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第1章 さようなら
博次という男
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萱間博次は職場の先輩だった。
私はある地方の高校卒業後、東京のちょっと特殊な専門学校で速記を勉強し、縁あってS県瀬瑞市の議会事務局に速記士として就職した。
私が入るまで議会事務局議事調査係で一番の若手だったのが、当時22歳だった博次だった。
地元の進学校から大学に行かずに市の職員になったので、年齢は2年上だけど、職歴は4年上。
私の地元にも、進学校から高卒で就職する人はいる。
家庭の経済状態の問題だったり、大学進学がピンと来なかったり、事情はいろいろだろう。
というより、そもそもの大学進学率がまだ3、4割程度(※1985年統計で男子38.6%、男女平均26.5%)だから少数派だ。
それでもいわゆる進学校からは何らかの形で大学などに行く人が多いせいか、こう言っては何だが、聞いてもいないのに「家が貧乏だったから」とか「学歴なんて意味がないって気付いちゃったから」などと、「行かなかった理由」を説明する人が多かった。
それは本音かもしれないし、仮に言い訳であっても私には直接関係ない。
いつも内心、(どうでもいいよ…)と思いながら聞き流していた。
博次は「僕は実質、4年も先輩だからね。尊敬してくれていいんだよ?」と笑顔で言っただけだった。
この人、何だかいいなあと思ったのは、それがきっかけだった。
私の指導係的な役割を負っていて、初出勤(たまたま土曜日で半ドン(**下記注)だった)の日は、「午後から予定が何もないなら、ちょっと出かけない?」とドライブに誘ってくれた。
東京からの引っ越しの段階でお世話になったり、事前に顔もそこそこ合わせていたので、抵抗なく彼の愛車のナビシートにおさまってしまったが、連れていってくれた「海の見えるカフェ」は、雰囲気や窓の外の眺めは最高なのに、いかんせんコーヒーが薄かった。
**
半ドンとは まだ完全週休二日制が普及浸透する前、土曜日の業務が半日で終わることを意味する言葉。
この頃は公務員がちらほら4週6休になり始めた段階でした。
**
「ここってよく来るんですか?」
「いや、実は151号線(海沿いの県道)を通るとき、いつも見てて、憧れていたんだけど…」
そう言って少し下を向き、恥ずかしそうに後頭部をかいたところを見ると、失敗を感じていたのだろう。
「え――と、いいお店ですね。その…とても素敵な食器を使っていると思います」
「あ、ああ…」
食器には詳しくない。けど、白くて形も無難なものばかりだし、少なくとも「凝っていない」ことだけは分かる。
「音楽も、すてきです」
これまた詳しくはないが、とっても無難なイージーリスニングだ。多分、いわゆる有線放送だろう。
お店の窓に「ゆうせんリクエストできます(**下記注)」と貼ってあるところもたまにあるけれど、そういうのでもない。
いまいち盛り上げられないことを悟ったのか、博次が言った。
「帰ろうか…」
「ですね」
**
ゆうせん放送 1990年代の話。
リクエストチャンネルの番号に「〇〇かけてください」と電話をし、2曲まで希望できたが、
「曲データがない」という理由で断られたりすることも多く、
希望した曲がかかるタイミングもつかみにくかったので、
下手をすると、店にいる間に流れない可能性もあった。
**
◇◇◇
初日こそこんな感じではあったものの、月曜日から本格的な出勤が始まると、頭がよくて頼れる先輩――と少し盛り気味に褒めてもいい程度には、美点7の欠点3くらいの感じでいろいろ見えてきた。
まず、分からないことを人に謙虚に質問する。後輩の私に対してさえもだ。そんな勉強家なところは尊敬できる。
反面、少し思い込みが激しいところがあって、意固地モードに入ると、自分の間違いを頑なに認めないこともあった。
とはいえ、簡単に自説を引っ込める人というのも信用しにくいので、これは本当に状況によりけり。
そう、「信念がある」「芯が強い」みたいな褒め方だってできる。
あと字が非常に乱雑だった。
まだワープロが20人弱の職場に2台程度で、個人的に買って持っている人もぼちぼち出始めた頃だ。ちなみにPCはこれから導入するらしい。
そんな時代だったから、私は速記の学校で、「写植の人が読んで困らないように、最低限誰が見ても読める字を書け」と口酸っぱく言われていたので、博次の悪筆はわりと衝撃的だった。
◇◇◇
ゴールデンウイークが近くなった頃、「故郷に帰るの?」と質問され、質問の趣旨というか真意を少し考えてから「いいえ」と答えたら、連休中の前半に1回、後半に2回日帰りお出かけに誘われて、動物園に行ったり映画を見にいったりした。
そして、最後のお出かけの別れ際に交際を申し込まれた。
「君とはまだ知り合って日が浅いけれど、頑張り屋ですてきな子だと思う。付き合ってほしい」
私も「憎からず」程度の気持ちはあったので、それを受け入れた。
博次とはその後、私の26歳の誕生日を目前に破局するまで付き合った。
その頃には博次はほかの部署に異動してはいたものの、周囲には私たちの交際をうすうす知っていた人もいると思う。
その証拠に、彼の結婚が決まったとき、私に対して皆さんはれ物に触るような態度だった。
それでも悪意なく「小塚さん(私の姓)も萱間に負けずに、お相手探さなきゃ」とか、「美由(私の名前)ちゃんは萱間さんと付き合っているものだと思っていた」とか言ってきた人も少なからずいたので、交際しているとまでは考えていない人もそれなりにいて、どちらが多数派かは判然としない。
