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五蘊皆空

124.

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 ずっと
 なぜ私なんか産んだのと思っていた
 けれど、この命を得たから私は
 彼に出逢うことができた
 そして、幸せだと想える時間をいま過ごせるのはすべて、
 これまで生きてこられたから。
 だから
 産んでくれてありがとうと
 ・・育ててくれてありがとうと。
 
 それだけは 今なら言える
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 「冬乃」
 
 入梅を迎えて。
 冬乃の好きな季節を、此処、京都で、
 沖田の隣で、過ごせることに。
 
 冬乃は、今日だけでも数えて何度めかの溜息をついた。もちろん、幸せによる溜息を。
 
 「・・冬乃」
 
 
 繰り返されたその声に。そして冬乃ははっと声の主を見上げた。
 
 「あ・・と、ごめんなさい」
 
 
 隣に見上げた間近の、愛しい彼は。
 冬乃がぼんやりしてしまったことを責める様子など無く。
 
 「ぼうっとして溜息までついて・・」
 唯、穏やかに微笑んだ。
 
 「そんなに可愛いと、襲いたくなるから」
 困る、と。
 
 
 「・・・」
 
 穏やかに微笑んで言う台詞じゃない。
 
 冬乃は顔を赤らめた。
 ちなみにこの頬の熱さもまた、数えていったい何度めなのか、もう分からないが。
 
 
 
 今日、冬乃達は。細やかな霧の雨のなかを紫陽花も恥じらう相合傘で、ひとつひとつ家を見て廻っていた。
 
 紫陽花が本当に恥じらうかはさておいても、道ですれ違う人々が揃って恥じらっているのは確かで。
 何故にも、人通りの殆ど無い小路をずっと通っているとはいえ、沖田が冬乃を完全に抱き寄せるようにして歩んでいるのだから。
 
 しかも時おり沖田からは、冬乃の額や瞼へ口づけまで落ちてくるのである。頭巾を着けていなければ、きっと唇にも降っているにちがいなく。
 
 (わ・・私の江戸時代のイメージってまちがってた・・?!)
 
 もっとも相合傘に至った原因を作ったのは冬乃だったので、この幾らなんでも濃厚なまでの相合傘歩きにたいして冬乃は何も言えない。
 
 
 そもそも此処の世に来て、冬乃が雨の日に傘で外を歩いたのは、二回だけだったのだ。
 あの、島原角屋の時と、暴漢に襲われかけた日の、風呂への行き来の時である。
 
 そして島原の時は、着物の裾を必死で持ち上げていた冬乃のために、沖田が傘を開いて渡してくれて、
 風呂への行き来のあの時もまた、行きは、着替えの着物を抱えて部屋を出る冬乃のために沖田が差しかけるようにして渡してくれて、
 風呂を出た時も同じく、傘を預かっていた沖田がさっと開いて渡してくれたので、
 
 おもえば、そうして何から何まで面倒見のいい沖田のおかげで、冬乃はなんと自分で傘を開くという経験をこれまでしておらず。
 そして今日ついに、
 
 屯所を出る時にはどんよりと曇り空で、雨が降るだろうと持ち歩いていた傘を冬乃が、
 二軒目の家を出て少しした頃、やはり降り出した雨を受け、開こうとして。
 いきなり壊した。
 
 
 (和傘なんて良い物、平成で使ったことなかったし・・っ)
 
 内心言い訳しつつ、
 丁度通りかかった人には、顔を背けてまで嗤われるわ、
 沖田には、開き方も知らないなら未来では傘は使われていないのかと訝られるわ、
 
 (それにぜったい、馬鹿力だと思われた・・。)
 
 過去の二回とも、閉じる時は何も考えず“普通”に閉じたので、開く時も、その馴染んだ洋傘の要領で開けると勝手に思っていた冬乃は、そうして散々な想いをするはめになり。
 
 
 とにかく役立たずと化した可哀そうな傘を手に、冬乃は沖田の傘へと入れてもらうこととなって今に至る。
 
 
 
 「次が最後の家だけど、大丈夫?疲れてない」
 
 今も眩暈を感じるほど真上で沖田に問いかけられ、もはや近すぎて冬乃は、応えて顔を上げることもできない。
 
 ふと考えれば、もう何度も口づけていて、この近距離にもいいかげん慣れてもいいものなのに、
 一向にそんな様子なき己の激しい心の臓の音で、傘にあたる霧雨の音など容易に掻き消される中。
 冬乃は只々、小さく頷いた。
 
