碧恋の詠―貴方さえ護れるのなら、許されなくても浅はかに。【現在他サイトにて連載中です(詳細は近況ボードまたは最新話部分をご確認ください)】

宵月葵

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五蘊皆空

144.

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 井戸場で花入を洗い、新しい水に季節の花を挿しながら、冬乃は晴れわたる空を仰いだ。
 梅雨明け後の京盆地は、憎らしいほど照り付ける日射しに、高温で蒸され続ける日々で。
 
 (暑すぎる・・)
 
 気づけばもう六月も半ばに差し掛かっている。
 太陽暦でならば八月も始まった頃だろう。
 
 外は風さえ無く。誰一人として、この日の下に長居する者はおらず。
 例の豚たちも、最近はめっきり木蔭や高床の下に潜り込んでいて、
 昼間から屯所を歩いても、そんな『豚の子一匹いない』閑散としたもので。
 
 (暑すぎる)
 冬乃はもう一度、じっとしていても滲む汗を手の甲にぬぐった。
 
 
 生きながらの、ちょっとした灼熱地獄なこの瞬間すら。
 それでも冬乃は当然。幸せだった。
 
 沖田とは、以前のように逢える機会が格段に増えて、時折また文字読みの特訓もしてもらえたり、そのまま抱擁と口づけで長々と中断してしまったり。
 冬乃はこれ以上は何に感謝したらいいのかが、もう分からなくなるほどに、幸せな毎日を過ごせているからで。
 
 あのとき沖田に言ってもらえたように、幸せである事を、怖がらず。
 そして罪の意識にばかり囚われず、幸福は幸福でまっすぐに受け止めることに。冬乃はやっと慣れることができた。そう言ったほうが正しいのだろう。
 
 
 
 
 障子を開放したやや北向きの庭先からは、廊下側の半分開けた襖を抜けて、幹部棟の玄関まで風が通り抜ける。
 
 こうして近藤や沖田の部屋の中にいる時は、そこそこ快適で。
 先程までの灼熱地獄からめでたく生還したような想いで冬乃は、今日も近藤の後ろで手元の書簡を確認してゆく。
 
 「冬乃さん、この後すこし一緒に町に出てもらえないだろうか」
 だが唐突に放たれた近藤のその言葉に、冬乃は驚いて顔を上げた。
 
 「その、・・私の妾に簪を贈りたくてね・・やはり女性の目で見立ててもらいたく」
 
 「承知しました」
 断れるはずもないので冬乃は笑顔を作って返す。
 
 正直、この暑い中、町に出たくはないものの。
 しかも近藤と外出するならば、頭巾を被らなくてはならないのだから。
 
 「有難う。せめて日を避けられるよう、町までは駕籠で行こうと思う」
 まるで冬乃の心の声を聞いたかのように、近藤がそんなふうに言い足したので冬乃は慌てて頷いた。
 
 
 「なんだ外出か」
 冬乃が外行き用の帷子へ着替えようと、近藤の部屋を出た時、
 通りかかった土方が、部屋の中で近藤がしたくをしているのを見止め、尋ねた。
 
 「ああ、ちょっと買い物にな」
 「護衛は」
 すかさず聞いた土方に、近藤は「駕籠だから要らないよ」と返す。
 
 「駕籠といえども買い物じゃ、町中では歩き回ることに変わりねえだろ。誰かつけてくれ」
 「いや、しかし、公用でもないただの買い物に、隊士を付き合わせるのもなあ・・総司も夕方まで巡察でいないし」
 「俺もこれから所用で外せそうにない。今日じゃなきゃだめか」
 「・・・しばらく顔出してないんだよ。機嫌損ねてるだろうから、その・・今夜行く時に簪くらい持っていってやろうかと・・」
 「ったく甘えな、勇さんは」
 
 土方が苦笑する。そんなふうに殆どの近藤の行動をいつも一笑して流す土方も、相当近藤に甘いような気がする、とこっそり思いつつも、
 二人のやりとりを興味深く聞いていた冬乃へ、いきなり土方が振り返った。
 
 (え)
 
 「こいつを見立てに連れてくんだろ、どうせ」
 
 「ああ」
 近藤が土方の後ろで返事をする。
 
 
 「だったら、おまえ男装しろ」
 
 
 今。
 土方が、冬乃に命じた内容を、冬乃は俄かには理解できず。
 
 「・・・それは、どういう・・」
 土方の背後からは、同じく理解に苦しんだらしき近藤の戸惑った声がした。
 
 
 「遠目から男を連れてるように見えさえすれば、或いは護衛の者だと思わせることができる。少なくとも、あからさまに女連れてるよりかずっといい」
 
 
 (あ・・そうゆうこと・・)
 
 「さいわい、こいつはいざとなれば、足手まといにならねえだけの腕もある。・・と、近藤さんは、未だこいつの剣を見たことが無いんだっけな」
 
 「ああ、だが総司から聞いてるよ。たしかに妙案だ。冬乃さん、頼まれてもらえないだろうか」
 
 (ですから断れるわけがありません・・・)
 
 しかし遠目は騙せても、
 近くで見たらどうせ、女の男装とバレバレか、がんばっても若衆にしか見えないだろうと思うと、
 傍まで来られたら最後、とても威嚇になるようには思えないが、
 
 「私なんかでも宜しければ。全力で、近藤様のお役に立てますよう励みます」
 冬乃は身を引き締めた。
 


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