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第31話 好ましき束縛【妻】
しおりを挟む悪阻は思ったほどではなかった。
体重の増加ぐあいも体調も概ね順調で、何より夫の機嫌がすこぶるいい。
仕事が終わるとまっすぐ帰ってくるし、野球チームにも退部したいと申し出たらしい。
「え、野球やめちゃうの?」
「奥さんが出産して落ち着いたらまた戻ってこいってことで、休部扱いになってる。もともと気楽なクラブ活動だしな」
「そうなんだ。赤ちゃんが大きくなったら、一緒に応援とか行きたいな」
「それは楽しみだ」
練習試合の応援に行って、「知らない男(ということになっている「昔少しだけ関係があった男」)に絡まれて怖かった――という理由で、夫の練習や練習試合を見学に行くことはなくなっていた。
その後、父が亡くなって、母が兄夫婦のもとにいって、今の家に引っ越して…
振り返ると、割と短い間にいろいろあったなあ。
ふらっと傾きかけたものの踏みとどまった映画青年「M」とのこと、そして――おじさんとのこと。
頭の中を夫に読まれることはないけれど、この状況で思い出してはいけない。
私はもうすぐ母親になるのだ。
◇◇◇
ホルモンの関係か、ちょっと情緒が安定しないというか、涙もろくなってしまった。
だからテレビや映画を見ていると、ちょっとしたことですぐ泣いてしまう。
それが恥ずかしくて顔を背けながら涙を拭いていると、夫が顔を覗き込むようにして、「どうしたの?どこか痛い?」とおろおろする。
仕事の日はまだ気が張っているが、休日は“たるん”と身も心もたるむせいか、気を抜くとリビングで転寝してしまっていたが、気付くと寝室にいて、隣で夫も寝息を立てていた。
その安心し切ったような寝顔に気づくと、とても気持ちが満たされた。
この人はきっと、いい父親になるだろう。
◇◇◇
穏やかで安定した妊娠期間でも、夫は「ごめん、優しくするから」と言いながら、私を抱くこともあった。
ニヤニヤしながら「ひょっとして、ちょっとおっぱい大きくなった?」なんて言うときは、「バカッ」と頭を軽く小突いたけれど、それすら幸せそうに受け入れているようだった。
この分ならば、外でよその女性とややこしいことにはなっていなそう。
私は夫とのそんな交わりに、性的な快感や興奮とは別物の幸せを感じていた。
日々腹部がせり出してくるこの状態で、外でよその誰かに抱かれる気にはなれない。
「おじさん」を意識的に避けるようになった。
あの家周辺に近づかないのはもちろんのこと、出かけるときは夫と一緒を心掛けたし、買い物も郊外の大型店に車で行って、まとめ買いするようになった。
◇◇◇
6月、私たちの第1子が生まれた。女の子で、みんな口をそろえて「お母さんそっくりの美人さん」だと言う。夫はそれを満更でもない顔で聞きつつ、「でも、目とかは俺にも似てると思うんだけど…」と軽くこぼすこともあった。
1週間入院して、退院後は義母と母が1週間ずつ交代で、家に手伝いに来てくれた。
夫は義母に、「今は女性の方が立場が強いんだからね。あんたも料理の一つもできないと捨てられるよ?」と脅され、料理を仕込まれていたようだ。
母は私の赤ちゃんの頃の写真を夫に見せて、「ほら、そっくりだと思わない?」と目を細めていた。
たまたま高校に入って最初に仲良くなった男の子に告白され、深く考えずに始めた交際だったけれど、気付けば結婚して、子供まで生まれている。
私の若い頃の「おいた」を知っている人が見たら、よくもこんなに安穏としたところに収まったものだと思って呆れるかもしれない。
妊娠すれば、それだけで行動が制限されるし、出産すれば今度は子育てが待っているから、さらに制限される。
私は夫や子供からのそんな「束縛」を、甘んじて受け入れていた。
◇◇◇
床上げも終わり、産後休暇が終わるまでは、平日の昼間は娘と1人だけだ。
育児雑誌で評判のいい「だっこひも」や籠を使って出かけることもあるけれど、何だかんだで家にいることが多い。
ある日、お祝いの花かごが届いた。
色の傾向も花の大きさも統一がなく、にぎやかだが妙にまとまりのある、不思議な仕上がりだった。
メッセージカードにはこう書かれていた。
「出産おめでとう。かなうならば、母になって一層魅力的になった君を抱きたい」
淡々としたメッセージに背筋が冷たくなった。
そうだ、おじさんのバスルームで、避妊を全く意識せずにセックスしたことがある。
今さらながらではあるが――娘は本当に夫の子供なのだろうか…?
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