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恋華繚乱

87.

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 壬生方面へ帰る千代と十字路で左右に別れて、今にも降り出しそうな空模様の下、冬乃は急いだ。
 
 夕暮れを迎えて、普段なら人通りが未だ十分にあるはずの道は今、猫一匹おらず。
 
 
 やがて向こうから刀を差した二人組の男が、冬乃のところまで届くほどの大声で騒ぎながらやってくるのを目にした時、
 冬乃は嫌な勘がして。引き返すのもあからさまだと思い留まり、次の角で折れて迂回しようと足を速めた。
 
 男達もこちらに気づいたようで、冬乃が目を合わせないようにしていてもそれと分かるほどに、彼らは急に小声になった上に時々下品な笑いを立てながら、冬乃を様子見しているようだった。
 
 やがてやっと現れた角で曲がった頃には、男達との距離もかなり近づいてしまっていて、
 
 冬乃は曲がった瞬間に少し駆けておこうとしたものの、着物の裾に脚が囚われてたいした距離も進めずに、
 太腿の位置から裾を捌こうとした次の刹那には背後から、男達の呼び止める声を受けた、
 と同時に汚い足音に続いて、冬乃の腕は掴まれ。
 
 「離してください!」
 
 嫌悪を露わに冬乃が言い放つ後ろで、
 
 「そう嫌がらなくてもいいだろう」
 男がかまわず冬乃の腕を引き寄せた。
 
 今のでむりやり男達へと向き直らせられ、酒臭い息がかかって、冬乃は顔を背け。
 
 「こりゃあイイ女じゃねえか」
 もうひとりの男が冬乃の背後にまわって、冬乃を羽交い絞め、
 そのまま襟内に手を入れられそうになり。
 
 冬乃は次の瞬間、背後の男の足を勢いよく踏みつけた。
 「痛ッ」
 男がひるんだところを振りほどき、千代からの土産を手に持っていたほうの肘で、その鼻へ打ちを見舞った。
 
 「ぐぁッ」
 見事に当たり、背後の男はよろめいて冬乃を完全に離したものの、冬乃の腕を掴んだままの前方の男が慌てたようにその力を強め、
 
 冬乃は逃げることができず、蹴り上げようにも裾に制止され全く脚が上がらずに、
 ならばと男の手に噛みつこうとした時、
 「この女・・ッ」
 鼻から血を出したまま背後に居た男が、冬乃を再び羽交い絞めてきて。
 
 冬乃は、
 覚悟を決め。
 残る腕の側に抱える土産をその場に落とし、その手で力の限りに、背後の男の脇差を引き抜いた。
 
 そのまま、冬乃の腕を掴む男の手を、真っすぐに突き刺し。
 それでも浅く、刺したものの、
 
 「ッうああ!!!」
 
 刺された男は悲鳴を上げて手を引っ込め、
 
 背後の男も吃驚に再び拘束を緩めたところを、冬乃はするりと抜け出ると、
 今度こそ太腿の位置から着物を引っ張り、裾を大きく捌いて、
 
 そして脇差を手にしたまま駆け出した。
 
 「このっ・・」
 
 次にはヒュッと風を切る音が、すぐ背後で聞こえ。
 それが、男達が大刀を抜いて冬乃へ斬りつけようとした音であることに。
 冬乃は背を向けて逃げるのを諦め。
 
 男達へと、手の脇差を構えて向き直った。
 
 
 「おまえ、俺達とやりあうつもりか」
 男達の嘲笑が響く。
 
 「女にしておくにはもったいない度胸だな」
 
 冬乃はおもわず口端で嗤い返した。
 
 (知らないの?度胸は女のほうが据わってんの)
 
 冬乃の笑みをどう受け取ったのか、男達が威圧するようにそれぞれ上段に大きく構えてきた。
 
 「手こずらせよって。少々痛い目をみてもらうぞ。なあに殺しはしねえ・・おまえが抵抗できなくなるようにするまでさ」
 彼らの下卑た笑いが続き。
 
 
 (最低)
 
 酒を浴びた勢いで女を襲う。あまつさえ刀を抜く。志士の名など穢すような、みるからに落ちぶれた不逞の浪士に、おめおめやられるわけにはいかない。
 
 武士の風上にもおけないこの男達が、たいした遣い手ではないことも、また明白で。
 
 
 とはいえ、いつかの時と違って、体の左右を護れるものがなく。
 (今回、受け止めてる時間は無い・・)
 
 一方が降り下ろしてきた刀を受けていては、隣からもう一方の刀がすぐに降ってきてしまうだろう。
 
 (なにより、)
 
 脇差の短い間合いと、男達の大刀の長い間合い。
 (この不利な間合いを)
 
