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マドレーヌ(1)
しおりを挟む俺が母の手助けをするために、3年前、実家から割と近くにアパートを借り始めた頃、母の要介護度は「要支援2」だった。
歩行器を使わなければ移動が困難、ときどき物忘れがひどいなどはあったものの、きちんと意思の疎通ができ、聞き取りに来たケアマネジャー相手に冗談を飛ばすゆとりもあった。
しかし、先日ついに「要介護1」と認定された。
「介護」の言葉は俺にはずっしり来たが、母本人が、どう説明しても「よく分からない」と繰り返すだけだった。
施設自体の変更はなかったが、通う曜日が変わった。
それがたまたま地区の可燃ごみ回収日と同じ「月・木」だったため、俺は朝飯になりそうなものを持って、ごみ回収車が来る前にごみを取りまとめ、あとは母が施設に行くための支度を手伝うことにした。
曜日が変わって初日。担当の職員さんも変更になる。
そんなこともあり、俺は「母の新学期」みたいな心持ちで、変に張り切っていた。
出来合いの「釜めしのもと」みたいなものを買って、3合分の炊き込み飯と、ゆで卵をつくった。
3合分、というのは商品パッケージにしたがっただけなので、俺が食べる分を含めてもかなり多い。しばらくは炊き込みご飯を消費する生活になりそうだと思うとため息が出てくるが、三度三度食べていれば、きっとすぐなくなる。それに炊き込みご飯自体は好きだ。
これをお迎えの1時間ぐらい前から母に食べさせ――おっと、忘れちゃいけない、食前のインスリンをちゃんと打たせて――朝食後の薬を飲ませる。その後、お茶でも飲みながら、ゆっくりお迎えの車を待って、見送った後は部屋に戻って仕事だ。
洋服は、お気に入りらしい生成のブラウスと、赤茶色のズボンなんかどうだろう。なかなかかわいらしい(?)と思う。
◇◇◇
今日は少女Aは来るだろうか。
月・木の朝は、大体、俺を待ち伏せするようにコンビニで会い、俺についてくるので、俺も後ろを気にするようなしないような状態で自転車を押す。
しかし今日は施設の職員に母を託してからになるから、いつもよりも2時間ぐらい遅くなるだろう。
一応連絡先の交換はしているが、だからといって、「今日は遅くなる」と連絡するのもおかしな話だ。
何の約束もしていないんだからな。
今は母優先の生活だが、あの子のこともやはり気になる。
いっそ合鍵を渡すべきだったか?などと一瞬思ったが、そもそも「合鍵ちょうだいよ」と言われて、「ばか言え」と断ったのは、自分の方である。
◇◇◇
意外というべきか、少女Aは市内最難関の高校に在籍していた。
「じゃ、俺の兄と一緒だよ」と言うと、「おじさんが50歳で、お兄さんは何歳?」と聞くので「52歳だ」と教えると、「じゃ、75期生ぐらい?」と、とっさに数字が出てくるあたり、どうやらうそではないらしい。
実際、2度目に部屋に上げたときは問題集や筆記用具を持参し、俺の作業中はずっと勉強して、飽きるとスマホでゲーム(ちゃんとイヤホンをして)という感じで、本当に邪魔にならずに過ごしていた。
何だか健気なので、「そうめんぐらいならごちそうするぞ」と、昼飯は結局俺が作って出した。
「肉みそタレに入れるの、おいしいね。こんなのしたことない」
「そうめんだけだと太りやすくなるし、疲れやすくなるから、豚肉でビタミンB1を補うといいんだってさ」
「そうなの?疲れとかはピンとくるけど、肉なんて逆に太りやすそうなのに」
「ああ、俺もそう思ったんだが、糖質が代謝しやすくなるらしいよ」
俺が妻から教えてもらった知識の受け売りをすると、「へえー、食べ物ってすごいんだね」と、心から感心したような反応をしていた。
少女Aは、「勉強して大学も行って、いい仕事について母を楽させたい」と、まるで昭和の苦学生のようなことを言った。難関校に入ったのもそれが動機で、猛勉強したという。
「ママは飲み屋さんで働いてるの。美人で優しくて、料理もうまいんだよ」
「それはいいな」
「でも高校に入ったら、ママのことを知って、無教養な底辺とか下流家庭とかってバカにするヤツがいてさ」
この街には評価の高い私学があまりないので、少女Aの通うような難関進学校は、公立ではあるものの、社会的地位も所得も高い家の子供が多いようだ。
兄が通っていた頃は、バンカラな男子校という校風が売りだったが、ここ20年ほどで共学になったこともあり、雰囲気も変わったのだろう。
「…それで学校に行かなくなったのか?」
「それもあるけど。というか、どんなに勉強してもこの程度のヤツってこんなにいるのかって思ったら、ちょっと空しくなって」
「なるほどなあ…」
どうやら、「親を侮辱され、いじめられ」というよりも、少女A自身が「こんなバカどもと肩を並べて勉強すること」に対し、冷めた気持ちになったらしい。
