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第15話 皇太子の婚約者

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 皇太子クロードの誕生パーティーが近づいてきた、ある日。
 貴族名簿や礼法などを覚えたシオンは、壁にぶつかっていた。

「はあ……」
 ふとした瞬間、溜め息が出てしまう。

「どうされましたか?」
 リヴィエルが訊いてくる。
「あ、ごめんなさい。わざわざ時間を作って授業していただいてるのに……」
 慌てて姿勢を正す。

 シオンはリヴィエルに頼んで魔術を学び直していた。今はお互いに多忙な時期であるため、実践は一旦置いておいて、座学中心の授業が行われていた。
「何かお悩みですか?」
 リヴィエルは穏やかに訊いてくる。彼の声はなんだか落ち着くな、とシオンは思う。

「実は、クロード兄様の誕生パーティーに向けてダンスの練習をしているのですが、なかなか上手くいかなくて……」
 リチャードがファーストダンスの相手を務めてくれることになってから、シオンは特訓をしていた。せっかく踊るのだから、せめて足を引っ張らないくらいには上達したい。しかし、どうも思うようにいかなかった。

「そうでしたか。しかし、残念ながら、そういった方面のことではお力になれそうにありません」
 訊いておいてなんだが、とリヴィエルは眉尻を下げながら言った。
「リヴィエル様は公爵令息ですよね?」
「社交に関することはすべて兄に任せてしまっているもので」

 レムリア帝国には五つの公爵家が存在している。その中でも最も富に恵まれているのがゴルドビーク家であり、リヴィエルはそのゴルドビーク家の次男だった。だが、彼は宮廷魔術師として皇宮に仕えているにあたって、早々に公爵家の跡取り候補を辞退しているという。

「根っからの魔術師ということね」
 魔術師とは、神秘を追い求め探求する者たちのことである。中には、神秘のためなら地位や名誉もかなぐり捨てるような者もいるらしい。
 シオンは魔術が好きだが、そこまでのめり込む程ではなかった。しかし、気持ちは判る。探求すればするほど新たな発見がある。それがとても楽しいのだ。

「頑張るのは良いことですが、根を詰めすぎるのはいけません。息抜きでもしたらいかがですか?」
 リヴィエルの提案に、それもそうね、とシオンは頷いた。


 〇


 皇宮図書館の一角にある読書スペースで、シオンはぼんやりとしていた。
 久しぶりに訪れた図書館だったが、本を開いたまま、ページが進まない。連日のダンスレッスンで疲れているせいもあるだろう。それ以上に、脳が本の内容を理解することを拒否しているかのようだった。
 それはダンスに関する蔵書だった。いっそ視点を変えてみれば何か判るかもしれない、と目を通してみたのだが、成果はなかった。

 ──魔術の本でも読むか。

 そもそも息抜きに来たのだから、こんなところでまでダンスに縛られてどうするのだ、とシオンは両頬を軽く叩いた。
 魔術関連の蔵書が集まる区画へ向かう前に、今持っている本を元の場所に返してこようと本棚の間を歩く。
 そうしている間も、シオンはぼうっとしていた。
 だから気づかなかった。本棚の陰から人が出てくることに。

「あっ!」

 抱えていた本がドサドサと床に落ちる。五、六冊はあるだろうか。

「ごめんなさい!」
「いえ、こちらこそ、申し訳ありません」

 咄嗟に謝ると、おっとりとしているが丁寧な言葉遣いの声がした。
 本を拾いながら顔を上げると、その人と目が合う。
 緩いウェーブの、くすみがかったブロンドの小柄な女性だった。大きな鳶色の瞳に、儚げな柔らかい表情。アイシャが妖精なら、この人は天使のようだとシオンは思った。

「もしかして、オラシオン様ですか?」
 見惚れていると、彼女は首をかしげながら訊ねてきた。
「ええ、そうですけど」
「私《わたくし》、エリアーナ・ハインシュテルンと申します」

 彼女は片方の腕に本を抱えながらも、それでも完璧だと言わざるを得ない淑女の礼カーテシーを取った。シオンはその優麗さに見惚れた。
 ハインシュテルンはこの国の侯爵家であり、現当主は宰相を務めている。シオンは暗記した貴族名簿を振り返る。目の前にいる彼女は、宰相の娘である侯爵令嬢であり、そして──

