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第3章 身の振り方
お仕事編
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両親は私が22歳のときにそろって事故で亡くなった。
私が瀬瑞に速記士の職を得て2年目の梅雨時だった。
瀬瑞には美しい海と富士山の風景が同時に堪能できるポイントがあり、観光資源がたっぷりなので、そのうち2人で観光に来るよと言っていた矢先だったのに。
ひとりっこだし、近所には父方の祖父母が父の姉夫婦と一緒に暮らしているだけだ。だから両親が死んだ後のことは、伯母に大分頼ってしまった。
みんな私が公務員になったことをとても喜んでくれたけれど、同時に、「ぜったい職場結婚だろうし、ミヨシちゃんは瀬瑞の人になっちゃうんだね」と決めつけられていて、私自身もそんなつもりでいた。
生まれ育った家はもう他人の手に渡り、売ったお金は手つかずで眠っている。
だから私には「帰れる田舎」がないし、帰る理由もない。
伯母たちは優しくて頼りになる人だし、祖父母も私をかわいがってくれる。
でも、結婚を割と意識していた相手と残念な結果になっちゃったから――なんて帰り方、「ほれほれ、心配しろ、同情しろ」と言っているみたいでみっともないし、そもそも今回も仕事を辞める必要もないが、ただ「辞めたい」と思ってしまっただけなのだ。
転職したい、ではなく「市役所(市議会事務局)を辞めたい」と思った。
別に一生遊んで暮らせるほどのお金があるわけではないけれど、まあそれほど焦ることもない程度には余裕があるし、もちろん、働く意思じたいはないわけでもない。
▽▽
博次がマタニティ服の話題を振られたときのデレッとした顔と、私の据わった(多分)視線に気づいたときの慌てように「思い出し怒り」しつつ、私は山科さんの住宅兼速記事務所「ステノやましな」を訪れた。
小さな私鉄に乗って3駅。
「蔵林」といえば、地元では憧れの高級住宅地で、山科さんの家は、駅から歩いて7分ほどで、幹線道路にも割と近いが、少し裏道に入った落ち着いた雰囲気のところだ。
そもそも速記事務所というのは、特定の人がピンポイントで用件を持って訪ねるところなので、大きな看板や目立ちやすいロケーションはあまり必要ないらしい。
一応、訪ねていくのは1階のオフィスになっているところだったけれど、もちろん電話で事前に時間まで連絡したので、到着するや否やカルピスぶどう味が出てきた。
「ミヨシちゃん!元気そうね」
「はあ…元気に見えるならよかったです」
山科さんは私より少し年上で、私と同様、瀬瑞市議会の事務局で速記士として5年ほど勤め、15歳年上のちょっとお金のある人と結婚すると同時に事務所を開いた。
今は瀬瑞市などの会議録の原稿を作ったり、速記の現場に出たりしている。
ほぼ個人事務所だけど、忙しい時期は会議録調製を手伝っている人は何人かいるようだ。
私が博次と付き合っていることを、何となく知っていた人なので、「元気に見えるなら」発言にもすぐ申し訳なさそうに反応した。
「あ、そういう意味じゃ…ごめんなさい…」
「いえ…私こそすみません」
いずれにしても、ある程度事情が分かるだろうからこそ相談しやすかった。
率直に「次の身の振り方が決まっているわけではないが、仕事を辞めたい」という話をした。
▽▽
「なるほど…そういうわけか」
「山科さんはご結婚で辞めたので、また事情が違うかもしれませんけど、何か勉強になる話が聞けるかなと思って」
努めて明るく聞いたつもりだったけれど、山科さんの表情がさらに“申し訳なさそう”になってしまった。
「あ、あの、その、辞める必要なんてないのは分かってるんですけど、辞めたいってだけなので。割と前向きな気持ちでそう思っているので、思いつめているわけでもないですよ!」
言えば言うほど無理しているように聞こえるって、まさに今みたいな状況かもしれない。
「そう、ねえ。私がお役に立てることといえば、お仕事をそっちに回すくらい、かな?」
「えっ」
「議会の繁忙期だけだから、1年中安定してってわけにもいかないんだけど、自治体の審議会とか、民間のシンポジウムとか単発のもあるし、ミヨシちゃんなら速記の現場も入ってもらえるものね」
「いいんですか?」
「出来高制になっちゃうけど、手伝ってもらえると、私としても受注の幅が広がって助かるな。どう?」
