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【終】水ようかん(2)
しおりを挟む母の寝室は、むしろ真っ先にヘルパーさんに掃除を頼みたい空間なのだが、いつも「自分でやるからいい」と突っぱねられるらしい。
身内の俺ですら、入るのを嫌がることがあるくらいだから、当然かもしれない。
几帳面だった母が、あの空間に身を置いていることが信じられないほど散らかり、荒れている。
どう頑張ってもとれない排便臭のようなものが漂っている。
洗濯済みで既に乾いているような衣類ですら、時には何となくにおう。
せめてマットレスを陽に当てるくらいはしたいのだが、「余計なことをしないで!」と言われてしまう。
訪問看護師も検討してみてはと、ケアマネと主治医から言われた。
しかし母がコンディションのいいときでないと、居留守を使われる可能性もある。かといって、訪問日に合わせて俺が行って待機しているというのも、毎度毎度は難しい。
そして何より、あの寝室に入ろうとしたら怒るかもしれない。
ケアマネが考え抜き、よかれと思って提案してくれることにすら、「簡単に言ってくれるよな…」と反発してしまう、それが最近の俺の日常である。
今の俺は、一言でいうと「情緒不安定」というやつなのだろう。
こんな毎日にうんざりしつつも、娘と少女Aが出先から「カラオケなう」などと写真を送ってくれるのを見ると、やはり口元がほころぶ。
最近分かったことだが、しんどい生活の中での「普通」というのは、平常運転の中の「幸運」よりも、ずっと輝いているのだ。
◇◇◇
「娘たち」は18時頃帰ってきたので、すぐカレーを出した。
冷蔵庫の卵を全部使ってゆで卵(11分ボイル)をつくり、あとはラッキョウと福神漬けを添えた、ごくごく普通のポークカレーだが、娘は「カレーはこういうのが一番好き!」と言ってくれる。
ちなみに米は少し多めに炊いた。
食べ盛りの娘たちのお代わりを見越してということもあるが、適当に塩むすびか何かつくって、母親に届けるつもりだった。
ゆで卵も1個だけ、少し早めに引き上げた半熟のやつがあるから、これで夕飯にできると思う。
「パパちょっと出かけてくるから、食器は洗い桶に浸しておいてくれ」
そこで「えーっ、洗うくらいするよ~」と少女A。
「そうだよ~」と娘。何やら急に子供が2倍に増えたような気分だ。
「あと君、もしうちに泊まるなら、おうちの人には連絡しておくんだぞ?」と少女Aに言うと、娘の方が「え、一緒に泊まってもいいの?」と反応した。
「どうせそのつもりだったろう?Tシャツくらいは貸すから、適当に着ておいて」
「やった!でも…パパはどこで寝るの?」
「夏だからその辺でいいよ。キッチンの床でも、なんなら押し入れでも」
「ドラえもんかよ!」
そんな俺たちのやりとりを見て、少女Aがカラカラと笑った。
何となく、いつもよりも笑い声が軽快な気がする。
「まあ、それは冗談だけど、お祖母ちゃんのところに泊まるかもしれないし」
「え?お祖母ちゃん、ひょっとして悪いの?」
「例えばの話だ。遅くなるかもしれないから、ちゃんと戸締りしておけよ」
「はーい、行ってらっしゃい!」
2人の少女が朗らかに俺を送り出した。
こういうのは悪くないな。
「冷蔵庫に水ようかんがあるから、食ってもいいぞ」
◇◇◇
自転車で実家にたどり着くと、玄関灯が灯っていなかったし、寝室も暗かった。
朝みかんを食べさせてから、ずっと寝ていたのか?