「クロード兄様の婚約者?」

 言葉が口をついて出てしまう。あっ、とシオンは思わず手で口元を覆う。
 それを見て、エリアーナはくすっと笑みをこぼした。

「クロード殿下からお話は伺っています。レムリアの新たな星に、ご挨拶を」

 エリアーナが再び礼をするので、シオンもハッとして挨拶を返した。

「大変な目に遭われたそうですが、お身体はもう大丈夫なのですか?」
「はい。もうすっかり元気になりました」

 皇女の暗殺未遂事件については、箝口令かんこうれいが敷かれていた。正式なお披露目前の皇女が暗殺されかけたという事実は、醜聞のネタとして社交界にあっという間に広がるだろう。そう考えた陛下が、シオンのためにとった対策だった。そのため貴族の間でも、あの件について知る者は一握りだった。

 ──宰相の娘で、皇太子の婚約者なら、知っていてもおかしくはないか。

 エリアーナの天使のような微笑みを見て、彼女は良からぬことするような人ではないだろう、とシオンは緊張を緩めた。

「エリアーナ嬢は、なぜここに?」

 腕に抱えている本から、図書館に用があるのは一目瞭然だった。だが、彼女は皇太子の婚約者なのである。護衛もなし。一人で何をしているのだろうか。

「クロード殿下のご厚意で、皇宮の図書館をいつでも利用できるようにしてもらっているのです」

 本が好きなので、とエリアーナは本の表紙を撫でて、傷がないかを確認する。

「そうなんですね」
「皇女殿下も、図書館にはよくいらっしゃるのですか?」
「はい。私も本が好きなんです。特に魔術の本とか」
「じゃあ、もしかしたら知らないうちにすれ違っていたかもしれませんね」

 皇宮図書館は広い。ジャンルごとに膨大な量の書物が収められているため、それぞれに別の区画にいれば出会うことはまずないだろう。お互いに本が好きだという二人だが、読むジャンルが違ったのなら、これまでに出会わなかったとしても不思議じゃない。

「ということは、ここでクロード兄様に会えたのは、すごい偶然だったのかな?」
「殿下とはよく図書館でお会いしますけど、公務を抜け出して隠れるのに丁度いいのだと、以前仰っていましたよ」

 エリアーナは楽しそうに笑顔を浮かべている。
 シオンと会ったときも確か公務を抜け出していたな、とシオンはそのときのことを思い出して一緒に笑った。
 ふと、エリアーナはシオンが抱えている本を見て訊いてきた。

「ダンスの勉強ですか?」
「あ、えっと……まぁ」
 あんなに素晴らしい礼をするのだから、きっと彼女はダンスも上手に違いない。シオンはなんだか恥ずかしくて頬を掻いた。

「今度のクロード兄様の誕生パーティーで、あたしのお披露目があるんです。そこで陛下がファーストダンスの相手を務めてくれるというので、頑張って練習しているのですけど、うまく踊れなくて」
「恥ずかしがることはありませんよ。誰でも皆、初心者なのですから」

 彼女はそう言ってくれるが、いまいち自信に繋がらない。というのも、エリアーナは生まれながらの上流貴族の令嬢なのだ。皇族ではあるが、付け焼刃である自分とは格が違う。だから、励まされても、どうにも素直に受け取ることができなかった。
 そんな雰囲気を察したのか、そうですね、とエリアーナは顎に手を当てながら口を開いた。

「型にとらわれ過ぎてはいませんか?」
「型、ですか?」
「私もダンスは得意ではありませんでした。クロード様の婚約者として、殿下の名に傷をつけないようにと精進してきましたが、どうしてもダンスは上達しませんでした」
「本当に?」

 シオンは思わず声を上げた。本当ですよ、とエリアーナは答える。
 しかし、言われてみれば、おっとりとした雰囲気の彼女はダンスなどの身体を動かす行為は得意ではなさそうな印象だった。

「どうやって克服したんですか?」
 何かヒントをもらえないだろうかと、身体が前に出る。
「克服はしていませんよ。今でもダンスは得意ではありません」

 思わぬ返答に、シオンは目を丸くする。
「楽しめばいいのです。元来、ダンスとはそういうもの。皇女殿下は初心者なのですから、こういったダンスはリードしてくださる相手にお任せすれば良いのです」
「楽しむ……」
「私も、足りないところは知識でカバーしようとしたり、試行錯誤でした。けど、クロード様が仰ってくれたのです。自分に任せておけ、と」
「クロード兄様が……?」