「いや、その…いいんですか?」
正直、恐縮した。
そこまで発展的に相談に乗ってもらおうと思ったわけではなかったのだ。
当時、速記者が速記者としての仕事をきちんとできていたのは、国会ぐらいだったかもしれない。
私自身も現場に入るのは形だけで、本会議の反訳(**下記注)はもともと山科さんの事務所に頼んでいたし、委員会のたぐいは録音をもとに作ることが多くなっていた。
それでも芸は身をたすくとでもいうか、手に職がある状態というのはやはり有利だったのだろう。
「じゃ、決まりね。個人事業主になるから、お金の関係がちょっと面倒になるかもしれないけど」
「まあ、それは覚悟の上なので…」
よくよく考えると、お金持ちで優しい年上ダーリンに「うちの一角を事務所にするといいよ」と提案されたのがスタートの人に、実のところ私は何を「相談」したかったのだろう。
人脈の広さとかは確かにちょっと期待していたけれど、聞けば聞くほど願ったりかなったりの展開だった。
繁忙期と閑散期に差があるので、様子を見ながらほかの速記や反訳の仕事を掛け持ちしたり、バイトを探したりしていればいい。
結婚もしていない、子供もいない、「ご飯食べさせて」と部屋に転がり込んでくる男もいない私が外勤めを辞めたら、24時間自分のために使えるのだから、自分だけの都合でどうとでもなる。
「でも実務となると、ただタイピングが速いだけじゃ務まらないから、少し研修も付き合ってね?」
「そんなことまでいいんですか?」
「そんなふうに反応してくれる人だから、私も安心して任せられるのよ」
「え?」
「『研修とか不要です。聞いて打つだけの単純作業でしょ?』みたいな方を、何人かお断りしたことがあるからねえ。謙虚さや素直さって大事なのよ」
山科さんのような人は、礼儀正しく常識的に接すれば、力になってくれる。
金持ちけんかせずと言うけれど、こちらが金持ちに対してけんか腰じゃないってことも重要なのだ。
私はその点、人間ができてるから(これ全然謙虚じゃないな)。
媚びではない、人対人の当たり前のリスペクトが大事ってことさね。
**
反訳とは 本来は速記符号で書き取ったものを文字に書き直すこと。
転じて現在は、音声素材を文字起こしする意味で使われることが多い。
私が瀬瑞に速記士の職を得て2年目の梅雨時だった。
瀬瑞には美しい海と富士山の風景が同時に堪能できるポイントがあり、観光資源がたっぷりなので、そのうち2人で観光に来るよと言っていた矢先だったのに。
ひとりっこだし、近所には父方の祖父母が父の姉夫婦と一緒に暮らしているだけだ。だから両親が死んだ後のことは、伯母に大分頼ってしまった。
みんな私が公務員になったことをとても喜んでくれたけれど、同時に、「ぜったい職場結婚だろうし、ミヨシちゃんは瀬瑞の人になっちゃうんだね」と決めつけられていて、私自身もそんなつもりでいた。
生まれ育った家はもう他人の手に渡り、売ったお金は手つかずで眠っている。
だから私には「帰れる田舎」がないし、帰る理由もない。
伯母たちは優しくて頼りになる人だし、祖父母も私をかわいがってくれる。
でも、結婚を割と意識していた相手と残念な結果になっちゃったから――なんて帰り方、「ほれほれ、心配しろ、同情しろ」と言っているみたいでみっともないし、そもそも今回も仕事を辞める必要もないが、ただ「辞めたい」と思ってしまっただけなのだ。
転職したい、ではなく「市役所(市議会事務局)を辞めたい」と思った。
別に一生遊んで暮らせるほどのお金があるわけではないけれど、まあそれほど焦ることもない程度には余裕があるし、もちろん、働く意思じたいはないわけでもない。
▽▽
博次がマタニティ服の話題を振られたときのデレッとした顔と、私の据わった(多分)視線に気づいたときの慌てように「思い出し怒り」しつつ、私は山科さんの住宅兼速記事務所「ステノやましな」を訪れた。
小さな私鉄に乗って3駅。
「蔵林」といえば、地元では憧れの高級住宅地で、山科さんの家は、駅から歩いて7分ほどで、幹線道路にも割と近いが、少し裏道に入った落ち着いた雰囲気のところだ。
そもそも速記事務所というのは、特定の人がピンポイントで用件を持って訪ねるところなので、大きな看板や目立ちやすいロケーションはあまり必要ないらしい。