私はある地方の高校卒業後、東京のちょっと特殊な専門学校で速記を勉強し、縁あってS県瀬瑞市の議会事務局に速記士として就職した。
私が入るまで議会事務局議事調査係で一番の若手だったのが、当時22歳だった博次だった。
地元の進学校から大学に行かずに市の職員になったので、年齢は2年上だけど、職歴は4年上。
私の地元にも、進学校から高卒で就職する人はいる。
家庭の経済状態の問題だったり、大学進学がピンと来なかったり、事情はいろいろだろう。
というより、そもそもの大学進学率がまだ3、4割程度(※1985年統計で男子38.6%、男女平均26.5%)だから少数派だ。
それでもいわゆる進学校からは何らかの形で大学などに行く人が多いせいか、こう言っては何だが、聞いてもいないのに「家が貧乏だったから」とか「学歴なんて意味がないって気付いちゃったから」などと、「行かなかった理由」を説明する人が多かった。
それは本音かもしれないし、仮に言い訳であっても私には直接関係ない。
いつも内心、(どうでもいいよ…)と思いながら聞き流していた。
博次は「僕は実質、4年も先輩だからね。尊敬してくれていいんだよ?」と笑顔で言っただけだった。
この人、何だかいいなあと思ったのは、それがきっかけだった。
私の指導係的な役割を負っていて、初出勤(たまたま土曜日で半ドン(**下記注)だった)の日は、「午後から予定が何もないなら、ちょっと出かけない?」とドライブに誘ってくれた。
東京からの引っ越しの段階でお世話になったり、事前に顔もそこそこ合わせていたので、抵抗なく彼の愛車のナビシートにおさまってしまったが、連れていってくれた「海の見えるカフェ」は、雰囲気や窓の外の眺めは最高なのに、いかんせんコーヒーが薄かった。
**
半ドンとは まだ完全週休二日制が普及浸透する前、土曜日の業務が半日で終わることを意味する言葉。
この頃は公務員がちらほら4週6休になり始めた段階でした。
**
「ここってよく来るんですか?」
「いや、実は151号線(海沿いの県道)を通るとき、いつも見てて、憧れていたんだけど…」
そう言って少し下を向き、恥ずかしそうに後頭部をかいたところを見ると、失敗を感じていたのだろう。
「え――と、いいお店ですね。その…とても素敵な食器を使っていると思います」
「あ、ああ…」
食器には詳しくない。けど、白くて形も無難なものばかりだし、少なくとも「凝っていない」ことだけは分かる。
「音楽も、すてきです」
これまた詳しくはないが、とっても無難なイージーリスニングだ。多分、いわゆる有線放送だろう。
お店の窓に「ゆうせんリクエストできます(**下記注)」と貼ってあるところもたまにあるけれど、そういうのでもない。
いまいち盛り上げられないことを悟ったのか、博次が言った。
「帰ろうか…」
「ですね」
**
ゆうせん放送 1990年代の話。
リクエストチャンネルの番号に「〇〇かけてください」と電話をし、2曲まで希望できたが、
「曲データがない」という理由で断られたりすることも多く、
希望した曲がかかるタイミングもつかみにくかったので、
下手をすると、店にいる間に流れない可能性もあった。
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◇◇◇
初日こそこんな感じではあったものの、月曜日から本格的な出勤が始まると、頭がよくて頼れる先輩――と少し盛り気味に褒めてもいい程度には、美点7の欠点3くらいの感じでいろいろ見えてきた。
まず、分からないことを人に謙虚に質問する。後輩の私に対してさえもだ。そんな勉強家なところは尊敬できる。
反面、少し思い込みが激しいところがあって、意固地モードに入ると、自分の間違いを頑なに認めないこともあった。
とはいえ、簡単に自説を引っ込める人というのも信用しにくいので、これは本当に状況によりけり。
そう、「信念がある」「芯が強い」みたいな褒め方だってできる。
あと字が非常に乱雑だった。
まだワープロが20人弱の職場に2台程度で、個人的に買って持っている人もぼちぼち出始めた頃だ。ちなみにPCはこれから導入するらしい。
そんな時代だったから、私は速記の学校で、「写植の人が読んで困らないように、最低限誰が見ても読める字を書け」と口酸っぱく言われていたので、博次の悪筆はわりと衝撃的だった。
◇◇◇
ゴールデンウイークが近くなった頃、「故郷に帰るの?」と質問され、質問の趣旨というか真意を少し考えてから「いいえ」と答えたら、連休中の前半に1回、後半に2回日帰りお出かけに誘われて、動物園に行ったり映画を見にいったりした。
そして、最後のお出かけの別れ際に交際を申し込まれた。
「君とはまだ知り合って日が浅いけれど、頑張り屋ですてきな子だと思う。付き合ってほしい」
私も「憎からず」程度の気持ちはあったので、それを受け入れた。
博次とはその後、私の26歳の誕生日を目前に破局するまで付き合った。
その頃には博次はほかの部署に異動してはいたものの、周囲には私たちの交際をうすうす知っていた人もいると思う。
その証拠に、彼の結婚が決まったとき、私に対して皆さんはれ物に触るような態度だった。
それでも悪意なく「小塚さん(私の姓)も萱間に負けずに、お相手探さなきゃ」とか、「美由(私の名前)ちゃんは萱間さんと付き合っているものだと思っていた」とか言ってきた人も少なからずいたので、交際しているとまでは考えていない人もそれなりにいて、どちらが多数派かは判然としない。
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