仮に強がりで言っているとしても、その誇り高さはなかなかどうして、褒められていい気がした。
ちょっとした思いつきで受け入れただけだったが、俺は確実に少女Aに対し、特別な感情を持つようになっていった。
(断っておくが、もちろん恋ではない)
◇◇◇
少女Aのことはとりあえず置いて。
俺がごみの処理を終えて、手を洗ってから、母の寝室のカーテンを「おはよう、いい天気だぞ」と言いながら開けると、弱弱しい声で「…閉めて」と言われた。
「どうした?」
「…って言ったのに…」
「え?」
「来ないでって、でんわ…」
「したのか…?」
「できなかった…けど、来て…ほしくなかった…」
「何だよ、それ」
「いつも悪いから…めいわく…かける」
母は最近、電話に出ないことが非常に多い。
それで心配になって直接行くと、ごく普通に茶の間でテレビを見ていることも多い。
「電話、気付かなかった?」と言うと、「鳴っているのは分かった」とだけ答えた。
携帯を確認すると、案の定、包括支援センターやデイサービス、仕出し弁当など、いろいろな着信があったし、そのうちの何件かは、「お母さんが電話に出ない」という理由で、俺の方に確認の電話がかかってきた番号だった。
また、「呼び鈴を押しても出てこないが、お留守ですか?」という電話も、当然俺のところに来る。
同居でもないのに知るわけがない。電話しても出ないのは俺も同じだ。
「お留守ですか?」というただの質問も、「そもそもなぜ同居ししないのか」と責められているように聞こえ、正直うんざりする。
「どうして出ないの?」
「動くの…めんどう…」
「あのね、母さん。こうやって電話出ないと、結局俺にかかってくるんだよ?」
「ああ、そう…」
「母さんいつも、『俺に迷惑かけたくない』とか言うけど、こういうことで結局迷惑かけてるんだよ?分かる?」
「ごめん…」
「じゃなくて、俺はちゃんとしてほしいんだ。昔の母さんみたいに」
「ごめん…」
「だから――もういいよ」
俺は自分自身が結構理不尽な詰り方をしているのに気付いて、ちょっと嫌な気持ちになった。
こんな調子では、今日のデイサービスも「行きたくない」と言うに違いない。初日だから、ぜひ様子見のためにも行ってほしかったが、無理やり連れていってもらうわけにもいかない。
「とにかく何か食おう。おにぎりあるよ?ゆで卵も…」
「要らない」
「…何なら食える?」
「くだもの…」
「ならバナナと、みかんの缶詰かな」
「みかん…」
「わかったよ」
そのみかんも、三つ四つ口にいれると、「もういい」というふうに、下を向いてかぶりを振った。
とにもかくにも胃に物が入ったので、朝の薬を飲ませ、「何かあったら呼んで」と言って、玄関から一番近い茶の間に行った。
本人が行きたくないと言うものを、無理やり行かせるのも間違っているが、理不尽なわがままばかり言った後の「あんなところ、どうしても行かなくちゃいけないわけじゃないんだよ」という言い方にカチンと来た。
あんたはデイサービスに行かなかったら、風呂も入ってない小汚いばあさんだぞ?
あんたがバカにしてるお年寄りたちの方が、聞き分けもいいだろうさ?
転んだら、ひとりで起き上がるのも難しいほど何もできないだろう?
言ってはいけない言葉ばかりが頭に浮かんだ。
俺は冷たい麦茶を1杯飲み、呼吸を落ち着けてから、新聞の折り込みチラシの裏に現況を書き出してみた。
そういえば、この新聞もコラム欄を書写するために取っていると言っていたが、それも最近さぼりがちだよな。
〇食欲がない。腹が空いていないのではなく「何を食べてもまずいから食べたくない」と言う。
〇食べないと薬も飲めないし、体に力が入らず、いつまでも寝たまま
〇無気力
〇話が通じない
〇年相応の物忘れ?認知症?
そんなふうに気ままに書いているうちに、送迎車の入ってくる音がしたので、事情を説明して頭を下げた。
多分母は、コンディションが良いときにこの「チラ裏」を見たら傷つくだろう。
俺は母の手をさすり、「また来る」とだけ言って、丸めた紙をサコッシュにしまい込んだ。
◇◇◇
時間は大分遅かったが、いつものコンビニに寄ると、「お・じ・さん」と声をかけられた。
「今日は遅かったねえ」
「ああ、ちょっと用事が長引いたんだ」
「来なかったらどうしよって思ったよ」
「悪かったね。でも、ずっとここで待ってたのか?」
「違うよ、隣の公園」
「え?」
「おじさんのこと、前からずーっとあそこで見てたんだからね」
少女Aは、妖艶なほどにいたずらっぽい顔で笑い、「これ買っちゃう。おじさんの冷蔵庫、アイスティーあったよね?」と言った。
「ああ、つくったばかりのがある」
少女Aが手に取ったのは、「レモンかおる しっとりマドレーヌ」という商品だった。
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