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恋華繚乱
95.
しおりを挟むこの時代の識字率は高く、庶民でさえ多くが文字を読めた。
そんなだから、冬乃の告白に驚かれたのも無理はない。
武家の出だとさえ言ってしまっているのだから。
だが。
(本当に、簡単には読めないんだもの・・)
後世に遺る近藤や土方の書簡の解読に、冬乃は辞書を片手に酷く苦労した。
沖田の書簡に至っては、殆ど漢字だけで書かれており、お手上げだった過去がある。
此処に来て、会話が全く違和感無く出来ているだけでも、厳密に言えば本来不思議なことだ。
この時代は言葉の言い回しが、微妙に違っていたと聞いていたのに。
身にまとう服の在り方における法則と同様、この奇跡の不思議な力の――奇跡の神様でもいるならばその力の――為す計らいなのだろうか、くらいに冬乃は受けとめていたものの、
だからといって、まさか文字まで普通に読めるようにしてくれているとは、さすがに思えない。
その部分にかんしては、言ってみれば冬乃の古文書に対する知識量の問題なのだから。
これまで使用人の当番表や、店頭の張り紙の文字くらいならば、酷いくずし字でなければ読めていたが、近藤の読むような本となると、沖田達の書簡を容易に読めない以上、同様に無理があるに決まっている。
「・・・冬乃さん」
沖田の困ったような声が続いた。
「読めないというのは、どの程度を言っている?」
「え、あ・・」
全く文字を知らないのか、日常生活に困らない程度には読めるのか、小難しい本を読むには苦労するあたりなのか、たしかに気になるところだろう。
「通常の生活の範囲ではかろうじて大丈夫だと思います・・ただ、近藤様の本までは、読めない・・と思います。書簡とかも・・・」
冬乃の返事に、少しはほっとしたのか、近藤と沖田が顔を見合わせた。
だが。
「局長の付き人として、書簡が読めないのは問題だね」
沖田が容赦ない言葉を投げてくる。
(う)
「武家の出と伺っていたので、てっきり・・」
近藤が、やはり困った様子で呟いて。
「俺が特訓しますよ」
沖田が返した。
「え?」
「基本的な文字の知識はあるようだから、なんとかなるでしょう」
「そうだな、頼む」
(え、ええ・・?!)
「早速はじめます。冬乃さん、俺の部屋へ行ってて。土方さんのところから文机とってくるから」
どうやら。
急きょ沖田先生の講義が、始まることになりそうで。
「すみません・・よろしくお願いします・・」
冬乃は、実を言ってちょっと嬉しい想いは隠しつつ。ぺこりとお辞儀した。
とくとく心臓の鼓動を感じつつ沖田の部屋で待っていると、まもなく文机を片腕に持って沖田が入ってきた。
と思ったらさっそく、寄って借りてきたのか近藤のものらしき本を、冬乃の前に置いた文机に広げた。
「読み上げてみて」
・・・いきなりですか。
冬乃が怖々と、冬乃の横に並んで座る沖田を見上げる。
(ていうか近!)
あまりの近距離ぶりに、いろんな意味でよけいにどきどきし始める冬乃に、
「どのぐらいか確認するだけだから。読めなきゃ読めないでいい」
沖田がさっくりと促してくる。
「ハイ・・」
冬乃は本を覗き込んだ。
(殆ど分かりません)
覗いていきなり、溜息ものである。
冬乃は、くずし字にかんして少しは独学している。
それでも、今この目の前にある本のそれは、かなり崩されて大量のみみずが這いつくばったような文字で。それでも平仮名ならば、ある程度は識別できそうなものの、どうも漢字の量が多い様子で、冬乃にとって難解なのは見るからに明らかで。
とにかくも冬乃は。
「・・・な・・る・・者?は、下・・?・・の人、也・・?・・は羽?・・」
読めるところだけでも、頑張ってみた。
やがて、酷いおぼつかなさで、漸く見開きの最後まで辿りついた時。
「これは鍛え甲斐がありそうだな」
沖田が、真顔で呟いた。
「・・・」
沖田のその感想が怖い。
硬直した冬乃に。
そして特訓は始まった。
最初は緊張していた冬乃だったが。
さすが沖田の教え方は簡潔かつ、分かりやすく。
勿論、怒ったりすることなど皆無で、むしろ冬乃が何度まちがえようとも淡々と訂正してくれて、その場で効率良い解読法を編み出しては導いてくれる。
(どうしよう)
沖田のすぐ傍ら、耳元に低い穏やかなその声で説明を聞きながら、今や冬乃は。
(幸せすぎる・・っ)
秘かに。打ち震えていた。
とくとく鳴ったままの心の臓は、時々冬乃の呼吸さえ乱して。
よもや講義を受けながら冬乃が隣でこんなにも蕩けているとは、沖田は思いもしないだろう。
(悪い生徒でごめんなさい、おきたせんせい)
救いようがない。
すぐ横で本を覗き込む冬乃の、どこかほんのり甘さを帯びた香りが鼻腔をくすぐる。
腕をまわせば簡単に抱き包めてしまえる、この近距離で。沖田は先程より、冬乃から目が離せずにいた。
沖田の視線には気づかずに冬乃は、
伏し目に、その長い睫毛をふるりと揺らしては、時おり小さく息を零す唇で、たどたどしく史記の文を読み上げる。
何故か、ふとした刹那に冬乃の息はあがって、閨事の際の吐息にすら聞こえ。
間違えないようにと緊張しているのだろうが、
それゆえか加えて紅潮している頬と、艶やかに色味を帯びた唇に、
沖田は、もう何度も魅入っては。
吸い寄せられそうになる手前で、押し留まり。
(まいったな)
よもや沖田が隣でこうまでも惑わされているとは、懸命に教えを受けている冬乃は思いもしないだろう。
心内で。沖田は盛大な溜息をついた。
「今日は、この辺にしとこう」
冬乃は沖田の不意の言葉に、はっと彼を見上げた。
沖田がパタンと本を閉じると「お疲れ様」と冬乃をちらりと見てそんなふうに微笑んで。
と同時に、
「総司、ちょっといいか」
襖の向こうから近藤の声がした。
冬乃が驚く前で、沖田はまるで予測していた様子で刀を手に立ち上がると、襖を開ける。
「すまない、これから黒谷に行く用事ができた、ついてきてくれるか」
「勿論です」
即答する沖田に近藤が頷き。
「冬乃さん、総司を借りるよ」
(きゃ)
「とんでもないです!」
近藤の台詞に冬乃が顔を紅くして首を振ると、沖田が今日で何度めかの冬乃のそんな返答に、ぷっと吹いて冬乃を向いた。
「ここに居てもいいし、今日はどちらにしても“講義”は終わりだからラクにしてて」
「はい・・!」
出てゆく沖田の背を見送りながら冬乃は、さてどうしようと。ひとまずくるりと部屋を見回した。
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