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うき世の楽園
175.
しおりを挟む冬乃が、それから夢うつつのまどろみの中、沖田の話し声を聞いたのは。夕の橙光が襖の隙間から煌めく頃だった。
(この声・・)
沖田の姿が見えず、顔を動かした先、隣の部屋から聞こえてきたのは沖田と、井上の声のようで。
(・・・急な隊務?)
起き上がろうとして、冬乃は体の奥の重い気だるさに、深く息をつく。
先ほどまでの時間を想い出し。冬乃はひとり薄闇で頬を赤らめた。
沖田はかわらずその心の冷静を保ったままに。
冬乃のこわばりを和らげ、ほぐすように愛してくれた。
(総司さん・・)
いつかは彼と最後まで近づきたい、その想いはむしろ増すばかりで。
それなのに、この底の無い惧れを消し去るには最早どうすればいいのか、もう冬乃には答えが出なかった。一度はあれほど己自身を説き伏せて、心晴れやかになれたはずが。
(もう・・いや)
此処の世に来た最初の日、蔵で夕陽のなか沖田達を扉の外に見て、あの時に受けた強烈な疎外感を今でも体感で想い出せる。どころか冬乃はもう、あの時のように視覚から体感することすらなく、
ふとした不意の瞬間に、これまで幾度も『観てきた』。
それはその瞬間にまるで、透明な薄氷の被膜が、肉体をするりと通り越し冬乃の心をひやりと直に覆うかのような。
そしてその冷たさは、
此処で時を重ねるごとに強くなっている感がしてならない。
(だけど・・これまでは)
沖田に触れられて抱きしめられている、その時だけは。
そんな心が凍える疎外感に覆われても、それは一瞬で温められるように解け落ちて。
彼に抱きしめられ温められて熱をもつのは、肉体だけではないということが、
肉体が、心を凌駕する、
その、沖田との触れあいによってすでに幾度となく経験してきたことが。
(さっきは、・・なのに)
禁忌
冬乃が懼れてきたその行為を直前にしたあの時。
起こることは、無かった。
(・・・ねえ、お千代さん・・)
私はどうすれば、いい
(やっぱり本当に・・・これは決して許される事じゃない、ってことなの・・?)
「冬乃」
つと襖が開き、橙光がすべりこみ。
光を背に沖田が入ってくるなり声を掛けてきた。冬乃が目覚めたことを分かっていたようだ。
冬乃はあまりの眩しさに目を細めて。
そして半ば体を起こしただけの姿勢で、着物を寄せて胸元を隠しながら、細めた視界に井上の姿が映らなくて内心ほっとした。冬乃を気遣ってどこか離れた所に居るのだろうか。
「これから先生の急用で祇園へ行くことになった。貴女は・・」
ここにいる?
と沖田が聞きながら、いつのまに着込んで刀を差したのか、すっかり外出できる姿で懐手に佇んで。
「此処は、幹部しか場所を知らない。来る時に誰かにつけられていない事も確認している。心配は要らない」
来るとしても泥棒だ
と、沖田はそして笑った。
(どろぼう・・)
たしかに泥棒なら、冬乃でも十分に対処できそうである。
「貴女の護身用に木刀を」
同じことを考えたのか、沖田がそんなふうに言うと押し入れを指した。
「あの中に入れてある」
「はい・・」
冬乃は微笑ってしまって。
「俺は深夜になるかもしれないが、此処へ帰ってくるよ」
(・・・あ)
その響きにとくりと、冬乃の鼓動が波打った。
帰ってくる、それは言ってみれば、
ふたりの家に。ということを強調している響きで。
(嬉しい・・っ)
つい微笑んでしまったのだろう、沖田が微笑み返してきた。
「冬乃さん、」
そこに、やはり襖の向こうに居たらしく井上の声がして。
「すまないね・・勇さんは、今夜の護衛は総司に頼むのを遠慮すると言ったんだが、歳のやつが・・」
どうやら近藤は気遣ってくれたのだろう、だが土方が押し通したといったところか。
「いえ」
襖の向こうの井上へと届くように声を上げて返しながら、冬乃も内心で土方に賛成する。
これまでも近藤には何度かあった。急遽、上から呼び出しを受けて会合へ出席するといった事が。
そんな時は、沖田が護衛として、
そして沖田が夕番や夜番の日で、どうしても急すぎて巡察の組を他に振り替えられない場合は、屯所に居る腕の立つ幹部が同行していた。
冬乃は思う。きっと土方なら近藤にこう言ったのではないか。
今夜、万一あんたに何かあったら総司は悔やむどころじゃねえし、あいつを呼ばなかった俺のことも許さねえだろ、と。
(私も総司さんにそんな想いはしてほしくありません)
近藤の死期は未だ今では無い。だが、怪我となると、記録に無いだけかもしれず。
死に至る重症の怪我もまた起こらないとはいえ、他のどんな事があるかまでは分からない。
「お気をつけて行ってらっしゃいませ」
つい冬乃は畏まって、沖田へと頭を下げた。
「・・いってくるよ」
穏やかな優しい声が、返ってきて。冬乃が顔を上げると、その声の通りの表情で目を合わせてくれた沖田が、一寸のち背を向けて出て行った。
その背を見送った冬乃は、もし沖田が早めに戻った場合のためにも、少し多めに夕食の食材を買い出しに行こうと、あれこれ考え始めた。
この界隈は野菜を売り歩く女性の行商も多い。
夕食の準備がなされる時間帯のおかげで、干物を担いでいる行商とも出会えて、ひととおりの食材を難なく揃えることに成功し、
冬乃はそれらを風呂敷に抱えて少々ふらつきながら帰ってきた。
沖田の存在さえ周囲に気取られずにいられるかぎり、道ゆく行商人に家にまで来てもらってもいいのだが、彼女たちと話し込んでしまうのもそれはそれで避けたかった。
そこで往来まで出ていって購入するほうを選んでみたのだった。やはり道の真ん中なだけに、それぞれの行商人とは手短な会話で済ませることが出来たので、正解だったようだ。
(お風呂も焚かなきゃ)
広い台所に食材を並べながら、冬乃はどうしても顔がにやけてくる。
なんだか早くも沖田との結婚生活をしているようで。
それにしてもこうして江戸時代での生活の準備ができるのも、使用人をしていたおかげなのだから、そのきっかけをくれた沖田や土方、あれこれ教えてくれた茂吉たちに感謝してもしきれない。
(ん・・)
起きがけの倦怠感が納まっていることに、体を自在に動かしていた冬乃はふと気がついた。
夕方までいつのまにか少し寝ていたおかげもあるかもしれない。
同時に冬乃はふたたび、昼間の沖田との濃厚な時間を想い出してしまい、誰もいないのに一瞬つい顔を覆った。
(倦怠感とか)
冬乃の此処での体はこうして、この世界にこんなにも如実に存在しているというのに、
どうしてこれに住まう精神・・心までは、受け入れてもらえないのだろう。
(魂は・・?)
冬乃はおもわず、まな板と包丁を取り出そうとした手を止めた。
(・・・そもそも)
千代から受け継いだかの魂はまるで、冬乃の心を操って、
そして冬乃の心は、この借りものの体を操って。
そして、ときに逆転し。体が、体感が、心を操ってきた。
でも魂は。
(決して私の心にも、この体にも、操られることは無い・・・てことだよね)
「・・・・」
冬乃は混乱してきて。
やがて諦めて思考を停止させた。
(ごはん)
いいから、ごはん作ろう
冬乃の “心” は、自身の “心” にそう命じると。気持ちを準備へと集中させ、ふたたび手を動かし始めた。
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