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五蘊皆空

130.

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 今の二人には最大限可能なかぎりに、密着して抱き合っていながら、
 さらに近づきたいと。
 
 (貴女は・・)
 
 またそんな意味深長な台詞を吐き。
 
 好色の次は、これかと。
 内心、沖田は溜息をついた。
 
 いったい、
 
 (何度、俺を翻弄すれば気が済むのか)
 
 
 冬乃のほうは、やはりというか沖田の問いにきょとんとした顔になっている。
 
 
 (・・まったく)
 
 “互いの間にある全てを取り去り、”
 
 「もっと近づきたい?」

 冬乃が無邪気にこくんと頷く。
 
 「その為には」
 
 
 これ以上ないほど迄、
 ふたりが近づくには。
 
 
 「どうすることになると思う」
 
 
 
 「・・え?」
 
 
 言い回しを選んだおかげか。暫しの間を置いて、冬乃がやっと気がついた様子で、その可憐な頬を見事に色づかせ。
 
 
 直視していられず。沖田は、冬乃を掻き抱いた。
 鎌首を擡げた己の情欲の眼が、彼女を捕らえてしまわぬように。
 
 
 
 
 
 
 遠く夕の鐘の音を、冬乃は温もりの中で耳にした。
 沖田が鐘の音の終わりに合わせるように、そっと冬乃を離す。
 外の薄い青を写しとる障子が、風に微かに揺れた。

 
 冬乃の肩から手を離す沖田を、冬乃は見上げた。
 
 愛しげに見つめ返してくれるその眼に、惹き寄せられるようにまた、離れたくない想いが込みあげて。冬乃は急いで抑えると、静かに深呼吸をする。
 
 沖田が立ち上がり、手を差し伸べてくれるのへ冬乃は、うっとりと己の手を重ね。
 常のように。優しく強く、引き上げられた冬乃が胸に懐く祈りは、こんな一瞬ごとに、より強固なものとなってゆく。叶うはずなど、なくても。
 
 これ以上はふたりが近づくことは許されないのならきっと、これが、冬乃に与えられた最大の幸せであって。それなら、
 
 これ以上は無い、この幸せな日々が、永遠に続いてくれたならと。
 
 
 「行こうか」
 
 低く穏やかなその声に、
 冬乃は小さく頷いて。手を引かれるまま沖田の後へ続いた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 冬乃は、
 もう一度、心を決め、千代を訪れていた。
 
 
 そして今、千代の零れそうなほどに満面な笑顔を前に。冬乃は押し寄せる安堵感と、胸奥に沈んだままの罪悪感とで、言葉が出てこないでいた。
 尤も、
 千代がその可愛い声でずっと先程から興奮のままに話しているので、どちらにせよ相槌くらいしか差し挟むことはできないのだが。
 
 
 「でね、そんな患者さん達とのいきさつがあって一念発起したの、やっぱりきちんと知識がなきゃだめだって。いま少しずつ医学の勉強をしてるの」
 
 ゆっくりしていってね、と喜代が出してくれた茶を手に、冬乃は縁側で千代の横に座っている。
 
 久しぶりに雨も止んで、晴れ間がみえる、そんな昼下がり。
 
 どこか懐かしい感をおぼえる、この縁側に首を傾げていたが、ふと縁側からの光景なんぞどこも似たようなものかと思い直し、冬乃は隣の千代の話へと再び集中する。
 
 
 「貴女に刺激をうけて、蘭方医学の書を父の昔の知り合いの医者仲間から借りてきたのよ。で、・・もしお嫌じゃなければ、今度教えてもらえないかしら」
 
 「う」
 「え?」
 おもわず唸った冬乃を千代が微笑う。
 
 冬乃がある程度もつ医学知識は、あくまで結核に関してだけ。この病気を調べる過程で、いくつかの病気に関しても補助的な知識くらいは得たものの、結核を含めて全て、それで治療ができるわけでもない座学の初歩範囲。
 
 「私にお千代さんのお勉強のお手伝いが適うかは、全く自信がありません・・偏ってるんです、知ってる事とかが」
 「あらそうなの?」
 「お役に立てそうになくてごめんなさい」
 あのとき、蘭方医学をかじったと、咄嗟に嘘の言い訳をしたが、やはり下手な嘘はつくものではない。
 
 「冬乃さん、てほんと不思議なひと」
 千代がくすくす笑い出す。
 
 もはや縮こまる冬乃の横では、千代が茶を一口飲むなり、「でね」と再び話を始めた。
 
 「最近は知り合いのお医者さまに付いて、見習いとして医者の仕事も始めさせていただいているのよ」
 「すごい」
 冬乃はおもわず感想する。
 
 「ふふ。じつはね。酒井様に、この前、お武家様との縁談を勧めていただけたけど、まだせめてもう少しだけでも、この仕事をしていたくてお断りしちゃったくらいなの」
 
 (え、縁談・・?)
 