これは――紙おむつの中がえらいことになっているかもしれないし、着替えも必要かもしれない。
「母さん、あの後、何か食べたか?」
寝室の電灯のひもを引きながら話しかけると、首を横に振った。
「夕食後の薬も飲んでないよな?駄目じゃないか」
「…なくて…い」
「え?」
「忙しい…なら…こなくていいよ」
弱弱しい声でそう言う母に、俺はきっと「健気さ」を感じ取るべきなのだろう。
「握り飯とゆで卵持ってきたよ。塩むすびだけどさ。あと水ようかん。これくらいなら食えないか?」などと、何一つ気にしていませんという調子で言うべきなのだろう。
アパートには、娘と少女Aが待っている。あそこまで仲よくなるとは意外だった。
娘と妻の今後の関係も気になるところだが、まあ俺がどうこうできることではない。
明日はケアマネさんが来る日だし、たしか訪問マッサージも午前中に頼んでいたはず。
今日は行けなかったデイサービスも、次回はちゃんと行けるように体調を整えて――ああ、新しいタオルも買っておこうか。
分かっていた。頭では十分分かっていた。なのに心と頭が全く違う動きをしてしまった。
「…るせえな…適当なことばかりいいやがって!このお荷物が!」
俺は、何も食べたくないと首を弱々しく振る母の口に、ラップをはぎ取った握り飯を突っ込んだ。
「気使ってるポーズなんて要らねえよ!俺のことなんて、本当はどうでもいいんだろ?」
「げふっ」
母は俺に食べ物を突っ込まれて、苦しそうにせき込んだ。
嚥下障害とか誤飲とか、心配なことがいろいろあり、食べ物を与えるときは慎重になるが、そういえばせき込みってのは、異物に対する拒絶反応だから、こういう場合はむしろいい反応なんだっけ?何かの医療漫画で読んだ記憶がよみがえった。
背中をさするとか水を飲ませるとか、やるべきことはあったのだろうが、俺は母が口から食べ物をこぼしたことを叱責し、殻をむいたぐじゅぐじゅの半熟卵を口に突っ込んだ。
それらも当然、こぼしてしまうのだが、お構いなしに「ほら、仕上げにデザートの水ようかんだ」と、グレープフルーツ用にギザギザスプーンで大きく切り取って突っ込んだ。
さらに、こんなふうに「言わなくていいこと」を付け加えてみた。
「あんたの面倒見てやれるのは、俺だけなんだからな。見捨てられたくなかったら、ちゃんと食えよ、きたねえな」
「げぼっげふっ」
「あんたのお気に入りの息子らは、あんたのことなんてとっくに見捨ててるよ。いいざまだ」
「ぐぉ…」
母は苦しそうだが、抵抗の色を見せている。しかしその抵抗が非常に弱い。
そのとき、茶の間の柱時計がボーンボーンと鳴った。7時になったようだ。
俺は――こんな無力な人間に何をしているんだ?
「俺はいったい…何を」
そうか、「時計が鳴らないと寂しい」って言っていたから、この間修理に出したんだっけ。
そのうち気が変わって、「うるさくて眠れない」なんて言うようになるかもしれないから、そのときは電池でも抜いておけばいいと考えたことも思い出した。
俺は冷静になると同時に急に怖くなり、母の状態を全く確認しないまま家を出た。
鍵をかけたかどうかも覚えていない。
◇◇◇
自転車にまたがった。
アパートまでの帰路はルートが何本があるが、用事のために寄り道することもあるし、その日の気分で変わる。
その中の1本は、細い割に交通量が多い。そして自歩道が申し訳程度しか確保されていない。
ただし、この道がアパートまでは最も近道だ。
慎重になっているときは決して通らない道だが、俺は何も考えずにその道を選んだ。
いや、考えていないのに「選んだ」はおかしいか。
電柱や路駐の車に阻まれ、車道に大きく乗り出さざるを得ないことも多い。
すると、ママチャリの俺がちょろちょろして邪魔らしく、クラクションを盛んに鳴らす車もある。
自歩道に誰がいるかなどお構いなしに、結構なスピードで走り抜けていく車もある。
暗くてよく見えていないのか、そもそも確認する気がないのか。
そうか――もし俺がこの状態で車道に倒れたら、そういう車は俺を避けられず、はねてしまうに違いない。
そうしたら俺は大ケガをするか?いや、ケガでは済まないかもしれない。
荒れ放題の部屋で一日中眠るだけの、わがままばかり言う母。
全く協力しない兄弟(この際だから言うが、弟はあの緊急搬送の後、多忙を理由に一度も母に会いにきていない)。
「自分が見たものが全て教」信者の妻は、俺の話など信用しやしないし、これから説得するのも不可能だろう。
あんがい離婚前提で、俺を有責配偶者に仕立てるには絶好の現場だったりしてな。
何かもう――いろいろどうでもいいや。
交通事故に遭って死ぬと、異世界に転生できるんだっけ?そういうアニメは結構ある。
そこはどんなところだろう?
俺はそこで何者として扱われるのだろう?
俺をはねて加害者になってしまう車も、よくよく考えると気の毒だが、そんなことを考える余裕もない。
俺がいなくなったら、母はどうなるんだろう?想像もつかないが、どうにでもなれ。
妻は、少しだけ面倒な思いをするだろうが、その後は大した困らないだろう。
あ、娘と――少女A。
娘はともかく、少女Aは行き場を失ってしまうのだろうか。
他人の迷惑を顧みず、自分本位にするこの行為のたった一つの心残りが、知り合って間もない赤の他人の娘さんとはね。
娘と少女Aは、今頃風呂にでも入っているかな?
小さいがTVを部屋に置いておいてよかった。
今の若い子はあまりTVは見ないらしいが、あれば暇つぶしにはなるだろう。
水ようかんはバカにして食べないかもしれないが、コンビニで好きなものを買ってくるくらいはできるか。子供じゃないんだからな。
「ごめんな…ばいばい」
俺は誰に対してということもなくそう言い、クラクションをやかましく鳴らす車をめがけ、意識的に体を右に傾けた。
【完】
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