津波の魔女

パプリカ

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新しい町にやってきた翌日、ぼくはこれから暮らす地域を一人で探索することにした。

まだ春休みの最中だったので、時間はいくらでもあった。他にはやることもなかったし、冒険するみたいな気持ちで歩くのは楽しそうだった。

ぼくが住んでいるのはどこにでもあるような住宅街だ。正直に言って、前に住んでいたところとそんなに変わらない。同じような家が並んでいるし、お店も見たことのあるものばかりだった。

ただ、前の町とは大きく変わる部分もある。
海だ。この町は海に接している。

ぼくが以前住んでいた町は内陸のほうで、近くに海はなかったので、もしも海水浴なんかに出かけようとすると、車で一時間以上かかってしまう。

やっぱりお父さんもお母さんも海がそんなに好きというわけでもないので、ぼくはいままで海で泳いだ経験というものは一切なかった。

でも、この町なら歩いていける距離にある。いつでも気軽に訪れることができる。
海とはどんなところだろう。プールとはだいぶ違うのだと思う。映像では何度も見たことはあるけれど、ぼくには具体的にその中に入ったときのことを想像することができない。

お昼ご飯を食べて、いろいろと引っ越しの荷物を整理した後、ぼくは家を出た。

家を出るとき、お母さんからはどこに行くの?と聞かれた。ぼくはその辺を散歩してくる、とだけ答えた。海に行くと具体的には言わなかった。その方がお母さんを心配させないと思った。

ぼくの新しい家はどちらかと言えば奥の方、海とは逆に位置する山側にある。だからそれなりに時間がかかるのかもしれないけど、これも冒険だと思えばそんなに大変じゃなくなる。

ぼくは海の方向に向かって歩き出した。遠くからでも空の広さが違うことはわかるから、どこに海があるのかは一目でわかる。

実際のところ、ここは海辺の町、とは言えないのかもしれない。なぜかというと、海と町の間に少し間隔があるからだ。

この町は以前、津波に襲われ、多くの家屋が流された。前の住宅地は更地となってしまい、その結果、集団でどこか安全なところへと移転しようという話になった。

最初はもっと遠く離れた場所が候補に上がったらしいけれど、遠すぎるという理由から断念。土地に対する愛着を持つ人も結構いたらしい。

結局、最終的には町を山側のほうにずらす、という提案で落ち着いた。山側の方にはまだ土地が余っていたので、そこを住宅地として造成した。ぼくが住んでいるのもその辺りになる。

だから海の手前にある土地は広々としている。
広大な緑地公園として整備されているからだ。置いてあるのはベンチくらいで、遊具などは見当たらない。サイクリングコースとして自転車専用道路なども通されている。

その向こうには大きな堤防がそびえている。

堤防を間近で見たのは初めてかもしれない。ぼくの身長よりも高く、コンクリートが積み上がっている。
片側から見たけでも分厚いのがわかるし、いかにも頑丈そうだった。これならどんな津波が来ても大丈夫かもしれない。爆弾だって弾き返しそうな感じがした。

堤防は大きかったけれど、必ずしも景観の邪魔をしている、というわけでもなかった。
どうやら道路側のほうが高く土を盛られているらしく、遠くからでは堤防の存在はあまり目立たないようになっていた。

堤防には階段が設置されていた。向こう側へと繋がる階段だ。
足をかけてみると、普通の階段よりもゴツゴツした印象が足の裏から伝わってくる。階段を上るというよりも、岩の巨人に持ち上げられているという感じがした。

一番高いところまで上ってみた。視界が一気に広がって、青い海が見渡せた。
春らしい穏やかな日差しの下、ゆっくりと波が行ったり来たりをしている。堤防の影響なのか、町では感じなかった海のにおいも感じとることができる。

水平線の向こうには何も見えない。島も船もなくて、青い海と空が均一に広がっていた。
どこにでもあるような当たり前の光景だけれど、ぼくはなぜだか不思議と感動した。車で眺めたものよりもずっと壮大で、地球の一部に触れられたような気持ちになった。

堤防の下には砂浜が広がっている。ぼくは海側の階段を下りていった。町のほうが高い場所にあるので、反対側の階段よりも長く続いた。

ぼくは砂浜に腰を下ろし、海を眺め続けた。
純粋に綺麗だな、と思った。堤防によって町の景色や音が阻まれているからなのか、別世界に来たような感じすらした。

周りには誰もいなかった。
休みなのに、砂浜で遊んでいる人もいない。
もしかしたら、ここはそういう場所じゃないのかもしれない。

堤防は波を受けるところ。ある意味では神聖な場所で、その近くで遊ぶというイメージを持つのは難しいのかもしれない。
とくにこの町の人にとっては。
ぼくはひとり、海を見続ける。目を閉じ、波の音に耳を傾ける。

そうして気づけば、周囲は暗くなっていた。眠っていたわけでもないのに、なぜか座ったまま動くことができなかった。

どれくらいここにいたのだろう。ぼくは慌てて立ち上がり、堤防の階段をかけ上がった。

いまの季節は春、それだけに日は長いはずだけど、遠くに見える街ではポツポツと灯りがつき始めている。
ぼくは時計をつけてはいない。だから何時かはわからないけど、夕飯の時刻はとっくに過ぎていることは間違いなかった。

