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黒い手と赤い耳
さゆみの夢
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若くして妻を失った主人公が、残された4歳の娘・早弓を(実家の手をかりつつ)一生懸命育てる。
父ひとり娘ひとりの生活の中で、他人にとっては取るに足らない、本人たちにはかけがえのない思い出を作っていく。
14歳になり、生意気な口を利くようになった娘が、妻の母校を受験することになった。その朝娘は、母の遺影の前で…
***
妻の早紀は、ショートヘアがよく似合う女だった。
着ているものもいつもシンプルで、化粧っけもない。こだわりや執着のないマイペースな性格で、くっきりした華やかな顔立ちではあったが、「いい女」というよりも「付き合いやすい、いいやつ」だと思っていた。
その早紀が、病気が原因で32歳の若さでこの世を去ったとき、俺は一人ではなかった。
黒いワンピースを着た娘の早弓はまだ5歳前で、母親の死が正確に理解できず、葬儀場で「今日、ママも来ればよかったのにね。病院だもんね」などと無邪気に言った。
「一人ではない」というのは、心強いことばかりではない。
むしろ「俺一人ならどうとでもなるが…」というニュアンスの方が強い。
まだ31歳だった俺は、情けない話だが、とにかく不安の方が大きかった。
◆◆
早弓は成長して、さまざまな知識や経験を身に付ける中、徐々に母の死を理解し、受け入れていったように見える。
時々夜中に「怖い夢を見た」と、泣きながら俺のベッドに入ってくることもあった。
「どんな夢?」
「黒いものがぶわーってなって、きれいな女の人?男の人?どっちかわかんない。
黒いものがおっきな手みたいな形になって、その人を持ってっちゃうの」
「どっちか分からない?」
「髪が短いけど、優しいお顔で「さゆみ、ごめんね」って言ってた」
「ああ…」
5、6歳の女の子の話だから、ただでさえ要領を得ない上に、夢の話だ。
だが、何を表徴しているのかは手に取るように分かる。
「さゆみはその人のことをどう思った?」
「よくわかんないけど、多分好きと思う」
「好き、か。ならよかった」
「パパはその人知ってるの?」
「さゆみの夢に入って確かめるのは無理だけど――多分知ってる人だ」
「パパはその人のこと好き?」
「好きだな。大好きだ」
「よかった」
少し話をすると落ち着いたようで、すっと入眠し、軽く揺すっても起きない。
俺は早弓をベッドに戻し、改めて寝ようとするが、結局朝までの間にだましだまし1、2時間うつらうつらしただけだった。
「怖い夢、か」
「黒いぶわっとした、手みたいな形のもの」なんて、早弓が好きで見ている日曜の朝のアニメにもよく出てくる表現だから、その辺が反映されたのだろう。
怖いと感じながら、「髪の短い、優しいお顔の人」のことは好きだという。
だからこれは早弓にとって、「怖い夢」であっても「悪夢」ではないのかもしれない――が。
◆◆
その翌日、寝る前に「バク 悪夢」と検索してみた。
悪い夢を食べるという伝説の動物「バク」は、やはり動物園で見られるマレーバクなどとは形状が大分違う。
そういえば、早紀は早弓のトイレトレーニングのとき、トイレの壁面に「洋式便器に座ったクマのぬいぐるみ(**下記注)」の絵を貼っていた。
自分で描いたものではなく、たまたまそんな絵本の一部をポストカードにしたものを持っていたのだ(それにしても、どんなモチーフだよ…)。俺はよく知らないが、ドイツの有名な画家のものらしい。
そのポストカードは、単純に早紀が気に入って結婚前に買ったものだったが、トイレトレーニングを始めるとき、「こういうときのために、これを買ったのだよ!」と得意顔で持ち出してきた。
そして「クマさんと一緒に頑張ろうね!」と早弓を励ましながら、それなりの成果を収めたようだ。
そのときのような感じで、早弓のベッドサイドにバクの絵でも貼ってやろうと思ったのだが、あのクマ君みたいなわけにはいかない。この絵では別な悪夢を誘発しそうだ。
そこで思い直して「ぬいぐるみ」と補完して調べてみると、やはり俺と同じ発想の親が結構いるようで、レビューサイトでも「おまじないのために抱っこさせてみました」などと書かれている。
アリクイみたいなのからネズミっぽいのまでさまざまだが、やはりぬいぐるみはかわいらしく作ってある。
俺はその中の一つを衝動的にポチった。抱き枕になっていて、一つ2,200円也。
目がかわいらしく、一番それっぽい白と黒のツートンカラーのものにした。
幸い早弓は気に入ってくれ、言いつけ通り枕元に置いたり抱っこしたりして寝るようになった。
バク効果?か、「そういう」時期を脱しただけかは分からないが、1カ月もすると、俺のベッドに来ることもなく、よく眠るようになっていた。
**
ミヒャエル・ゾーヴァの作
