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第6話 後遺症
しおりを挟む話は前後するが。
久美は例の事件の週から、金曜日の8時になると部屋に引っ込んだ。
風呂に入るか、既に入っていれば部屋に戻って寝るか、漫画でも読んでいるか。
なぜならば、その時間から放送されている刑事ドラマの冠スポンサーが、あのときの社宅の企業だからだ。
大企業のため、その番組以外にも多くの場面で目にするのだが、不意打ちで流れると、自分では意識していないのに、体がびくっとした。
母がそのたびいらついているのが分かるので、できるだけ抑えようとはするのだが、こればかりはどうしようもない。
そこで、絶対に流れると分かっている番組は当分避けようと決めたのだ。
◆◆
バイクが向こうから走ってくるのを見て、思わずびくっと身を縮めることもあった。
背後からの音も敏感になったし、時には自転車でも、たまたま自分の近くでキッとブレーキを掛けられると、身構えることさえあった。
当時、久美の祖父がひいきにしていた電気屋さんの営業で、大和田という人がしばしば家を訪れていた。
家電量販店やネット通販で製品を買う人間が多い昨今、非効率に思えるスタイルだが、個人商店の営業マンが1軒の家に長くとどまり、茶を飲みながら世間話をし、新商品を勧めたり、過去に買った品物の調子を聞いたりするのだ。
大和田はまだ年が若く、ひょうきんで優しくて、久美も大好きな人だったので、時には茶の間で大人たちの話を聞いたり、大和田の「学校楽しい?」といった無害な質問に答えたりすることもあった。
しかし大和田は、悪くしたことに「細面のメガネ」だった。
あんな事件がなければ――というより、あの男の風体がそんな感じでなければ、むしろ誠実そうなすてきなお兄さんだと思い続けることができたかもしれないが、顔を見ると緊張し、茶菓子を取ろうと伸ばした手にびくっと反応し、「久美ちゃん、どうしたの?」と話しかける声に冷や汗が出るようになった。
以来、久美は家の前に大和田の車が止まっていると、挨拶もそこそこに自室にこもったり、玄関先にランドセルだけ置いて遊びに出たりと、何かと避けるようになった。
大和田は気にも止めていなかったかもしれないが、祖父母からは「突然どうしたんだ?」と聞かれ、「たまたまだよ」「深い意味はないよ」とごまかした。
◆◆
母にだけは一応本当の理由を言ったのだが、言った相手が悪かった。
理解は示しつつも、「まあ別にあんたがいなくても、商談はできるからね」ということで、祖父母に特に説明もしない。久美をただの気まぐれで礼儀知らずの子供に仕立てておけば、誰も傷つかないと考えたのだろう――久美以外は。
また説明したところで、祖父母が理解してくれるとは考えにくい。「大和田さんが悪いわけではないのに」と、むしろ彼に同情的な態度を取るだろう。
それが分かっているからこそ、そういう態度を取ってしまうのだという気持ちを酌んでくれるわけはない。
そんなことを考え、いつもあの優しそうなおまわりさんの「この子が悪いんじゃない」という言葉を思い出し、かみしめた。
しかし久美は、「私は本当に悪くないのか?」と一方では思う。
「お菓子を買うために、スーパーに行こうとしたばかりに」あんなトラブルに巻き込まれたのは確かであり、そこに突っ込まれると、何も言えなくなる。
自分勝手な判断が招いた災難で、被害者みたいな顔でビクビクする自分は一体何様なのか――と思うことすらあった。
もともと自己肯定感が高い方ではないのだから、さまざまな失点に目をつぶり、「自分は絶対に間違っていない」などと突っぱねられるほど、久美は強い子供ではなかったのだ。
◆◆
先日のスライド授業から数日後の昼休み、久美は担任の渡瀬を通して保健室の三本木に呼び出された。
その際、「悩みがあるなら、先生にも遠慮なく打ち明けてくれよ」と言い添えられた。
この発言だけでは、三本木が渡瀬に例のアンケートの詳細まで話したかどうかは分からないが、呼び出す理由くらいは言ったろうから、先々うっとうしく詮索される可能性もある。
そもそもが、勢いで書いてしまったものの、ヤスエの妨害で消すことができなかっただけの「悩み」であって、三本木に相談に乗ってもらおうとはさらさら思っていなかったし、はっと冷静になって消しゴムをかけるときに頭に浮かんだのは、母の表情と言いぶりだったのだ。
