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第26話 悶々【夫】
しおりを挟むTに対する俺の気持ちは、断じて恋愛感情ではないと思う。
正直、そんな分かりやすいものならば、俺はこんなに悩まない。
例えば、まず妻に離婚を申し出る。
まだ若くて結婚期間も短く、子供もいない状態だから、金銭的なダメージは最低限で抑えられるかもしれない。
そしてTと手を取り合って生きていくことを選択する――これはあり得ない。
正直Tのためにそこまでするというのはピンと来ないし、Tがそれを望んでいるのかも分からない。
それでいて、彼女と一緒にいることで得られる快楽とか、時折見せるいじらしさとか、ばっさり切ってしまうことができない。
◇◇◇
妻はいつもかわいらしく、優しく――というか寛大で――どこに出しても恥ずかしくない自慢の女だ。(過去に目をつぶれば)完璧な女性だと思う。
その「過去」が強烈過ぎて、どれだけ良い点があっても台無しになってしまうのだが。
ただ、どれも確たる証拠はない。そんなうわさがあったというだけだ。
例の写真だって、赤の他人かもしれないという可能性はまだゼロではない。
最近の俺は、妻に優しくされれば「後ろめたさの埋め合わせか?」と思い、Tとの関係を続けているのも、「これで妻のしたこととつり合いが取れる」くらいに思い、常に自分の気持ちに言い訳をしているような状態だ。
◇◇◇
「私、この間あなたの家に電話しちゃった」
Tとのセックスの後、ベッドの中で彼女の肩を抱いてくつろいでいたら、唐突に言われた。
「…一体あいつに何を言った?」
「やだな。電話しただけですよ。奥様が出てすぐ無言で切りました」
「そうか…」
一度無言電話があったくらいなら、間違い電話くらいに判断するだろう。
「奥様の声、とっても色っぽくて、“何度も”聞きたくなっちゃいますね」
「え…?」
「『いつもの人?いたずらはやめてくださいね』って、無言電話するような人間に丁寧な口利くのって、ちょっとウケますね」
「…一体、何度電話をした?」
「さーあね。ね、そんなことより…」
Tはそう言いながら掛け布団をベッドからはぎ取り、俺の股間をまさぐった。
◇◇◇
「いただきまーす♪」
Tは軽くペニスを握り、カリ首の方に向かって意識的に手を動かした後、俺の方に視線をよこしながら舌を意識的に突き出してナメたりキスしたりして、その後静かに飲み込んでいく。それがいつもの手順だ
「イントロ」部分は多分、俺が彼女の様子を見ているのを意識してのしぐさだろう。確かに自分のモノをそうしている女性というのは、見ていて興奮する。
考え過ぎかもしれないけど、「奥様だって、ここまではしないでしょ?」とか言いながら、俺に巧みなオーラル技をほどこすところを見ると、自分の価値は「これだけ」くらいに思っているのかもしれない。
何で「俺」なんだろう。
とびきり美人ではないが感じがよく、胸も大きいし、なかなか床上手だ。
頑張って料理をつくってくれるというだけで、グッとくる男もいるだろう。
わざわざ俺のような既婚者を選ばなくても、相手は幾らでもいそうなものなのに。
「なあ…君は…今まで何人ぐらい経験があるんだ…?」
俺は息も絶え絶えに質問した(長持ちさせるため気を散らすという意図もあって、その最中にこんなネタ振りをすることはよくある)
「えー、何ですかそれ」
Tは“俺”から口を離し、少し不満そうな顔をした。
「あ、その…うまい…から…」
「へえ、比較できるほど経験あるんだ?それとも奥様と比べて?」
「いや――悪かった。比べるとかじゃなくて、めちゃくちゃ気持ちいいから」
「ならいいけど。学生のとき彼氏がいた程度で、全然大したことないですよ」
「そう…か…」
◇◇◇
そういえば、妻に「君は何人の男と寝た?」なんて聞いたことはない。
パートナーにそういう質問をするものが「普通」なのかもわからないが。
俺は妻と高校1年の頃から付き合っているから、具体的に人数を言われたら、それが全部高校入学以前のものでなければ、付き合っている間も浮気三昧だったことになるし、中学生で既に経験豊富というのもキツい。
(ちなみにキツいというのは、「ムスコのこらえ性がなくなる」というニュアンスでもある。中学生相手では、どう言いつくろってもロリータだが、それでいて、まるっきりの子供というわけでもなく(略))
1人や2人の経験で、“あの女”が創られたというのもピンと来ない。
少し前、某女性雑誌(**下記注)で「セックスできれいになる」なんて特集が組まれたときは、ちょっとした話題になったが、今やあの雑誌の定番企画だ。
妻は「趣味じゃない」とかで、その雑誌を読んだことがないらしいけれど、そのワンフレーズは、まさに俺の妻のためにあるような言葉に思える。
いろんな男に抱かれて、いろんなセックスをして、そのたびに色気と魅力を増す女。
妻もオーラルくらいはたまにはしてくれるが、正直そこまで上手ではない。
多分彼女は横たわっているだけで、男が「どうにか」しようと奮闘してくれる女なのだろう。
**
マガジンハウス『an・an』恒例企画。初出は1989年4月14日号
◇◇◇
俺にはいわゆる寝取られ願望というのがあるのかもしれない。
妻をスケベったらしい目で見てくる男がいると、腹を立てながらも、その男と妻が絡んでいるところを想像し、とてつもない興奮を覚えたりする。
しかし、想像は想像でしかない。俺は妻を毎晩抱くことができるというのが、たった一つの現実だ。
俺はそんな女を妻にしたことがうれしくて、自慢で、なのに今、彼女に邪険にしている自覚がある。
弁当をつくってもらっても、故意に持っていかなかったり、連絡なしで夜遅く帰ったり、朝飯もろくに食わなかったり。
そのくせ同じベッドに寝れば、感情任せに彼女の柔らかな乳房をもみ、乳首を吸い上げ、恥ずかしがる表情をのぞき込んでまた興奮する。
そしてコトが終わると、何も言わずに背を向けて寝たりする。
もしも別々に住んでいる女が相手なら、そそくさと服を着て立ち去るか、「邪魔だからさっさと帰れ」と言うも同然の態度で。
妻がそんな扱いを受けても何も不満を言わない真意が分からない。
「このままじゃ駄目だ」と思いつつ、考えれば考えるほど、ひどい態度を取ってしまう。
「彼女なら、慰めてくれる男は幾らでも…」などと考えて、その邪推を振り払うようにかぶりを振る。
というか、邪推なのか?
いつだったか図書館で見かけた美青年もいるし、勤め先にだって男は多い。
まだ若いし、ナンパされる可能性だって十分ある。
今はまだ何もなかったとしても、俺がこんな態度を続けていたら…。
◇◇◇
俺はその次の土曜、「用事がある。夜になる前には帰る」とだけ言って出かけた。
行先は本社のある街だから、仕事絡みだと勝手に判断してもらえるだろう。
そしてそこは――妻の兄が住んでいる街でもある。
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