「ゾーヴァ 便器」で画像が見られます。
父ひとり娘ひとりの生活の中で、他人にとっては取るに足らない、本人たちにはかけがえのない思い出を作っていく。
14歳になり、生意気な口を利くようになった娘が、妻の母校を受験することになった。その朝娘は、母の遺影の前で…
***
妻の早紀は、ショートヘアがよく似合う女だった。
着ているものもいつもシンプルで、化粧っけもない。こだわりや執着のないマイペースな性格で、くっきりした華やかな顔立ちではあったが、「いい女」というよりも「付き合いやすい、いいやつ」だと思っていた。
その早紀が、病気が原因で32歳の若さでこの世を去ったとき、俺は一人ではなかった。
黒いワンピースを着た娘の早弓はまだ5歳前で、母親の死が正確に理解できず、葬儀場で「今日、ママも来ればよかったのにね。病院だもんね」などと無邪気に言った。
「一人ではない」というのは、心強いことばかりではない。
むしろ「俺一人ならどうとでもなるが…」というニュアンスの方が強い。
まだ31歳だった俺は、情けない話だが、とにかく不安の方が大きかった。
◆◆
早弓は成長して、さまざまな知識や経験を身に付ける中、徐々に母の死を理解し、受け入れていったように見える。
時々夜中に「怖い夢を見た」と、泣きながら俺のベッドに入ってくることもあった。
「どんな夢?」
「黒いものがぶわーってなって、きれいな女の人?男の人?どっちかわかんない。
黒いものがおっきな手みたいな形になって、その人を持ってっちゃうの」
「どっちか分からない?」
「髪が短いけど、優しいお顔で「さゆみ、ごめんね」って言ってた」
「ああ…」
5、6歳の女の子の話だから、ただでさえ要領を得ない上に、夢の話だ。
だが、何を表徴しているのかは手に取るように分かる。
「さゆみはその人のことをどう思った?」
「よくわかんないけど、多分好きと思う」
「好き、か。ならよかった」
「パパはその人知ってるの?」
「さゆみの夢に入って確かめるのは無理だけど――多分知ってる人だ」
「パパはその人のこと好き?」
「好きだな。大好きだ」
「よかった」
少し話をすると落ち着いたようで、すっと入眠し、軽く揺すっても起きない。
俺は早弓をベッドに戻し、改めて寝ようとするが、結局朝までの間にだましだまし1、2時間うつらうつらしただけだった。
「怖い夢、か」
「黒いぶわっとした、手みたいな形のもの」なんて、早弓が好きで見ている日曜の朝のアニメにもよく出てくる表現だから、その辺が反映されたのだろう。
怖いと感じながら、「髪の短い、優しいお顔の人」のことは好きだという。
だからこれは早弓にとって、「怖い夢」であっても「悪夢」ではないのかもしれない――が。
◆◆
その翌日、寝る前に「バク 悪夢」と検索してみた。
悪い夢を食べるという伝説の動物「バク」は、やはり動物園で見られるマレーバクなどとは形状が大分違う。
そういえば、早紀は早弓のトイレトレーニングのとき、トイレの壁面に「洋式便器に座ったクマのぬいぐるみ(**下記注)」の絵を貼っていた。
自分で描いたものではなく、たまたまそんな絵本の一部をポストカードにしたものを持っていたのだ(それにしても、どんなモチーフだよ…)。俺はよく知らないが、ドイツの有名な画家のものらしい。
そのポストカードは、単純に早紀が気に入って結婚前に買ったものだったが、トイレトレーニングを始めるとき、「こういうときのために、これを買ったのだよ!」と得意顔で持ち出してきた。
そして「クマさんと一緒に頑張ろうね!」と早弓を励ましながら、それなりの成果を収めたようだ。
そのときのような感じで、早弓のベッドサイドにバクの絵でも貼ってやろうと思ったのだが、あのクマ君みたいなわけにはいかない。この絵では別な悪夢を誘発しそうだ。
そこで思い直して「ぬいぐるみ」と補完して調べてみると、やはり俺と同じ発想の親が結構いるようで、レビューサイトでも「おまじないのために抱っこさせてみました」などと書かれている。
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俺はその中の一つを衝動的にポチった。抱き枕になっていて、一つ2,200円也。
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幸い早弓は気に入ってくれ、言いつけ通り枕元に置いたり抱っこしたりして寝るようになった。
バク効果?か、「そういう」時期を脱しただけかは分からないが、1カ月もすると、俺のベッドに来ることもなく、よく眠るようになっていた。
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「ゾーヴァ 便器」で画像が見られます。
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