「いい?このことは絶対、誰にもしゃべっちゃ駄目だよ。私たちが恥をかくんだからね?」
結果的にそれを破ってしまったことになる。
ただでさえ重い保健室までの足取りだったか、ヤスエがまとわりつくようについてきたことで、さらに負荷がかかった。
「久美ちゃん、1人で不安でしょ?ついてったげるよ」
「いいよ、そんなの」
「えー?そんなこと言ってもいいのかなあ~?」
ヤスエに知られた時点で、小学校生活における「死」を意味していたのかもしれない。
いっそばらしてくれ、とすら久美は思ったが、一方で、「母に知られたら、何と言われるか…」という思いもあり、ヤスエを振り払えない。
◆◆
三本木は作ったような笑顔で久美を迎えたが、ヤスエが久美の腕を取って入ってきたのを見て、「五十嵐さんは関係ないでしょう?教室に戻りなさい」と、少し険しい顔になって言い、ヤスエもしぶしぶ従った。
自分で蒔いた種とはいえ、何度も同じ話をしなければならないというのは本当に面倒くさい。
そして、しっかりうなずきながら話を聞いていたはずの三本木もまた、「野良犬にかまれたと思って忘れろ」論者だった。
それができるなら、事件から何日も経っているのに、こんなに悩まされていないだろう。
「犬は怖いし、嫌いです」
小学5年生の語彙力でやっとできた“反論”がこれだったが、
「物のたとえよ。それぐらい大したことないってこと」
こうして久美の頭の中だけで、話がループする。
犬嫌いで怖がっている者が、「大したことない」と思えるわけがないのだから。
「…分かりました」
教室に戻るにあたり、久美が心配したのは、「ヤスエがみんなに秘密をしゃべったのでは?」ということだったが、幸いそこまではしなかったようだ。
三本木に叱責された勢いで、久美の件に絡むのが面倒になってくれていたら…とも思うが、それを確認する気にもなれず、家が学校から逆方向のヤスエと下校をともにすることもない。
後から知った話だが、この件でなぜか久美を逆恨みしたヤスエが、「もう久美ちゃんと口利いちゃ駄目だよ!」と、理由も言わずにクラスに呼びかけ、仲間外れにしようとしたらしい。
結果、もともと仲の良かった子は普通に話しかけてきたし、そうでもなかった子は無視したり、積極的に関わってこようとしなくなっただけで、何一つ状況は変わっていなかった。
だからある意味、ヤスエ問題はここで決着したといえるだろう。
◆◆
乱暴、いたずら…痴漢?
久美は同世代の子供の中では本を読む方だったので、いろいろな言葉を知ってはいたが、自分が男からされた「よくないこと」を何と表現したらいいのかは、よく分かっていなかった。
強姦という言葉もあるらしいが、辞書で調べると、「暴力・脅迫などによって、強制的に婦女を犯すこと。暴行」とある。
もっと掘っていくと、「姦淫 法律で性交を意味し、男性が女性の膣内に陰茎を入れる行為をいう。姦淫罪」という言葉もあった。この「姦淫」というのを強引に行うのが「強姦」ということらしい。
ということは、久美が男にされたことは、どうやら「強姦」には当たらないらしい。
大人たちが、やたら問題を「なかったこと」にしたがるのは、久美が強姦まではされていなかったから、という理由もあるのではないか。
しかし久美は、見知らぬ男に手首をつかまれ、体をまさぐられただけで十分に怖かった。状況によっては強姦に当たる行為に至っていた可能性もあるのだ。
大嫌いな犬を持ち出してまで「忘れろ」と軽々しく言うのは、久美に「忘れること」を強要するだけの行為だ。
(結局、面倒くさいんだろうなあ…私も面倒だけどさ)
久美自身、嫌な記憶を消せたら確かに楽だろう。
またあの警官の言葉を思い出した。
「いろいろ楽しいことやって、いっぱい勉強して、頭から追い出したらいいよ」
警官もまた「忘れろ」と言ったに過ぎないのだが、「忘れろって方が無理だと思うけど」とも言っていた。久美の心情を察し、それを言葉にしてくれたのだ。
同じ言葉を、もっと身近な「大人の家族」から言われていたら。
…お母さんが「怖かったね。もう大丈夫だよ」って抱きしめながら言ってくれたら、本当に忘れる努力ができたかもしれない。
そのたった一言、ワンアクションでよかったのだ。
久美は自分が本当に欲しかったものに気付き、男物の合わせになっているベージュのシャツを着て、下校途中の歩道橋の真ん中で涙を落とした。
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