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第30話 Tのその後【夫】
しおりを挟む仄明かりの中で気付いた、見覚えのないキスマークや、なじみのない香り。
それらが気にならないといったらうそになる。
しかし、「あの夜」の妻の艶っぽさはいつも以上だった。
ろくに口を利かず、正直邪険にしているという自覚があるときですら、俺は妻を抱かずにはいられなかった。
そして、俺が義兄のもとを訪れて帰ってきたのセックスは、あのやぶれかぶれの性欲処理のような、何かへの当てこすりのようなものとは違い、満たされたものを感じた。
キスマークは俺が覚えていないだけで、夢中になって自分でつけて忘れただけかもしれない。
なんだかんだ、俺は妻と交わると、その都度彼女の魅力に溺れてしまうのだから。
かいだ覚えのない香りも、何かコロンや化粧品を変えたとか、店頭で試したとか、そういうものかもしれない。
――こんな無理やりの思い込みで、俺は彼女への不審と不信を追っ払った。
妻に図書館で声をかけ、喫茶店に行った美青年のことをふと思い出すが、例えば興信所に妻の調査を頼んだとして、喫茶店に2人で入っていく写真を見せられて、「奥様は浮気をしていました。これが証拠写真です」と言われ、俺はそれを信じるだろうか?
そんなものは何の証拠にもならない。そんなに妻をクロに仕立てたければ、ホテルから出てきたとか、ハメどりとか持って来やがれという話だ。
俺はあの「嘘つきで真剣な義兄」に妻を託された。
妻を愛しているし、失いたくない。だから信じることにした。
まずそのためには、するべきことがある。
◇◇◇
それからしばらくして、Tが「花嫁修業のため」仕事をやめて故郷に帰るという話が耳に入った。
どこの昭和だと思うような理由だが、なぜ「結婚」や「寿退社」でなかったのかは、後々ぼちぼち聞こえてきたさらなるうわさで分かった。
たまたま野球の練習上がりに、3年ほど職歴の長いSに、なぜか「たまにはサウナでもどうだ?」と誘われた。しかも俺にしか声をかけなかったようだ。
日曜の午後という中途半端な時間ではあったが、そこそこ人がいた。
大抵は1人か2人連れで、会話をする人間はあまりいない。
たまたま2人だけになったとき、Sが「のぼせる前に話すが――俺はTと浮気していた」と言い出した。
あくまでうわさではあるが、Tは「勤め始めてから身持ちが悪くなった。これ以上“都会”(かなあ…)に置いておくわけにはいかない」と、両親や祖父母の働きかけで半ば強制的に辞めさせられ、「手遅れになる前に見合いをさせる」ということになったらしい。
「Tに「飲みに行きません?相談に乗ってほしくて」とか見え透いたこと言われてさ…まあ“実際”乗ったのは俺の方だがな」
急な退職が自分との不倫と関係があるのかは分からないが、「誰かに話したかったが、誰にも言えなかった。しかしこうなったら…」と、思い切って俺に打ち明けたらしい。
正直耳の痛い話ばかりだ。
(そういえば俺、不意打ちでTの部屋に行ったことはなかったな…)
しかし、ほかの男のにおいも気配もまるっきり消し去るように、「私にはあなただけ」みたいな態度だったのは見事なものだ。相手の選び方も上手だったのだろう。
野球チームでもかいがいしく働くので、正式にマネジャーになるように言われていたが、「私はお手伝いで」というスタンスを貫いたのも、それに関係があったのだろうか。
「どうして俺にそれを?」
「お前は口が堅そうだし、あのよくできた嫁さんに夢中だから、くだらないことに興味を持たないだろうと思って」
「まあ…その…」
いたたまれないな…。
「あの子、よく気が利くし、いい嫁さんになりそうだと思っていました」
「だなあ…ま、床上手でもあったし」
「へえ、そうなんですか」
「ま、いろいろあるよ。嫁にバレる前に切れて、実はほっとしてたりもするし…」
「なるほど…」
本当に奥さんにバレていないのかな?
俺にそうしたように、家に意味ありげな電話をかけ、奥さんが(何らかの理由で)握りつぶしているだけかもしれない。
それともあの「おうちに電話した。奥さんの声が色っぽかった」というのは、ただのはったりだったのか?
もう確かめようもないが。
Sに非常に申し訳ない気持ちになり、サウナ上がりのスポーツドリンクを奢った。
100円強で罪悪感を帳消しにしようとしたことに、また罪悪感を抱く。
本当に、こんな俺みたいな小心者が、よくも浮気などできたものだ。
◇◇◇
去る人間がいれば、訪れる人間もいる――らしい。
Tが正式に退職するまでの間、俺たちは個人的に話すことは一度もなかった。
だから彼女の本音など分からないが、もう俺の心配する筋合いのことではないのは分かる。
少なくとも悪人ではないし、魅力ある若い女性だ。幸せになってほしい。
俺たち夫婦は徐々に前の調子を取り戻しつつあるが、妻が最近、飲酒を控えるようになった。
そしてうれしそうに「あのね――チェッカーで陽性が出たから、病院に行こうと思うの」と教えてくれた。
「妊娠したってことか?」
「そうよ。あとは病院に行って、週数とかを確定してもらうようになるみたい」
「そうか。やったな」
「うん。今度こそ大事にしなくちゃ」
「そう、だな」
結婚後すぐ妊娠が分かったが、あのときは流れてしまった。
実際、なかなか安定しない体質の女性というのはいるそうだが、あれはたまたまだったと思いたい。
俺の気持ちは(無理にそう思い込もうとしている部分も大きいものの)かなり落ち着いていた。
この美しく、輝くように幸せそうな妻を、もっと幸せにしてやりたい。
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