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エピローグ 2018
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美野里はリビングの長いソファに横たわっていた。
もう50歳になっていた彼女には、独立した長女、大学に行くために家を出た息子がいるが、今は夫と2人でのんびり暮らしていた。
夫の一博は酒と鉄道旅行と写真が好きで、CSで『飲み鉄ジャーニー』『ドラマ 新幹線赤ちょうちん』といった、鉄道車内で酒を飲むような番組を見ては、「いいなあ、俺もやりたい。でもにおいそうだし…一般人には無理だよな」というのが口癖の、少し気が弱いが優しい好人物である。
休みのたびに車で山に出かけて写真を撮ったり、「乗り鉄兼撮り鉄」の日帰り旅行をする一博に対し、美野里はどちらかというと、手芸や読書などのインドアの趣味を楽しむタイプだったので、休日は2人ばらばらに過ごしていたが、夕飯時に「今日はどうしてた?」などとゆっくり話し合うのが楽しみの一つだ。
美野里はその日、何となく「のんきに」過ごしたかったので、絵柄がかわいくて評判のいいパズルゲームをスマホにダウンロードし、簡単な序盤のうちは順調にクリアしていたが、難易度が上がるにつれ、だんだん眠くなってしまった。
遂にはまぶたがおりたままになり、握力を失った手からスマホがするりと抜け、ソファーの下に敷いたカーペットラグの上に落ちた。
時々あることだが、顔の上に落とさなかったのはラッキーだったかもしれない。
◇◇◇
「美野里、起きろ」
「…ん?」
誰かに頭をぽん、と叩かれたり、揺すられたりした気がするが、気のせいかもしれない。
ただ、美野里はそれで目を覚ました。
「は…い?」
どうやら自分を起こした人物は、健康的な細身にやや濃い目の顔立ち、ハチミツ色の肌をした、この目の前にいる男性のようだ。
「え…芳彦、君…?」
「久しぶりだな。ええと、何年振りだ?」
「30年…33年ぶりだよ」
「こまけえな。もっとも俺は、もう死んでるからな…」
「あ、死んだって本当だったんだ」
これはまず間違いなく夢だ、と美野里は瞬時に判断できた。
夢の中で起こる不条理を受け入れてしまうのは、前頭葉の機能が落ち、判断力がポンコツになっているからだという話を、彼女はどこかで聞いたことがあった。
だから、芳彦との不自然極まりない会話に疑問を持つことはない。
何よりも、目の前の彼は、あの別れた夏と同じ姿をしている。
自分はお気に入りであるベージュのマドラスチェックのシャツワンピースを着て、モカ茶のルーズなソックスを履いているし、寝そべっていたのも自宅のリビングだ。50歳のリアルな生活そのままの姿である。
つまりは20代のイケメン君が、50歳のおばさんにタメ口で話しかけて起こし、自分が死んだことを認めつつ、懐かしそうに挨拶をしているという、実にシュールな図だった。
「俺、お前にずっと詫びたくてさ…」
「…今さら何を?」
意地悪や意固地という感情ではなく、素朴な疑問から美野里はそう言った。
「その――肉欲にとらわれて、お前を傷つけて…」
「随分言葉選んだね?『ヤラせてくれないから捨てて』って、はっきり言っていいのに」
「お前、そんな口利くようになったのか?」
「というか、お前お前って言うけど、今は私の方が年上でしょ」
「仕方ないだろ?俺にとっては美野里は…ずっと年下のかわいい恋人だったから」
◇◇◇
「そういえば芳彦君って、何歳のときに死んだの?」
「38だった、かな」
「若かったね」
「だな。まだ子供たちは小学生だった」
「辛かった?」
「そりゃ。ただでさえ病気だし、カミさんや子供のことを思ったら…」
「芳彦君はオクサマのこと「カミさん」っていってたの?」
「…うん、『カミさん』って感じの女だったから」
(そういえば、奥さんの実家の家業を継いだという話も聞いたっけ)
詳しくは知らないが、観光地みたいだったから、旅館とか飲食店とか、そういうところだったのかもしれない。
親戚の博夫から聞きかじり、美野里の頭の片隅に残っていた些細な情報が、この夢のシナリオに落とし込まれているのだろう。
