞬間があるくらいは、仕方のないことで。冬乃はとうの昔にもう、完璧な親としての人間像を求める事など、そうと知らぬうちに諦めていた。
それでも一方で冬乃は、餓え、求め続けた。親がそんな自己愛に翻弄される時があっても、それを超えた、それ以上に強い愛で最終的には包んでくれることを。
どんなに、親の自己愛を満たせない子だろうと。無条件に。
「全然、大丈夫じゃないだろ・・」
冬乃はとめどなく流れ落ちる涙を抑えるすべを持たずに、ただ目を瞑って。力無く首を振った。
「冬乃が今、思っている事は」
そんな冬乃の頬の涙を優しく払い、沖田が、
「俺に話せない事?」
困ったような声を出した。
冬乃も困って、そっと目を開ける。
「そういうわけじゃ・・、」
「でもこんな事は・・」
母親のことを許せないなんて事。
あのとき沖田に導かれて、母と話せて僅かでも再び心を通わせることができて、
仲違いした後もほんとうは、まだ愛されていたのかもしれないと。思えるようになっているというのに、それでも忘れられないのだから。
あの頃を。
(こんな心の狭い私なんか・・・)
実の母のことさえ許せないでいる、そんな罪悪感を抱えて、
(こんな私が。幸せになっていいわけないに決まってた)
いままで、どうして気づけなかったのか。今となってはむしろ不思議にすらなる。
「こんな事は、・・・誰も聞かされたくないと思います・・」
「だったら、俺はそれを聞きたい」
「・・え」
顔を上げる冬乃を迎えた沖田の眼は。どんな冬乃の想いも受けとめてくれると、いつかに冬乃を確信させてくれた沖田の愛情が、そのとおりに満ちたようなまなざしで。
(総司さん・・)
「話してみて」
そっと冬乃の体を支えながら、互いの身を起こす沖田に、
冬乃は。
小さく、頷いた。
「私は母のことを・・許せていないんです」
震える声が、喉を抜ける。
「今までの事を・・・親なのに、許せないなんて・・よくないのはわかってます」
「それは違う」
即座に、沖田が否定して、冬乃は驚いて沖田を見返した。
「親だからこそ許せないことがある。許せなければ、許せなくていい」
(あ・・・)
冬乃は、起き上がったままの居ずまいを正すのも忘れ、彼の深い愛情の篭った眼を見つめた。
そうだった。沖田はあの時も、言ってくれていたではないか。
受けた傷に苦しんだなら、それを無理に許そうとしなくていいのだと。
無理に親を許さなくてもいい、すでにそれを意味していたのではないか。
「重要なのはあくまで、冬乃が、できうるかぎり親御さんへの負の感情に囚われずに済むようになる事。許す許さない自体が重要なのではなく」
言葉を選ぶように沖田の、気遣う眼が冬乃を静かに見据えた。
「そもそも子は、産まれながらに親を無条件に愛する一方で、その逆は残念ながら親による」
「子が親を愛せなくなったとすれば、そんな結果を招いた親の側に問題があったのであり、子の側がその事で罪悪感を抱える必要など無い。つまり、親を許したくとも許せない事にも同様に」
冬乃は、再びこみ上げた涙を隠すように慌てて頷いた。
沖田の言葉が、冬乃の強張っていた心に沁みわたる頃。冬乃は抑えきれなかった涙を素直に手の甲で払って、
もういちど、静かに頷いた。
さいわいに冬乃は、完全に母を愛せなくなるよりも前に沖田と出逢えて、
そしてこの奇跡によってはからずも、母の側が冬乃を喪う恐怖を実感し得たことで、
冬乃と母は向き合い。冬乃の心は留まれた。
それでも、これまでの事を全て洗い流すことなど叶わず。
これまでの憤りも悲しみも苦しみも。全てを、母に打ち明ける日がいつか来るのか、それさえ冬乃はわからない。
もっとずっと前から、
冬乃が・・母が、一日一日を、或いは互いの最後の日になるかもしれないと。少しでも思ってみることができていたのなら違ったのだろうか。
(・・どうして)
子がただ生きていてくれるだけで、幸せなことだと。
そうして子を大きく包み込むことのできない親が、存在してしまうのか。
それができない親の矮小な器量を、
剥き出しにぶつけられたまま育った子が。また親になれば、
そのあまりに不完全な親としての有様を、やっと許せたような気になってしまう転化さえ起こりうる。
否、確かに許すことができたならば、いいかえれば、親のその罪はその程度で済んだまでのこと。だがそれですら、往々にして忘れることはできないもの。
まして、『その程度』ではなかったのに許した気になった場合の問題は、計り知れない。
親を許す理由をあれこれ己へ言い聞かせたことで、
そうして実は自身がその言い訳を得て、我が子へと同じ事をしてしまっても、そんな己をも許してしまうことへと繋がりかねず。ときにそれに気づくことすらなく。
それでは、自分の代で変えなければ。連鎖は止まらないというのに。
許せないならば許せなくていい
それが、これらの断ち切るべき呪縛をも示唆していることに、冬乃は思い至って。
(あるべき連鎖は)
沖田の言葉を、冬乃は思い出す。
こうあってほしいと願って援ける事と、
要求し強要する事は違う、と。
(願い援ける愛のほう・・)
願い援ける事が、そうして導く事が、子への大きな愛ならば。
要求し強要する事は、子への愛のふりをした別のもの。それはいわば親の内にはびこる自己愛であって。“親の責任” という名の隠れ蓑を被っていることに、ときに本人も気づかぬほどの。
(私が欲しかったのは、大きな愛のほうだったのに)
人なのだから、自己愛が言動を支配する瞬間があるくらいは、仕方のないことで。冬乃はとうの昔にもう、完璧な親としての人間像を求める事など、そうと知らぬうちに諦めていた。
それでも一方で冬乃は、餓え、求め続けた。親がそんな自己愛に翻弄される時があっても、それを超えた、それ以上に強い愛で最終的には包んでくれることを。
どんなに、親の自己愛を満たせない子だろうと。無条件に。
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