 どう制すべきか。
 冬乃はじりじりと後退し。
 
 (そのぶん、こいつらより早く動くしかない)
 
 
 動けるか。
 冬乃は、なお絡まってくる裾を脚に感じながら、
 脇差でさえ、ずしりと重たい真剣を握り締め、首筋を伝う汗を感じた。
 
 
 「素人が、脇差で俺達相手にどうするつもりなんだ?」
 歪んだ嘲笑を面に、先ほど冬乃に鼻を打たれたあげく脇差を奪われた男が、忌々しげに吐き捨てる。
 
 「諦めてその脇差をこっちへ渡せや。おとなしくさえしてれば、そんなにいたぶらずに可愛がってやるぞ」
 もうひとりの男が、あいかわらず下品な笑いを響かせ。
 
 冬乃は、黙って数歩さらに下がりながら。
 
 男達の動きを待った。
 上段から振り下ろされた一瞬の隙をついて瞬時に動く以外に、この不利な状況を制する方法は無いと。
 
 
 冬乃が仕掛けてこないことを男達は、冬乃が怖がって只々夢中で脇差を構えているだけと思っているのだろう、
 あまり硬直状態で誰かに見られても困ると、まもなく男達は、視線を交わして示し合わせると一気に冬乃へ近寄ってきた。
 
 冬乃は。
 さらに数歩、後退り、
 
 男達がまず最初に冬乃の得物を叩き落すべく、脇差を狙って振り下ろしてくることも、読んで。
 
 
 はたして、僅かな時間差をもって男達の刀は、冬乃の握る脇差へと次々に振り下ろされた。
 
 瞬間、
 先に振り下ろしきった男の側へと、冬乃は飛び込み、
 
 脇差の刃を寝かせて、降りきった男の腕を斬りつけながら横をすり抜け、
 
 「ッうああああ!!」
 
 腕から血を噴き出しながら叫ぶ男の隣で、
 驚愕と共に、背後へまわった冬乃へ向き直ったもうひとりの男が、再び刀を振りかぶるより一寸前、
 
 冬乃は手首を返し、男の手の甲へ斬りつけると同時に下がって、
 「くぅあッ」
 男がその痛みのあまり刀を取り落とすのを確認してから、
 背を向けて駆け出した。
 
 腕を傷つけられたほうの男が、何やら叫んで追ってくるのへ、
 振り返り、手の脇差を投げつければ、
 男は一瞬ひるんで避けると同時に立ち止まり。それからはもう冬乃を追ってはこなかった。
 
 それでも冬乃はやがて降り出した雨の中、ひたすら走って、
 
 屯所へ駈け込んだ頃には、本格的な雨にずぶ濡れになりながら、息も絶えだえに女使用人部屋の軒先へと倒れ込んだ。
 
 
 
 この西本願寺の北一角に、新選組が大工を入れて新設した幹部棟には、
 これまでのように女使用人部屋、兼、冬乃の部屋として、四畳半の小部屋が隣接され。
 
 冬乃は幹部棟の風呂場を、彼らが使っていない夜の間に借りるようにしていて。
 全身水浸しの身を起こしながら冬乃は、だが、今の時間では未だ風呂場は使えないだろうと溜息をついた。
 
 今すぐ風呂に入りたい想いでいっぱいなものの、今はただ着替えて頭を拭いて待つしかない。
 
 
 「冬乃さん」
 
 よろよろと立ち上がって縁側に這い上がった冬乃の背後で、いつのまに来ていたのか、傘を手に沖田が、冬乃を注意深く見つめており。
 冬乃は振り返ったまま、動きを止めた。
 
 「何があったの」
 
 明らかに尋常ではない様子の冬乃に、酷く心配そうな、不安げとすら取れる表情で、沖田が尋ねてきて。
 
 「あ・・、・・」
 
 冬乃の体の芯は、未だ震えていた。
 
 咄嗟の返しも出てこない冬乃に、
 ますます訝った沖田が、
 「冬乃さん」
 抑揚のない声で、促してきて。
 
 「・・・出かけた帰りに、・・雨に降られてしまったので・・。」
 
 漸う絞り出した冬乃の返事に、
 
 だが、沖田が微かに眉を顰めた。
 「それだけじゃ、ないよね」
 
 「袖に血が付いてる」

 沖田の言葉に、冬乃は、はっと袖を見やった。
 
 最初の男の腕を斬りつけた時に、付いてしまったのだろう。
 
 「・・道で暴漢に襲われそうになりました」
 冬乃は正直に告げた。
 
 「男の差していた脇差を奪って・・斬りつけて逃げてきました」
 
 
 冬乃の目を見つめていた沖田が、ふっと息をついた。
 
 「無事、なんだね・・?」
 
 
 「え」
 確認された言葉の意味を、冬乃は咄嗟に思い巡らして。
 
 沖田の視線が、冬乃の太腿が露わなほど乱れきった着物の裾を捉え。
 まもなく冬乃は理解して。慌てて頷いた。
 
 「もちろんです・・っ」
 
 
 安堵の表情を浮かべた沖田を、冬乃は胸奥を掴まれるような想いで見上げた。
 
 「人払いしててあげるから風呂に入ったらいいよ」
 続いた沖田の台詞に、そのまま冬乃は目を見開いていた。
 
 「そんな、申し訳ないです」
 夕餉の前後で、幹部の誰かしらが利用しないはずがない。
 
 「いいから」
 
 
 (沖田様・・)
 