 「だって今、人生でいちばん楽しいときなのよ。母には呆れられたわ。素敵な縁談なのにって。そうですけど・・でも歴としたお武家様に嫁いだら、お仕事やめなきゃいけないでしょ」
 
 
 冬乃は唖然と千代を見つめてしまった。
 
 何か、明らかに千代に違う流れが起きていることは確かだった。
 それが彼女の運命が変わったせいなのかは分からないが、
 (でも悪い流れでは・・・無いよね・・・?)
 
 
 「母は呆れてはいたけどあっさり許してくれたの。父がいたら、きっとこうもいかなかったかも」
 
 くすりと笑う千代の鈴声を耳に、
 冬乃は、江戸時代の女性について読んだ本を思い出す。
 
 
 この時代では、結婚しても共働きがあたりまえの庶民層と、厳かに奥方として家庭の内におさまる歴とした武家等の層での、女性の生き方の違いは大きく、
 
 仕事が楽しい千代が、いま武家に妻として入るより、このままでいたいと願うのも当然なのだろう。
 
 
 尤も、この時代の多くの庶民層の女性は、あわよくば武家の妻となることを望み、実際に可能性がある女性は、奉公時代からそのための教養を身につけるべく励んだとも聞いているが。
 千代は少し特殊なのかもしれない。
 
 
 生き生きと瞳を輝かせている千代を見て、冬乃はますます湧きおこる安堵感に一瞬、涙さえ出そうになって、慌てて庭の木を見上げた。
 
 
 幸せのかたちは、ひとつではなく。
 
 運命で結ばれていた存在と離れ、別の道を進んでも。
 こんな幸せの道もあるのだと。

 沖田と添う道を強制的に消してしまった身である以上、冬乃にとっては、こうして幸せそうな千代を見る事さえ、どうしても自身への気休めになってしまうとはいえ。
 
 
 (でも・・・よかった・・・・)
 
 この先も千代が幸せな人生を歩んでいっても、
 千代への罪悪感は、消えることは無いだろう。それでも、 
 
 (今こんなに救われてる。ごめんなさい。そして、ありがとう、お千代さん・・)
 
 当然、冬乃の心を救済するために、千代が今こうして輝いているわけではないが、冬乃は感謝せずにはいられなかった。
 
 
 
 
 
 
 
 千代の家を出て、屯所に戻った足で、最早すっかり雲がなくなった青天の下を冬乃は、隊士部屋へと向かっていた。
 
 ちょっとだけ勇気が必要ではあったが、沖田と恋仲だと大々的に知れ渡っている以上、もう以前のように絡まれることは無いはずだ。
 
 
 冬乃は、池田にやはりきちんと報告しなくてはと、ずっと気になっている。
 沖田と家を見て廻った日から、数日ぶりにもらった休みだ。今日がその機会だと想い出したのだった。
 
 
 
 隊士部屋を覗くと、時間帯のせいか殆ど出払っていた。つい、ほっとしてしまいながらも、当の池田もおらず。
 考えてみれば昼の巡察の可能性だってあるのだ。冬乃は己の無計画を少し恨みつつ、道場に行ってみることにした。
 
 
 (それにしても、なんか・・)
 廊下を行きながら冬乃は眉を寄せる。
 随分と、隊士部屋が乱雑になっていたような気がするのだが。
 
 掃除が行き届いていない、といったほうが正確かもしれない。
 畳にいろいろ落ちていた上に、部屋の二隅に高く積まれた行李に、あらゆる荷が山になっていた。
 何かちょっと変な匂いもしていて。
 
 (新しい使用人たちは今どうしてるんだろう)
 
 食事の広間で見かける以上、辞めてはいない。
 
 (もしかして・・仕事してない・・の?)
 