 「おぶってもいいよ」
 そんな冬乃へ笑みを含んだ声が続いて落ちてきて。
 
 冬乃は今度は、ぶんぶん首を振った。
 
 
 
 
 
 
 気に入った家があるかと聞かれ。全部としか答えようがない冬乃は、そして最後の家を後にしながら、本当に困っていた。
 
 これはもう、言うしかないのではないか。きちんと。
 こんなことを言うのは恥ずかしいなどと、言っていられない。
 
 貴方と住めるのなら、どこだっていいんですと。だから本当に選びようが無いのだと。
 正直、無人島の洞穴だって構わないのだから。
 
 そのうえ冬乃からしたら案内されたどの家も、それぞれに趣があって広くて住みやすそうで。そんな素敵な家での、沖田との生活を想像してみながら、ひたすら感激していて。
 
 
 「見て廻っておきながら、ごめんなさい・・先に言うべきだったのですが、」
 
 意を決して冬乃は沖田を見上げた。
 すぐ口づけられそうな至近距離に、慌てて目を逸らすのを抑える。
 
 沖田が立ち止まり。沖田の腕に包まれている冬乃も、当然歩みが止まった。
 
 「家は・・総司さんが決めてはいただけないでしょうか・・」
 冬乃は、鼓動の煩い胸で小さく喘ぐように息を吸う。

 「どの家もすごく素敵でしたし、やっぱりどうしても選べないんです。だって元々、」
 
 「私はどの家でも嬉しいんです、」
 冬乃は。最後の一言を押し出した。
 
 「総司さんと一緒に・・住めるだけで」
 
 
 「それを全部、敬語抜きで言ったら、家は俺が選ぶよ」
 にっこりと。例の邪気たっぷりな笑顔で返された冬乃は、瞠目した。
 
 (敬語、抜き?)
 
 「言ってごらん」
 
 (・・っ)
 どうやらまた、冬乃の調教が始まった様子だと。
 
 
 冬乃は沖田からついに目を逸らし下を見た。
 こんなの、とても目を合わせたままでは完遂できそうにない。
 
 「ど・・」
 冬乃は口ごもる。
 
 「ど?」
 微笑う沖田に。
 慌てて先に文章を頭の中で組んだ冬乃は、一気に言うべく。再び息を吸った。
 

 「どの家でも総司さんと一緒なら嬉しくて私には選べないから総司さんが決めて」
 
 
 「一本調子・・」
 見ないでもわかるほどの沖田の苦笑が返ってきた。
 (うう)
 確かに棒読みすぎた。
 
 「まあ、いいや」
 (あ)
 「俺のこと、好きって言って」
 そしたら今のでも許してあげる
 沖田はそう言って、おもわず顔を上げてしまった冬乃の額に、口づけで、促し。
 
 (そ・・・)
 
 そんなこと言えるわけ・・
 「言えないの?」
 
 (・・っ)
 覗き込んでくるその眼は、
 
 (ドS・・。)
 
 
 言わなきゃ絶対、解放してもらえそうにない。
 
 「す。」

 「ん」
 
 「・・・すき」
 「目、見て」
 
 囁く瞬間に視線を逸らしてしまった冬乃へ、下されるダメ出しに。
 
 (だ、だって)
 冬乃は胸内で呻いた。
 
 一本傘の下。
 (こんな、近くで)
 
 息遣いさえ届くほどの、この距離で。目を見て言えと。
 冬乃からしたら、軽く拷問である。
 
 
 「冬乃」
 
 後押しするように。そっと冬乃の体がさらに抱き寄せられる。
 
 もう一度。冬乃は沖田を見上げた。
 心を決めて。
 その刹那に、心をこめた。
 
 
 「・・好きです・・総司さん」
 
 
 
 (・・あれ?)
 
 沖田が目を見開いたまま固まっている。
 
 と、思ったら冬乃の体は沖田の胸へと、次にはぎゅうと抱き締められた。
 
 (いま・・総司さん、照れてた・・?)
 
 とくとくと煩いままの冬乃の心の臓は、寄せた耳に聞こえてくる沖田の鼓動と今まるで、同調するように。響いて。
 
 
 「冬乃、」
 その声は、温かな胸から直に聞こえた。
 
 
 「・・期待以上」
 
 
  
 どうやら合格だったらしい。
 
 
 
 
 
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