短編集『市井の人』

あおみなみ

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或る母親の“一生”

虚弱なエマ 気弱なカノン

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 エマの家は、小学校の隣にあった。
 といっても、正門や児童昇降口から見て全くの反対方向にあり、くるっと学校の外周を回らなければいけないので、ごく普通に登校しようと思うと意外と時間がかかる。

 エマの部屋からは、家庭科室の窓と、校庭の一部がいつも見えた。
 まだ1年生のエマにとって、家庭科室はまだあまりなじみのある教室ではなかったものの、入学してすぐの「がっこうたんけん」で連れていってもらったことは覚えていた。
 食べ物の栄養について説明するポスターや、5・6年生がつくった手芸作品が壁に展示されていて、がいっぱいあって楽しい場所だなと思った。

***

 エマには生まれつきの心臓の病気があり、学校を休んで家で寝ていることも多かった。
 だからこそ、登校した日の記憶は一つ一つにスペシャル感があり、家庭科室の風景は、多分ほかの級友よりもよく覚えていたし、親しみも感じていたのだろう。

 低学年のうちは、勉強といってもそう難しくないから、通信教育の教材で事足りるし、両親も勉強を教えてくれた。
 学校でみんなと給食を食べたり遊んだりしたいと思うことはもちろんあったが、エマはそれを切望しているというほどではなかった。
 「こんなものかな」という捉え方だったのだろう。

 放課後は、同じクラスのカノンが家に来てくれた。
 最初は登下校でエマの家の近所を通るので、プリントを届ける役目を言いつけられていただけだったが、エマの母が担任とカノンの母に「カノンちゃんにエマの話し相手になってもらえないか」と頼んだ。

 カノンはエマのことを好きでも嫌いでもない――というか、よく知らなかったが、おとなしく従順な性格全開で「はい、わかりました」と返事をし、ランドセルをしょったままエマの家に来て、暗くなる前に帰るという生活が始まった。
 もともと仲のよかった子たちと遊ぶのは土日だけになってしまったけれど、「学校に行けない、かわいそうなエマちゃん」と大人たちから強調され、嫌とは言えなかったのだ。

***

 エマと実際に接触するようになったカノンが、「エマちゃんってわがままだな」というイメージを固定させることに、あまり時間はかからなかった。

 例えば、算数の宿題のプリントに花の挿絵が入っていたとき、「先生が色塗っていいって言ってたよ」と伝えると、まずそのからやろうとする。
 カノンが、宿題を片してからにゆっくりやろうと提案しても、「いや、エマぬりえがいい!カノンちゃんもぬりえしてからにしなよ」と言って、着色のための文房具を押し付けてきた。
 そしていざ塗り終わってみると、エマは「カノンちゃんのがキレイだから、そっちのプリントちょうだい」といって、強引に紙をひったくろうとした。
 カノンはプリントに既に名前を書いていたので、それを拒否したが、そのせいでプリントが破れてしまった。
 すると、「あーあ、カノンちゃん、いっけないんだ。やっぱエマこっちでいいや」と悪びれもせずに言った。

 こういう細かい事情を説明もできず、カノンは翌日、エマから預かった宿題と、セロテープで補修された自分の宿題を担任に決まり悪そうに渡した。
 「あれ、消しゴム強くかけすぎちゃったかな?」と、担任は優しく笑ったので、「…はい、ゴメンナサイ」と消え入りそうな声で答えるしかなかった。

***

 エマは体調のよい日はできるだけ登校した。
 学校にはカノン以外にも仲のいい女子が何名かいたが、毎日会っているカノンのことを「しんゆうだもんね」と言って殊更くっついてくるのも、カノンにとっては悩みの種だった。

 エマは思ったことを率直に口に出す性格だったので、反感を買ったり、敵をつくったりすることも多い。
 誰かの家で弟や妹が生まれたという話題になり、女子が集まって「赤ちゃんかわいいよね。いいなあ」と話していると、エマはそのうちの1人を名指しして暴言を吐いた。

「エリカちゃんはブスだから赤ちゃんうめないよ。うちのママが言ってたもん。ブスが赤ちゃんつくるのは社会のメーワクだって」

 エマの母がどんな状況でそんな発言をしたのかは分からないが、エマもその母も、容姿はかなり整っている方ではあった。

 虚弱体質の美少女というだけで、同情され、手を貸してもらいやすいかもしれない。
 実際のところエマは、「病気でかわいそうな私は、誰からも否定されるべきではない」というのを、意識してか意識せずか、最大限に利用していたのだろう。
 (意地悪なエマちゃんが嫌いだと言って)友達付き合いを避ける子が、「かわいそうな病気の子に優しくできない悪い子」とみなされる、そんな空気をつくってしまうのだ。

 カノンはもともと押しの強い子ではないし、そもそも礼儀正しく物静かなところがエマの母親に気に入られ、話し相手に指名されたという背景もある。
 エマがベッドに横たわり、「学校の家庭科室の窓」を見ながら複雑な思いを抱えているのだろうと、カノンは子供ながらに勝手に想像していたので、エマに対して邪険な態度を取ったり、切り捨てたりすることはできなかった。

***

 エマは学年が上がるにつれ、どんどん健康になった――わけではなく、相変わらず病院通いも多かったが、3年生ぐらいになると学校には普通に出席し、体育の授業だけ免除してもらうようになった。
 すると、もともとはっきりした性格のエマにとって、カノンは「どんくさくて煮え切らない子」と映ってしまい、結果的にエマの方からカノンを切り捨てた。

 しかしカノンにしてみれば、それは「お友だちにぜっ交された」というネガティブなものではなく、むしろ少し肩の荷がおりた程度のことだった。
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