 「有難うございます」
 冬乃は恐縮しながら、素直に頭を下げた。
 



 
 
 思えば千代からの土産も落としてきてしまった。
 それならいっそ千代と出かけていたことさえ伏せてしまえばいい。冬乃は心にそう決めると、
 
 風呂場の軒先の石に腰かけ、冬乃が出るまでずっと番をしていてくれた沖田に、再三に礼を言いながら、
 まもなく立ち上がって歩み出した彼が、先程の詳細を聞いてくるだろう時へと、構えた。
 
 話の前にまずは風邪をひかないようにと、先に風呂へ入れてくれたのだ。
 (本当に何から何まで有難うございます・・)
 温まった体で横に並びながら、洗い髪を手拭いに包ませ、冬乃は沖田をそっと見上げる。
 
 どことなく険しいその横顔が、冬乃の視線に応えてすぐに冬乃を向いた。
 
 「冬乃さん、貴女を護ってあげられず、怖い想いをさせてごめん」
 
 
 (え・・?)
 
 その、予想もしていなかった第一声に。
 
 冬乃は驚いて一瞬声も出せずに歩みを止めた。
 
 (なんで沖田様が謝るの)
 
 「・・あの」
 
 「次からは、」
 
 小さく風が唸って。冬乃の持つ傘が揺れた。
 
 「今日のような人通りが無くなる時分には、組まで使いを寄越してほしい」
 冬乃に合わせて立ち止まった沖田が、そう言うと冬乃をなお硬い表情のままに見下ろした。
 
 「次は迎えに行く」
 
 
 (うそ・・・)
 
 「そんなことっ、沖田様に頼めません・・!」
 
 「貴女が頼むのではなく、これは俺からの頼みだ」
 
 どうして
 
 「俺が仕事で組に居ない時も、他の人間が迎えに行けるようにしておく」
 
 
 どうして、そうまでしてくれるの
 
 
 「いい?いま約束してほしい」
 
 冬乃は戸惑って沖田を見つめ返した。
 
 「冬乃さん」
 促す沖田を。
 見上げたまま冬乃は言葉に詰まって。
 

 (そんなに優しくされたら)

 ・・・辛いだけなのに。
 
 
 「有難うございます・・ご厚意に甘えてそうさせていただきます・・」
 
 観念した冬乃の返事に、沖田が頷いて歩み出した。
 冬乃はあとに続きながら、もう何度となく見上げた彼の大きな背を、戸惑いにまみれて見つめ。
 
 
 遠くで時を知らせる鐘が響くなか、冬乃の部屋の縁側で立ち止まったその背が振り返った。
 
 「そうしたら、詳しく聞かせてもらえるかな」
 
 冬乃はハイと頷いて。
 気遣ってかそれ以上は先に動かない沖田を察して、冬乃は会釈を置き、縁側へ上がった。障子を開け、沖田を振り返って「どうか」と促せば、 
 やっと沖田も縁側へ上がってきて、部屋へ入る冬乃に続く。
 
 新しい畳の匂いが立ち込めている中、冬乃は座布団を部屋の中ほどに用意し。
 続いて茶の用意をと土瓶を拾い上げたところを「構わない」と止められ、
 冬乃は、胡坐をかいた沖田の向かいへと、少々畏まって正座した。
 
 
 しかし結局聞かれた内容は、その浪人達の風体や負わせた傷など、捕縛の参考にする為の情報のみで、
 何故冬乃が町に出ていたかなどは聞いてこなかったことに、冬乃は拍子抜けして。
  
 ただ最後にもう一度、先程した約束を忘れないよう念押ししてから沖田は早々に出て行った。
 
 
 ふたたび胸を締め付ける想いに冬乃は、茫然と沖田の去った障子を暫く見つめていた。
 
 やがてふと、風呂場で着替えて持ってきた、血のついた服へと視線をやって。
 千代と前に古着屋で買ったばかりの綿入れ袷だ。早く染み抜きをしなくてはと、冬乃は思い出し。脱力したままに無理やり立ち上がった。
 
                
 
 
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