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第4章 スケッチブック青年
ベンチの隣で
しおりを挟む別にスケブ青年に会えるかもって思ったわけじゃなくて、私はもともとこの公園で休憩することが多かった。
それは誤解のないように、最初に言っておきたい。
3日ぐらい後、ベンチに座ってほうじ茶を飲んでいたら、この間の人が近づいてきた。
「あの…」
「あ、この間の…」
「あの、その、逃げたりしてすみませんでした」
「え?」
「実はここであなたがたい焼きを食べているのを見て、
あんまりおいしそうに食べているのがかわいくて、
ラフにスケッチだけさせてもらっていたんです」
「そうだったの…」
「で、家に帰ってから思い出しながら手を入れたら、
我ながらすごくよく描けたので…これ…」
「すてき…でも私、こんなにきれいじゃないわよ」
お腹だけせり出した鏡餅みたいな体形で、にやにやしながらたい焼きをほおばっているだけの絵なのに、なぜかすごい美女(というか美少女)に見える。
もともとこういうタッチの絵を描く人なんだろう。
「いいえ。あなたはとってもすてきです。
俺、もともと風景のスケッチしてたのに、
あなたがたい焼きを食べるところを見ていたら、
目が離せなくなっちゃって」
「えっ、恥ずかしいな」
「ごめんなさい。気持ち悪いですよね」
「そうじゃなくて、がつがつ食べているところ見られちゃったのがね」
「そんなことないと思うけど…」
「体重増えすぎだろうって主人に注意されたから、
こんなところでこっそり食べていたんだもの」
「妊婦さんって大変なんですね。
うちの姉貴も、赤ちゃんの分までっていっぱい食べて
産後も戻らないって嘆いていました」
気づいたら彼は、ごく自然に私の隣に座っていた。
「やっぱりそうなんだ…。私も気をつけなくちゃ」
「いや、うちの姉は本当に関取みたいに貫禄出ちゃったから。
義兄に「ごっつぁんです」なんて言われて、
土俵入りのポーズして見せたりして。
傍で見ていても楽しそうで、飽きないんですけどね」
「いいなあ…」
「え?」
「…なんでもないわ」
+++
今日は買い物中の休憩ではなく、ただの散歩(ウオーキング)だったので、気分的にも楽だったせいもあり、その青年とすっかり話し込んでしまった。
内心を忖度することも、格好つけることも忘れて、思いついた言葉をぽんぽん口に出せた。
ここのところ、一言発しては否定される日々だったので、こんなふうに誰かと話したのは久しぶりかもしれない。
青年は、「彼」が行っていた大学の教育学部で美術の先生になるための勉強中で、まだ21歳だという。
「うちの主人もそこの出身なのよ。行政政策学部だけど」
「へえ、エリートじゃないですか。うちの大学で一番偏差値高い」
「そうなんだ。私、よく知らなかった」
「でも、それならこんなに絵がお上手なのも納得がいくわ」
「いや、これは完全な趣味です。イラストのサークルに入ってて」
「へえ…私美術って苦手だったから、絵が描ける人って本当に尊敬しちゃうな」
「俺は絵しか取り柄なくて、でも私立の美大とかは無理だって親に言われたから、必死で勉強して国立入ったんです。
実際、本当にやりたいこととはちょっと違うけど、少しでも絵に触れられてるから幸せですけど」
「私はなあ――女子大の国文科に行ったんだけど、何も身になってないよ。
特にやりたいことも見つからなかったし」
「何言っているんですか!まだお若いのに。人生これからでしょ?」
「え…人生これからってどういう意味?」
意味はもちろん分かる。
分かるけど、どうしてその言葉が今出てくるのかが分からなかった。
「あ、その――すみません。なんだろう、うまく言えないけど…」
「遠慮せず、思ったことを言ってみて」
「あなたはまだ若くてきれいで、これから赤ちゃんも生まれる。
それだけでも前途洋々じゃないですか」
「そうかなあ…」
「でも…」
「でも?」
「ほんっと生意気言って申しわけないんですけど、
たい焼きを食べる前のあなたはすごく顔が暗くて、
この人大丈夫かなって気になって。
それでじっと見ちゃったんですよ、本当は」
「まあ!」
「ごめんなさい。本当、ごめんなさい」
「気にしないで。それで?」
「その人がたい焼きをかじった途端、感動したような顔になって、
だんだん笑顔になって…
俺はそれを見て、池とか木とか描いてる場合じゃないなって、
ページをめくったんです」
気づいたら私は泣いていた。
見ず知らずの人が、私をそんなふうに見て、絵まで描いてくれたんだ。
「わ、どうしたんですか。泣かないでくださいよお」
「ごめんなさい。うれしくて…」
「え?」
「ごめんね…本当に今うれしいんだ…私」
妊婦はホルモンの関係で涙もろくなることもあるという。
青年は私が泣き止むまで、黙ってそばにいてくれた。
+++
「もう大丈夫ですか?」
「うん――ごめんね。もう大丈夫」
「あの、赤ちゃんいつ生まれるんですか?」
「あと2カ月くらいしたら、かな」
「じゃ、またここで会えますかね?お散歩の途中とか」
「え?」
「いやその、いろいろ話せて楽しかったから…って、俺駄目ですね。
勝手に絵描くし、自分のことばっかりだ」
「そんなことない!また絶対来ます。いろいろお話しましょ」
「はい!」
たい焼きを頬張る絵は、「もしよかったら」ってプレゼントしようとしてくれたけど、辞退した。
本当はすごく欲しかった。
「彼」が普通の、ちょっとやきもち焼き程度のダンナだったら、「どうだ、いいだろ」って自慢できたかもしれない。
でも、今の彼にそんなものを見せるわけにはいかない。
想像が追いつかないけれど、いつの倍ぐらい嫌なことを言ったり、正座させられてお説教されたりするかもしれないし、場合によっては暴力もあり得る。
今まで暴力だけはなかったんだけど、ついこの間、「虫の居所が悪い」という理由で腰を蹴られたばかりだった。
それすら頭がおかしくなっている私は、「お腹は蹴らなかった。優しい」と判断してしまっていた。
もう完全にバグっていた。
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