芳彦はぽつぽつと、別れた後の自分のことを語り出した。
いわゆる明晰夢の中の出来事だから、どちらかというと美野里の希望どおりの答えだったのかもしれない。
もちろん「事実」とは考えにくかったが、美野里は一つ一つ丁寧に相槌をうち、時には笑った。
「とにかく、あのときはごめんな。バイバイ、美野里」
「あ…」
そこで美野里は本当に目を覚ました。
美野里には、自分が何時に寝落ちしたのかは分かっていなかったが、1時間は経っていないはずだというのは分かった。
10分そこそこの仮眠の間に見た夢を、2時間程度の尺の映画のように感じることはしばしばある。これも前頭葉の独特の不調のせいだろうか。
しかしとにかく、美野里は芳彦と納得のいく語らいをできたと感じた。
「芳彦君、バイバイ。これで本当にお別れできたね…」
あえて甘ったるい声でそう独り言を言った美野里の目からは、知らずにぽたっと涙が落ちた。
◇◇◇
その日の夕飯には、一博がどこかの(なぜか割と山間の町の)道の駅で買ってきた「ホタルイカの塩辛」が小鉢に入れて出された。デザートには、美野里の好きなクリーム大福もある。
食後のお茶を飲みながら、一博は渓谷や神社、海岸で撮った写真を、タブレットで次々に見せてくれた。そして、飾り気のない言葉で自分の感想を語った。
「今度は私も一緒に行こうかな」
「いいね。いっそ宿も取ろうか?」
「まずは日帰りで、おいしいものがたべられるところに行きたい」
「うーん、そば、甘味、海鮮…いろいろあって悩むぞ…」
「その日の気分で決めればいいじゃん」
「だね」
2人はもう初老だが、まだまだ精力的に出かけるだけの体力はある。
「カミさん」と子供を残して若くして逝った芳彦には、もうできないことばかりだ。
もっと若い頃だったら、結婚前だったら、こんなシーンで「もし芳彦君なら」と、お相手を脳内で挿げ替えるようなこともしていた美野里だが、今は目の前の一博との会話を、ただただまったりと楽しんだ。
今ならあの1985年夏のことを、「17歳のひと夏の経験」として受け入れられそうだ。
【了】
※あとがきがありますので、もう少しお付き合いを…。
もう50歳になっていた彼女には、独立した長女、大学に行くために家を出た息子がいるが、今は夫と2人でのんびり暮らしていた。
夫の一博は酒と鉄道旅行と写真が好きで、CSで『飲み鉄ジャーニー』『ドラマ 新幹線赤ちょうちん』といった、鉄道車内で酒を飲むような番組を見ては、「いいなあ、俺もやりたい。でもにおいそうだし…一般人には無理だよな」というのが口癖の、少し気が弱いが優しい好人物である。
休みのたびに車で山に出かけて写真を撮ったり、「乗り鉄兼撮り鉄」の日帰り旅行をする一博に対し、美野里はどちらかというと、手芸や読書などのインドアの趣味を楽しむタイプだったので、休日は2人ばらばらに過ごしていたが、夕飯時に「今日はどうしてた?」などとゆっくり話し合うのが楽しみの一つだ。
美野里はその日、何となく「のんきに」過ごしたかったので、絵柄がかわいくて評判のいいパズルゲームをスマホにダウンロードし、簡単な序盤のうちは順調にクリアしていたが、難易度が上がるにつれ、だんだん眠くなってしまった。
遂にはまぶたがおりたままになり、握力を失った手からスマホがするりと抜け、ソファーの下に敷いたカーペットラグの上に落ちた。
時々あることだが、顔の上に落とさなかったのはラッキーだったかもしれない。
◇◇◇
「美野里、起きろ」
「…ん?」
誰かに頭をぽん、と叩かれたり、揺すられたりした気がするが、気のせいかもしれない。
ただ、美野里はそれで目を覚ました。
「は…い?」
どうやら自分を起こした人物は、健康的な細身にやや濃い目の顔立ち、ハチミツ色の肌をした、この目の前にいる男性のようだ。
「え…芳彦、君…?」
「久しぶりだな。ええと、何年振りだ?」
「30年…33年ぶりだよ」
「こまけえな。もっとも俺は、もう死んでるからな…」
「あ、死んだって本当だったんだ」
これはまず間違いなく夢だ、と美野里は瞬時に判断できた。
