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どら焼きとバウムクーヘン
しおりを挟む『私、検査したら乳がんが見つかったんだよ』
あれは10年くらい前だったか。母からの電話の第一声がこれだった。
実際は元号・西暦ともに正確に覚えているのだが、何となくこんなぼかし方をしたいことってないだろうか?
俺は39歳か40歳で、母は70歳になっていたかいなかったか。
――実際これも、母親の生年月日をきちんと覚えており、簡単に逆算できるわけだが、俺にあまり関心のない母のデータをそこまで厳密に語るのが、何となくしゃくという程度のぼかし方だ。
例えば父が亡くなったときの家族関係の状況を、年齢や入院期間などの数値を細かく言いながら話題にしたとき、母は「あんたはそういうことにやたら細かくて、何だか気味が悪い」――そんなふうに言われたのが、俺が34歳になる年の1月で、母はもうすぐ65歳というタイミングだったことまでしつこく覚えている。
時は3月。誕生月的に、俺は39で母が70歳で間違いない。
60代の頃の母は、体の調子がよかったり気分が乗っているときに、飲食店などで軽いアルバイトをしていた。
60歳で役所を定年になった後、年金はしっかりもらえていたが、まだ現役を引退という気分ではなかったので、小遣い稼ぎと自己実現的な感覚だったようだし、まだ足腰もしっかりしていたから、似たような境遇の女性と小旅行に行くことも多かった。
そんな中でたまたま受けた乳がん検診で、何か不審なものが見つかった。
実際、執刀を担当した医師をして「よくこれが見つかりましたね。本当に命拾いしましたよ」と言うくらい微妙な大きさだったようだし、術後の経過もよく、2週間程度で退院した後は、俺と弟と母とで、快気祝いと称して「少し高級な回らない寿司屋」で一杯呑んだ。
弟が手術が不安で表情の暗かった母に、「母ちゃん、頑張ったら「寿司辰」で特上握りおごってやっから、そんな顔すんなよ」と元気づけ、それを実行しただけだが、「本当にお前たちのおかげだよ」と、弟の方ばかり見て言っていたのが気になった。
母の入院に際し、保証人としてサインしたのは俺だった。
入院準備は母が自力でできたものの、不意に必要になったものを準備したり、手術の間、家族控室で待機したりというのも、全部俺が引き受けた。
入院中は、いつでも病院からの連絡に応じて駆け付けられるよう、家主不在でがらんどうの実家で寝起きしていた。
そういう生活でも、せめて自分の車があればもっと楽だったのだが、我が家には乗用車は1台しかなく、ふだん公共交通機関で通勤している妻も、「あなたに車を持っていかれるのは厳しいわ」と言うので、実家から病院までの移動や荷物の運搬には、母の自転車を使った。距離は大したことがないが、遠くからでも病院の建物が分かるほど高台にあるので、坂道がきつかった。
悪天候時と母の送迎にはタクシーを利用した。これは頼みの綱の弟が、たまたますさまじく忙しかったためだ。そんな中でも暇を見つけて見舞いには来てくれたので、その点は感謝したい。
そうそう、兄も一応一度だけ見舞いには来た。タイミングが合わず、俺は会えなかったが、別に見られなくて残念に思う顔でもない。
当時まだ30歳くらいだった「年下の義姉」は、「お会いできなくて残念だ」と言っていたらしいが、「そうなんですね」としか答えようがない(弟は別の機会に一度だけ会ったことがあるらしいが、「30って言われても“サバ読んでるのか”と思うほど老けていた」と手厳しい)。
兄の見舞いというか手土産は、全国的に有名な店のバウムクーヘンだったが、母は「こんなの、1人で食べられるわけないじゃない。あんた、持って帰れば?」と、ほぼ横流し状態で俺に袋を押し付けた。
「そういえば母さん、バウムクーヘン嫌いだったよね」
「え?そんなことないけど?」
「…ごめん、勘違いか。ありがたくいただくよ」
実際、とても甘そうだし、我が家はそろって甘党だから大歓迎ではあった。
「母はバウムクーヘンが嫌い」という話を俺にしたのは、実は生前の父だった。
ただ、父はそれを「女性なのに珍しいな」と、いわゆる“おもしれえ女”的な捉え方をしたらしい。
その後母の好みが変わったのか、まだ若かった母が、少々格好をつけてそんなことを言ってみたかっただけなのか、真相は藪の中。いずれにしても、父に聞いたなどと言っても、「本当にしょーもないことばかり覚えているわね」と呆れられるだろうから、黙っておくまでだ。
◇◇◇
「甘いものっていえば、あんた、これ食べる?」
「どら焼き?」
どうやら俺と一足違いに訪れた弟が、母の「甘いものが欲しい」という希望に応え、コンビニで買ってきたものらしい。
「どら焼きって実は何か好きじゃないのよね。せっかく持ってきてくれたのに、そうも言えなかったけど」
「そうなんだ…」
俺も母がどら焼きが「何か好きじゃない」ことは知らなかった。というか、食べているのを見かけたこともある。だからこれもバウムクーヘン案件かもしれない。要するに、単に気分でそう言っているだけなのだろう。
そういえば母は、お土産やプレゼントについて、よこした本人に文句を言うほど非常識ではなかったが、本人がいないところでは「気が利かない」「センスがない」「嫌いって言ったはずなのに」と言いたい放題で、俺としてはそんなところも苦手だった。
いずれにしても、俺は内臓の手術のために入院した人間に食べ物の差し入れはできない。
食事制限などもあるかもしれないし、ましてや母は少し前から糖尿病と診断され、定期的に診てもらう医師もいたくらいなので、そもそも甘いものを持ってこようという発想もなかった。
しかしこれも、俺がいないところでは、「次男は気が利かないから、見舞い品の一つも持ってこない」などと、俺以外の兄弟や医療スタッフにこぼしているかもしれない。
まあ、どうでもいいが。
◇◇◇
ところで、自慢ではないが、俺はどうやら若く見えるらしい。もともとどちらかというと童顔ということもあるが、物にこだわらないのんきな性格のせいか(多少の自己演出のは当然があるが)、40前後の頃というと、下手をすると20代に見られることすらあった。
看護師の1人に「こんな若くてイケメンの息子さんがいらっしゃったんですね」とからかわれた。
もちろんいわゆる“お上手”というやつだとは分かっていたが、気の利いた返しもできないでいると、母が少しイラついた様子で、俺の代わりに反応した。
「とんでもない。もう40よ。不惑どころが惑いっ放しでフラフラしてるけどね」
俺と妻は、子供が生まれる前にそこそこの家を買った。
もちろん、妻の教師という堅い職業のおかげでローンが通ったことは間違いないが、俺は毎月の支払いは妻より多く負担している。
新居に招待したときは上機嫌だったが、「こんな買い物ができるのも、しっかり者のお嫁さんのおかげね。感謝しなさいよ」と言われたっけな。
惑いっ放しであることは否定できないところがあるが、ふらふらフリー(ライ)ターという結婚前のイメージは、まだ根深く残っているのだろう。
母に褒められたい、認められたいとあまり思わなくなってから、何年も経っている。
母の中での序列は、「1、気の利いたバウムクーヘンを買う長男」「2、コンビニのどら焼きを買ってくる(あまり気の利かない)三男」「3、言われたものを運搬するだけの(全く気の利かない)次男」の順番だろうし、だからどうということもない。
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