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うき世の楽園
195.
しおりを挟む目が覚めた冬乃の目はいきなり、褐色の逞しい胸板を映して。
声をあげかけた冬乃は、
次には、すっぽりとその腕に包まれていることに気づき、
(え?・・え?!)
はだけた襟から覗く、冬乃の大好きなその視界を超至近距離で堪能してしまいつつ、
懸命に記憶を探るも。目の前の愛する男が、一体いつのまに冬乃の部屋に来たのか全く思い出せず。
そうこうするうち。
「おはよう冬乃」
冬乃を覗き込む気配に、
どきどきと見上げた冬乃を。
「昨夜、夜這いした」
悪戯な眼が見返してきた。
(よば・・っ!?)
「抱き締めて寝ただけ。安心して」
何が安心してなのかよく分からないが目を瞬かせた冬乃に、
「冬乃の寝てる間に何かしたりはしてないから」
と聞いてもないのに答えた沖田が。
「予測通り冬乃が寝ててくれてよかった」
じつに爽やかに笑った。
「起きてたら、襲ってた」
極めつけにさらりと続けられたその台詞に。お決まりの如く冬乃は、朝から一瞬で発熱を遂げる。
見えない湯気を出しはじめる冬乃の、髪には優しく口づけがおちてきて。それは辿って額へ、頬へと次々に。
「美味しい夜食を有難う」
冬乃のあいかわらずの反応が面白いのか、くすりと笑った沖田の息がちょうど冬乃の耳朶に口づけられる刹那に掠めて、
ぞくりと身の芯を震わせた情感に冬乃は、慌てて目を瞑る。
だが沖田が体をずらし降りてくる気配がして、すぐにそっと目を開ければ、穏やかな優しいまなざしがそんな冬乃を迎え。
そのまま片頬を温かな手に包まれた冬乃は、近づく沖田の顔に再び、目を瞑った。
「ン…」
慈しむように優しいその口づけは、まもなく常のように冬乃を夢見心地なひとときへといざない、
冬乃の首の下に回された太い腕は、ゆっくりと冬乃の背を降りて、冬乃を優しく強く抱き寄せる。
透ける朝の光は冬乃の瞑った視界をも柔らかに照らし、どこからか小鳥たちの歌声が届きはじめるなかで、
冬乃はもうまるで天国にいるような心地さえしてきて。
幸せな夜を過ごした次の朝に彼の腕のなかで目を覚ますこと、冬乃がすでに中毒のように求めてしまうひとときは、これなのだと。
そして昨夜に寂しい夜を過ごした今朝ですら、力強いぬくもりに抱かれた途端こうなのだから、
彼の腕のなかはよほど冬乃にとって、“うき世”の楽園なのだと。冬乃は打ち震えるほどの幸福感に溺れるように、陶然と身を委ねた。
こんなに幸せでいていいわけない
だから、不意に。
鎌首を擡げた、いつかのような罪悪感に。
(・・・え?)
冬乃は、咄嗟に唇を離していた。
「冬乃?」
心配そうな眼が、冬乃の呆然と開いた瞳に映る。
冬乃は身を奔った震えをごまかすべく、只々沖田の首元へ顔をうずめた。
「・・・」
何も聞かずにあやすように冬乃の髪を撫でる沖田に、ほっと小さく息を吐きながらも冬乃は、目の前の沖田の着物をおもわず握り締めた。
この罪悪感は。どこか、あの疎外感のもたらした底知れぬ不安にも似て。
けれどもう、幸せである喜びなら素直に受け止めて享受することに、とっくに慣れ得たはずなのに、
(なんで・・・)
真っ先に心に浮かんだ千代の顔なら、今だってかわらず微笑んでくれるのに。
そして千代から受け継いだ、この魂からの、
使命感が。
冬乃に今も確かに訴えているというのに。
沖田との、この関係は、
千代の願いであるはずだと。
なのに幸せをさらにこのうえなく強く噛み締めた、この瞬間に、
何故ふたたび呵責の念が覆うのか。
どうして、まるでこれ以上幸せになってはならないと。留めるように。
「冬乃」
冬乃の背を抱き締める硬い腕が、つと緩められた。
「俺が夜這いだ何だと言ったせいで、不安にさせた・・?」
「え」
唐突に言い出されたその台詞に、冬乃は驚いて沖田を見上げた。沖田が冬乃に目を合わせてゆっくりと冬乃の頬を包みこんだ。
「あの時と、同じ顔をしたから」
(あの時・・)
冬乃に。勿論、それは伝わって。
沖田は冬乃が“禁忌” をまえに怯えた時の事を言っているのだと。強烈な疎外感が全く消えてはくれずに言い知れぬ不安に駆られた、あの時。
(・・・と・・・同じ・・?)
いま心奥で蠢く、この罪悪感は、
幸せになってはならないと留めるかのように、冬乃の心を縛り付ける箍は。
あの不安と、
冬乃の心を解放から縛り付ける箍と。
(同じもの・・・・だとしたら原因も、同じということ・・・?)
だがそれが何なのか。冬乃に思いつくものなど無い。
「冬乃・・大丈夫か」
表情を強張らせたままの冬乃を心配そうに見つめる沖田に、
その優しいまなざしに。冬乃は、
涙がこみ上げそうな想いを隠して微笑み返した。
「ごめんなさい、大丈夫です。また、・・幸せすぎて怖くなったみたいです」
冬乃は握り締めたままの沖田の襟に気づいて、慌てて手を離す。
「私なら、総司さんにこうして来てもらえたことは嬉しいんです。それに私は、ほんとうに早く貴方と」
結ばれたい
冬乃は口にしかけて、噤み。
(言ってどうするの)
彼とこれ以上近づくことは、許されていないと。もう、嫌になるほど思い知った。
抱いてください
あのときの想いは。きっと二度と、口にできない。
冬乃は唇を噛んだ。小鳥の声はいつのまにか聞こえなくなっている。
こんなに幸せでいていいわけない
幸せになってはならない
代わりにそんな声が、心奥で聞こえたまま。
その響きは、
もっと以前から。
もう長く聞いていた感覚。
“私なんかが、愛されるはずがない、幸せになれるはずがない”
(これ・・は)
“だって私はお母さんにさえ愛されないのに”
(・・・・あの頃の)
“そして愛される資格なんか無い”
“私を愛してくれないことを―――お母さんを、許せない私なんて”
「冬乃?」
目尻に指が這わされ、冬乃はびくりと震えた。
気づけば一気に溢れ出ていた涙が、沖田の指を尚も伝い。
「あ・・」
この罪悪感の、―――不安の。
原因は。
(お母さん・・・・なの・・?)
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