夢の中で起こる不条理を受け入れてしまうのは、前頭葉の機能が落ち、判断力がポンコツになっているからだという話を、彼女はどこかで聞いたことがあった。
だから、芳彦との不自然極まりない会話に疑問を持つことはない。
何よりも、目の前の彼は、あの別れた夏と同じ姿をしている。
自分はお気に入りであるベージュのマドラスチェックのシャツワンピースを着て、モカ茶のルーズなソックスを履いているし、寝そべっていたのも自宅のリビングだ。50歳のリアルな生活そのままの姿である。
つまりは20代のイケメン君が、50歳のおばさんにタメ口で話しかけて起こし、自分が死んだことを認めつつ、懐かしそうに挨拶をしているという、実にシュールな図だった。
「俺、お前にずっと詫びたくてさ…」
「…今さら何を?」
意地悪や意固地という感情ではなく、素朴な疑問から美野里はそう言った。
「その――肉欲にとらわれて、お前を傷つけて…」
「随分言葉選んだね?『ヤラせてくれないから捨てて』って、はっきり言っていいのに」
「お前、そんな口利くようになったのか?」
「というか、お前お前って言うけど、今は私の方が年上でしょ」
「仕方ないだろ?俺にとっては美野里は…ずっと年下のかわいい恋人だったから」
◇◇◇
「そういえば芳彦君って、何歳のときに死んだの?」
「38だった、かな」
「若かったね」
「だな。まだ子供たちは小学生だった」
「辛かった?」
「そりゃ。ただでさえ病気だし、カミさんや子供のことを思ったら…」
「芳彦君はオクサマのこと「カミさん」っていってたの?」
「…うん、『カミさん』って感じの女だったから」
(そういえば、奥さんの実家の家業を継いだという話も聞いたっけ)
詳しくは知らないが、観光地みたいだったから、旅館とか飲食店とか、そういうところだったのかもしれない。
親戚の博夫から聞きかじり、美野里の頭の片隅に残っていた些細な情報が、この夢のシナリオに落とし込まれているのだろう。
芳彦はぽつぽつと、別れた後の自分のことを語り出した。
いわゆる明晰夢の中の出来事だから、どちらかというと美野里の希望どおりの答えだったのかもしれない。
もちろん「事実」とは考えにくかったが、美野里は一つ一つ丁寧に相槌をうち、時には笑った。
「とにかく、あのときはごめんな。バイバイ、美野里」
「あ…」
そこで美野里は本当に目を覚ました。
美野里には、自分が何時に寝落ちしたのかは分かっていなかったが、1時間は経っていないはずだというのは分かった。
10分そこそこの仮眠の間に見た夢を、2時間程度の尺の映画のように感じることはしばしばある。これも前頭葉の独特の不調のせいだろうか。
しかしとにかく、美野里は芳彦と納得のいく語らいをできたと感じた。
「芳彦君、バイバイ。これで本当にお別れできたね…」
あえて甘ったるい声でそう独り言を言った美野里の目からは、知らずにぽたっと涙が落ちた。
◇◇◇
その日の夕飯には、一博がどこかの(なぜか割と山間の町の)道の駅で買ってきた「ホタルイカの塩辛」が小鉢に入れて出された。デザートには、美野里の好きなクリーム大福もある。
食後のお茶を飲みながら、一博は渓谷や神社、海岸で撮った写真を、タブレットで次々に見せてくれた。そして、飾り気のない言葉で自分の感想を語った。
「今度は私も一緒に行こうかな」
「いいね。いっそ宿も取ろうか?」
「まずは日帰りで、おいしいものがたべられるところに行きたい」
「うーん、そば、甘味、海鮮…いろいろあって悩むぞ…」
「その日の気分で決めればいいじゃん」
「だね」
2人はもう初老だが、まだまだ精力的に出かけるだけの体力はある。
「カミさん」と子供を残して若くして逝った芳彦には、もうできないことばかりだ。
もっと若い頃だったら、結婚前だったら、こんなシーンで「もし芳彦君なら」と、お相手を脳内で挿げ替えるようなこともしていた美野里だが、今は目の前の一博との会話を、ただただまったりと楽しんだ。
今ならあの1985年夏のことを、「17歳のひと夏の経験」として受け入れられそうだ。
【了】
※あとがきがありますので、もう少しお付き合いを…。
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