 いつも気怠げな彼が、そんなことを。
 あまりに意外だったので、シオンは口をぽかんとさせる。

「殿下は、とても頼りになるお方です。私はその言葉を信じて、身を任せました。そうしたら、技術的には完璧ではありませんでしたが、それでもお互いに満足するダンスを踊ることができました」

 エリアーナはそのときのことを思い出しているのか、とても幸せそうな表情だった。やはり天使のようだ、とシオンは思った。同時に、自分の兄との惚気を聞かされているような気がして少し胸焼けした。

「エリアーナ嬢は、クロード兄様のことが好きなんですね」
「え! あ、その……」
 シオンが指摘すると、エリアーナの頬がさっと赤く染まった。
 本好きで教養高く、こんなにも可愛らしい人が婚約者だなんて、クロードは果報者だなとシオンは思った。

 すると、こちらに向かってくる人の気配──というより、魔力の気配に気づいた。魔術の授業が始まってから、個人的に精神を研ぎ澄ませる訓練をしていた。そのおかげか、自分と同じ魔力が近づいてくることが判ったのである。

「エリアーナ……と、シオンか?」

 本棚の陰から現れたのはクロードだった。彼は、まだ顔合わせをしていないはずの自分の婚約者と妹が一緒にいるとは思わなかったらしい。わずかに目を見開いて、二人の顔を見ていた。

「クロード様!」
 エリアーナも突然現れたクロードに驚きを隠せない様子で、慌てて挨拶をする。
「どうした? 顔が赤いが……」
「え? あっ! だ、大丈夫です!」

 顔が赤い理由を思い出し、エリアーナはさらに赤面した。あまり色恋沙汰に慣れていないのだろう。幼い頃から花街で様々な男女関係を見てきたシオンだったが、彼女の純粋で初心な反応には、ついからかってしまいたくなるような愛らしさがあった。
 取り乱している婚約者を見て、何をしたのだ、とクロードはシオンを睨む。あまり怖くはなかったが、あたしは悪くない、とシオンは両手をあげた。

 エリアーナを落ち着かせるために読書スペースに移動した。彼女を椅子に座らせ、その隣にクロードも腰を下ろす。
「兄様は、どうして図書館に?」
 また側近のアレクセイを困らせているのではないかと勘繰ってしまう。

「仕事が一区切りついたから、エリアーナをお茶に誘いに来た。彼女が登城していることは知っていたから、ここに来れば会えるだろうと思ってな」
 それを聞いて、シオンは納得したが、別に気になることができた。

 ──もしかして、クロード兄様が図書館に来るのは、サボるためだけじゃなくて彼女に会うためだったりして。

 クロードの言葉からは、図書館ここにくれば、確実にエリアーナに会えることを知っているということが感じ取れた。
 二人は相思相愛か、とシオンは嬉しくなった。

「そういうことでしたら、皇女殿下もご一緒にいかがですか?」
 顔の赤みが引いてきたエリアーナが提案する。
 とても素敵な誘いであったが、シオンはまだ今日の勉強が残っているし、二人きりにしてほしいというクロードからの無言の重圧を感じるので首を横に振った。

「まだ今日の勉強が残っていますので、遠慮させていただきます。どうぞ、お二人で楽しんでください」
「では、また別の機会に」
 エリアーナは残念そうに眉尻を下げた。その表情に罪悪感を覚えるが、やらなければならないことがあるのは事実だったので仕方がない。

 クロードとエリアーナの二人と別れたシオンは、プレーゴ宮に戻る馬車の中で、そういえば、と思うことがあった。
 クロードはとっくに成人し、皇太子としての地位を確立している。エリアーナも二年前に成人を迎えていて、いつ婚礼を上げてもおかしくはない。しかし、いまだにその気配が見られなかった。
 あれだけ惚気を聞かされ、二人の関係が良好なことを直に目にしたシオンは疑問に思ったが、すぐに心当たりに気づいた。

 ──後宮の呪いのせいか。

 結婚すれば、エリアーナは後宮に入ることになる。そうなれば、クロードの母である皇后や皇妃たちのように、彼女も命の危険にさらされる可能性があると考えているのではないだろうか。

 ──呪いのせいで、二人が不幸になるのは嫌だな。

 シオンは皇宮にやってきた一番の目的を思い出し、ぎゅっと手を握りしめた。
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