 だが、隊士の誰も文句を言わないのだろうか。
 潔癖そうな池田なんぞ、使用人がすべきことをしていなければ、真っ先にあの理詰めで訴えそうなものなのだが。
 
 
 (それとも、掃除しても、またすぐ汚すとか・・?)
 
 いくら一日一度、使用人が掃除をしていようが、残りの時間に隊士たちが清潔を心掛けなければ、さすがに無理が生じる。
 
 だがそうなると、なぜ冬乃が掃除をしていた頃はこうでなかったのか。
 
 (引越してから大分経って、緩んでる・・とか?)
 
 隊士部屋の入っているこの建物は、西本願寺から借り受けたものだが、入る時に畳だけは総入れ替えしている。
 畳が新品のうちは、自然と、隊士達の心理もその綺麗な状態を保とうと働いていたのかもしれない。
 
 
 (・・とにかく池田様に、ついでに聞いてみよう。茂吉さんに、伝えたほうがよさそうな事があるかもしれないし)
 
 
 ぶつぶつ頭の中で考えながら廊下の角を曲がった瞬間に、だが、人が居て冬乃は、驚いて立ち止まった。
 (・・あ)
 
 なんと池田だった。
 
 「冬乃さん?」
 どうやら池田のほうは、誰かが廊下の角を来ることを気配で察していたのか、ぶつからないよう立ち止まっていた様子で。
 
 「こんなところでお会いするとは思いませんでした。どうされました」

 「あ、池田様にお話があって・・」
 「僕にですか」
 
 瞠目した池田へ冬乃はぺこりと会釈する。
 「いまお時間少しだけいただけませんでしょうか」
 
 「大丈夫ですよ。何でしょうか」
 
 冬乃はほっとして、「先日は」切り出した。
 
 「黙っていてくださって有難うございました、・・恋仲を装っているという・・」
 語尾の声が小さくなる冬乃と対称的に「構いません」と例のきりっとした声が即時に返ってくる。
 
 「それで、あの、・・本当の恋仲に・・・なれましたことをきちんとお伝えしなくてはと・・」
 言っていてやはり込み上げる恥ずかしさに、どうにもさらに声が小さくなる冬乃へ、
 「わざわざ有難うございます」
 きりりと、池田がすかさず返した。
 「ただ、もう知っていました。見ていれば分かります」

 「え」
 目を瞠った冬乃に、池田のほうが目を逸らした。
 
 「嬉しそうにしてらっしゃいましたし、その、・・とても艶っぽくなられましたから」
 
 
 頬を紅く染めた冬乃を、池田はちらりと見た。
 「どうかお幸せに」
 
 「あ、ありがとうございます・・っ」
 慌てて冬乃は頭を下げる。
 
 「では」
 
 「あの」
 去りかけた池田を冬乃ははっと思い出し、引き留めた。
 「最近、隊士部屋の掃除がなされてないのでしょうか・・?」
 
 「されているはずですが、・・ああ」
 冬乃の云わんとすることが分かった様子で池田が、すぐに小さく溜息をついてみせた。
 「一部の隊士が、どうも不潔のようですね」
 
 (不潔・・)
 ずばっと言ってのける池田に冬乃が目を瞬かせる中、
 
 「貴女が顔を出してらした頃は、そんなそぶりは見せなかったのですが。女性の存在というのは、男には大きいのですよ」
 
 「・・・」
 「男所帯は仕方がありません。あまり目につくようなら、いずれ上申しますが」
 
 新しく使用人が来てからは、お孝も、もちろん茂吉も、もう厨房の仕事しかしていない。まさかそんな事態になっているとは、二人も想像してはいないのだろう。
 
 
 冬乃は池田と別れ、建物を出ながら、さてどうしたものかと悩んだ。
 使用人側の責任でもないようだし、潔癖な風の池田でさえ未だ我慢できているのなら、冬乃が出しゃばることではないのかもしれない。
 
 (あ。そういえば・・!)

 だが冬乃はふと思い出し。ひとり目を輝かせた。
 
 近いうち、将軍に仕える御典医であり蘭方医の松本が、組に来て、衛生管理についてあれこれ指導してくれるはずではないか。
 
 (将軍が上洛した後だから、たしか閏五月の頃)
 
 あともう少しだ。
 冬乃はこの件は歴史通りに任せることにした。
  
 
 
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