ぼくは携帯電話も持ってはいなかった。前にいた学校ではほとんどの子が持っていて、だから両親からは何度か持つようにすすめられたこともある。

でもぼくはそれを断った。知らない他人と簡単に繋がられるものが怖かったから。そんな理由を両親に伝えると、二人とも笑った。ぼくが冗談でも言ったと受け取ったらしい。

それはぼくの本音だった。自分でもなぜかはわからないけれど、携帯電話を持ったとたん、ぼくは顔も知らない誰かの電話によって自分というものが失われる気がしたから。

両親はきっと心配している。
もしかしたら警察に相談なんかしているのかもしれない。やっぱり携帯を持っていた方がよかったのかな?いま後悔しても全然遅いのだけれども。

ぼくはこの町の土地勘がまったくない。まだ越してきて二日しか経っていないのだから当然だ。
自宅の方角も全然わからなかった。通って来たはずの道も忘れてしまった。目印になるようなものはなく、暗くなったことで景色も一変してしまった。

とりあえず来たときとは逆、海を背にして山の方へと歩くことにした。
そうして山を目印に進んだけれど、やっぱり広いところを目指すのと一軒家を目指すのではずいぶん違う。
特徴のない住宅街は迷路みたいなもので、ぼくはすっかり混乱してしまった。

迷っている間にさらに時間は過ぎていく。
こうなったら、どこかの家にお邪魔をして電話を借りるしかない。
新しい家の電話はともかく、お母さんの携帯番号は頭に入っているから、迎えに来てと頼むことは可能だった。

正直、恥ずかしいなという気持ちは強かった。なんていうか、町そのものに馴染んでいないから、誰かにお願いするという行為がとてもハードルの高いことのように思えた。

向こうの人もぼくのことなんて知らない。この子誰?そんな視線は想像するだけ嫌だった。この町の人間じゃない、そんな事実を突き付けられるのが怖かった。

そもそも電話を借りるとして、どこの家を選べばいいんだろう。親切な人はどこに住んでいるんだろう。そんなことわかるはずがない。

ぼくの考えすぎなのかもしれないけど、なんかやけにそういうことが気になった。交番でもあれば簡単に解決するんだけども。

そんなことを考えながらウロウロしていると、突然、妙な音が耳に飛び込んできた。
それは何か、重いものをずるずると引きずるような音だった。

これまでに一度も聞いたことのないような不気味な音だった。それが何かもわからないのに、ぼくの全身は震えていた。

逃げるような余裕もなかった。足はそこに埋め込まれたみたいに動かなかった。
ぼくはどうにか首を動かし、周囲を見回した。車は通っていなくて、助けを求められるような人も歩いてはいなかった。

不気味な音はさらに大きくなっていった。
ちょうどぼくは電灯の真下にいて、明るく照らされていない暗がりから何かが近づいてくるのがわかった。

ぼくはこちらに接近してくる「それ」を見た。

それは、一人の女の子だった。

全体的にだらんとした黒い服を着ていて、頭にはフードが被せられている。
完全に顔を覗くことは出来なかったけれど、不思議と女の子、というイメージがわいてきた。年齢は小学生のぼくと同じくらい。
体型でなんとなくわかる。

さっきまでの緊張がふっと抜けていくような感じがした。

ぼくは何を想像していたのだろう。

ホラー映画に出てくるような殺人鬼なのかな。
実際に目の前に現れたのは女の子。土地勘のない地域だから、必要以上に怖がってしまったのかもしれない。

落ち着いて観察をしてみると、その女の子は、白い手袋をしていた。そしてその手には銀色の何かを持っていた。さらによく見てみると、それは鎖だった。

鎖?

どうして女の子が鎖なんか持っているのだろう。アクセサリーというわけではなさそうだけど。

その鎖は女の子の後ろへと延びていた。どうやら女の子は鎖を持っているというより、鎖に繋いだ何かを引きずっているらしい。ぼくがそ目でれを辿ってみると、さっきの物音の正体がようやくわかった。

「え?」

それは棺桶、だった。
間違いなく、亡くなった人を入れるあの棺桶だった。

黒っぽい色をした六角形で、こちら側のほうが膨らんでいて、向こう側が細くなっている。蓋には白い十字街が描かれている。

小学生くらいの女の子が、細長い形をした棺桶を鎖で引いている。

ぼくは困惑した。だって棺桶なんて、女の子が引きずるものじゃない。ううん、大人だとしてもおかしい。棺桶なんて普通の人には縁のないもの。

これは夢なんじゃないかと、ぼくは瞬きを繰り返した。棺桶を引いた女の子は相変わらず、そこにいた。

間違いない。これは現実だ。

でも、なぜ?
この女の子はどうしてこんなことををしているのだろう?
この町独特の風習か何かだろうか。子供が棺桶を引くことが?

そんなのはこれまでに一度も聞いたことがない。ここまで特殊な風習なら、さすがに引っ越してくる前にどこかで耳にしたと思うのだけれど。
女の子はぼくの前で立ち止まっている。そこから動こうとしない。

「……」

女の子が何かを言った。
棺桶に集中していたぼくは、その言葉を聞き取ることはできなかった。
女の子は、再び唇を動かした。
今度は、ぼくにもはっきりと聞き取ることができた。
棺桶を引いた女の子は、こう言っていた。

「一度、死んでみますか?」
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