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第14章 心理戦

不思議な段階

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『詐欺師ほど騙しやすい人種はいないねえ。
 自分の安い嘘で、人をだませていると信じているんだから。
 全くおめでたい人種さね』

「…急になんだ?」

 緩和と緊張。急に彼の顔が険しくなった。

「太宰治(**下記注)の『ぺてん師』の一説ですよ。なぜだか今、急に思い出したんです」
「ああ、ダザイか。ど忘れしていたよ。さすがに面白いことを言うよね」

そこでまた「緩和」する表情。

 私も太宰をそんなに読み込んでいるわけではないけれど、少なくとも『ぺてん師』なんて小説は知らない。口から出まかせを言っただけだ。
 それに太宰なら、もっと気の利いたことを言うと思う。
 私は自戒のつもりで言ったんだけど、彼は自分の「痛い腹」をさぐられたと思って冷や汗をかいたのかもしれない。

 朝っぱらから自宅で心理ゲームごっととか、ぞっとしないな。疲れちゃう。

「君はそういうウンチクめいたことには強いけど、社会経験がゼロだからねえ。
 僕は夫だから付き合ってやってるけど、そんな張りぼてみたいな教養、外でひけらかさないでくれよ?」

「はい、肝に銘じます。さすがですね」

 すっかり機嫌は直ったようだし、さっきまで妻の携帯をいじっていたことも忘れているようだ。

 私から社会経験を奪ったのは、いったいどこのどなたさんだ。

**
※『ぺてん師』は筆者によるでっち上げですが、次のような一文は太宰作品に実際にあります。

「だまされる人よりも、だます人のほうが、数十倍くるしいさ。地獄に落ちるのだからね。」

『かすかな声』より

+++

 みゆきのお友達だという女性のナンパに失敗したものの、またニューフェースを見付けたようで、久々に「ねえ、次の日曜だけど…」と言い出した。

 あれから「お小遣い付き外出権」が与えられていないこともあるが、私はしばらく高村宗太に会っていなかった。
 部屋にも行っていないし、公園などで偶然会うこともない。
 万が一会っても、他人のふりをしようと申し合わせている。

 教職の試験のことは詳しく聞いていないけれど、そういう関係でまた実家に帰ったのかもしれない。
 「別れた」という女性とは会うのだろうか。
 男と女なんてもろいものだ。会って体を重ねれば、自分の過ちに気付くかもしれない。
 私はとことん自分に都合のいい展開を考えていた。

 宗太のことは好きだが愛してはいない。
 でも、そう言ってしまったら、きっと彼は傷付くだろう。
 私はベッドの中だけで、罪悪感を抱えながら、何度も「愛してる」と言い、「愛してる」と言われる。

「そういえば君、外出したときは何してるの?」
「映画とか、漫喫とかですけど。あとは図書館?」
「うわ、いかにも無趣味そうな時間のつぶし方だね。
 もっと視野を広げた方がいいんじゃない?」

「…そうですね。じゃ、みゆきさんを遊びに誘ってみようかな」
「それは駄目だよ!」

 虚を突かれて余裕をなくした彼が、大きな声を出した。
「どうしてですか?」
「みゆきは君と違って友達も多いし、忙しいんだ。そんなことも分からないの?」
「…それもそうですね。また無趣味らしく時間を浪費してきます」
「そうだよ、その方が君らしくてかわいいよ」

 私が自分自身、驚いているというのに、彼は私が妙に口が達者になっていることに気付いていない。

 きげん次第では、相変わらず口も手も出る男だが、愚妻の口から出まかせの「なんちゃって太宰」すら知ったかぶりをする男――という目で見ると、もてあそんでいるような気分になれて楽しい。

 私たち夫婦は、何というか、不思議な段階に移ってしまっているのかもしれない。
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