一応、訪ねていくのは1階のオフィスになっているところだったけれど、もちろん電話で事前に時間まで連絡したので、到着するや否やカルピスぶどう味が出てきた。
「ミヨシちゃん!元気そうね」
「はあ…元気に見えるならよかったです」
山科さんは私より少し年上で、私と同様、瀬瑞市議会の事務局で速記士として5年ほど勤め、15歳年上のちょっとお金のある人と結婚すると同時に事務所を開いた。
今は瀬瑞市などの会議録の原稿を作ったり、速記の現場に出たりしている。
ほぼ個人事務所だけど、忙しい時期は会議録調製を手伝っている人は何人かいるようだ。
私が博次と付き合っていることを、何となく知っていた人なので、「元気に見えるなら」発言にもすぐ申し訳なさそうに反応した。
「あ、そういう意味じゃ…ごめんなさい…」
「いえ…私こそすみません」
いずれにしても、ある程度事情が分かるだろうからこそ相談しやすかった。
率直に「次の身の振り方が決まっているわけではないが、仕事を辞めたい」という話をした。
▽▽
「なるほど…そういうわけか」
「山科さんはご結婚で辞めたので、また事情が違うかもしれませんけど、何か勉強になる話が聞けるかなと思って」
努めて明るく聞いたつもりだったけれど、山科さんの表情がさらに“申し訳なさそう”になってしまった。
「あ、あの、その、辞める必要なんてないのは分かってるんですけど、辞めたいってだけなので。割と前向きな気持ちでそう思っているので、思いつめているわけでもないですよ!」
言えば言うほど無理しているように聞こえるって、まさに今みたいな状況かもしれない。
「そう、ねえ。私がお役に立てることといえば、お仕事をそっちに回すくらい、かな?」
「えっ」
「議会の繁忙期だけだから、1年中安定してってわけにもいかないんだけど、自治体の審議会とか、民間のシンポジウムとか単発のもあるし、ミヨシちゃんなら速記の現場も入ってもらえるものね」
「いいんですか?」
「出来高制になっちゃうけど、手伝ってもらえると、私としても受注の幅が広がって助かるな。どう?」
「いや、その…いいんですか?」
正直、恐縮した。
そこまで発展的に相談に乗ってもらおうと思ったわけではなかったのだ。
当時、速記者が速記者としての仕事をきちんとできていたのは、国会ぐらいだったかもしれない。
私自身も現場に入るのは形だけで、本会議の反訳(**下記注)はもともと山科さんの事務所に頼んでいたし、委員会のたぐいは録音をもとに作ることが多くなっていた。
それでも芸は身をたすくとでもいうか、手に職がある状態というのはやはり有利だったのだろう。
「じゃ、決まりね。個人事業主になるから、お金の関係がちょっと面倒になるかもしれないけど」
「まあ、それは覚悟の上なので…」
よくよく考えると、お金持ちで優しい年上ダーリンに「うちの一角を事務所にするといいよ」と提案されたのがスタートの人に、実のところ私は何を「相談」したかったのだろう。
人脈の広さとかは確かにちょっと期待していたけれど、聞けば聞くほど願ったりかなったりの展開だった。
繁忙期と閑散期に差があるので、様子を見ながらほかの速記や反訳の仕事を掛け持ちしたり、バイトを探したりしていればいい。
結婚もしていない、子供もいない、「ご飯食べさせて」と部屋に転がり込んでくる男もいない私が外勤めを辞めたら、24時間自分のために使えるのだから、自分だけの都合でどうとでもなる。
「でも実務となると、ただタイピングが速いだけじゃ務まらないから、少し研修も付き合ってね?」
「そんなことまでいいんですか?」
「そんなふうに反応してくれる人だから、私も安心して任せられるのよ」
「え?」
「『研修とか不要です。聞いて打つだけの単純作業でしょ?』みたいな方を、何人かお断りしたことがあるからねえ。謙虚さや素直さって大事なのよ」
山科さんのような人は、礼儀正しく常識的に接すれば、力になってくれる。
金持ちけんかせずと言うけれど、こちらが金持ちに対してけんか腰じゃないってことも重要なのだ。
私はその点、人間ができてるから(これ全然謙虚じゃないな)。
媚びではない、人対人の当たり前のリスペクトが大事ってことさね。
**
反訳とは 本来は速記符号で書き取ったものを文字に書き直すこと。
転じて現在は、音声素材を文字起こしする意味で使われることが多い。
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