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ワッフル
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オオムラ菓子店という、地元で評判の商店がある。
創業50年の歴史があるが、補修や改装なども最低限しかなされていないので、どこか昭和の雰囲気のある店である。そんなところも人気ではあった。
昔からつくられているシュークリームやイモようかんが特に大人気だが、はやりのスイーツや、それに寄せた商品もつくることがあり、そういったものも評判がよかった。
由布子はオオムラ菓子店のカスタードクリームが挟まったワッフルが大好きで、よく買いにいっていた。
全国的なブームの頃につくられたものが大評判だったので、定番化したらしい。
いつものように訪れると、ショーケースには最後の一つだった。
「残り一つですが、いつものですか?」
「はい、あと…」
由布子が追加注文しようとすると、店の引き戸がカラカラと開き、「あー、駄目だったか」という男の声がした。
「あら先生。今日はこれでおしまいなんですよ」
「人気あるもんね。仕方ないか」
どうやら男もまたワッフルねらいだったらしい。
由布子は自分が最後の一個を買ってしまったことに、多少の罪悪感を覚えたものの、早いものがちなのだから仕方がない。
ショーケースの前で由布子の隣に来た男を、申し訳ない気持ちでチラッと見ると、視線に気づいたのか偶然か、男も由布子の方に視線をよこした。
「あら…谷先生…」
「あー、これはこれは…どもっ!」
谷先生と呼ばれた男は、30歳になったかならないかという年格好である。
勤務している中学校の近くのアパートで暮らしているが、それがちょうどオオムラ菓子店の裏手あたりにあった。
商店と住宅が混在しているエリアだが、大学も近くにあるため、学生など単身者向きのアパートも建ち並んでいた。
谷は、由布子が自分が受け持っているクラスの女子生徒の母親だと気づき、ぺこっぺこっと軽快に頭を下げた。
その日の朝、ちょうどその生徒の忘れ物の受け渡しをしたばかりだったので印象に残っていることもあるが、何となくきまり悪いというか、面映ゆさを隠すようにペコペコしていたようだ。
「今お帰りですか?」
「えー、まあその…はは。お恥ずかしいところを…」
時刻は6時台。
由布子は晩御飯のしたくを済ませ、あとは帰ってきた家族にサーブするだけだったが、無性にワッフルが食べたくなり、自転車を走らせてきた。
娘が部活を終えて帰ってくるのは7時、夫は8時ぐらいだろうか。
秋の入口、日中はまだ暑いが、その時間になると、涼しい風が心地よい季節である。
自転車で5分のオオムラ菓子店までの道のりを、由布子は家々の庭木や落ちてゆく夕日を見ながら走るのを楽しんでいた。
――というような状況を端的に、少しユーモラスに語るセンスが由布子にはあり、それを聞いた谷は「なんか良いすね、風流っていうんでしょうか、そういうの」と、率直に感想を述べた。
そう言われた由布子は屈託なく笑い、「では、気をつけて」と自転車にまたがって去っていった。
谷は特に意味もなく、その後ろ姿を見送った後、手に持った袋――すあまとスフレチーズケーキが入った――を見つめた。
小柄ながら安定感のある体つきと、「昔はキレイだったろうな」と思われる顔をくしゃっと崩した笑顔。
谷は、由布子が最後のワッフルと草大福、そしてチョコ蒸しパンを一つずつ買って帰ったのを知っている。
あれは家族の好物なのか、それとも全部自分で食べるのか?
いくら教育熱心な教師でも、普通は教え子の家族の甘味の好みにまで思いをはせることはそうそうない。
自分で想像したことを自分で可笑しく思い、誰に言うでもなく、「俺も帰るか…」と言いながら、自分のアパートへと方向を変えた。
*****
それから数日後の日曜日、特に予定のなかった谷は、オオムラ菓子店が開店してすぐ訪れた。
しかし逆に早過ぎたようで、ワッフルはまだ焼き上がっていなかった。
仕方なくほかの菓子を物色していると、後ろから「あら、谷先生?」と声をかけられた。
「あ…こんにちは…いや、おはようございます」
「おはようございます」
由布子は明るい色のゆったりしたワンピースを着て、デニム地の大き目のトートバッグを、長いストラップでたすき掛けにしていた。
何かいろいろと物が入っているらしく、妙な質感があるというか、たすき掛けにするには重そうに見えた。
「ワッフルですか?」
「あー、あと1時間半ぐらい待たないと焼き上がらないらしくて…」
「あらら…」
由布子は少し考えてから、谷に「耳を貸して」というしぐさをした。
谷と由布子は15センチほど身長差があるので、谷は少し戸惑いつつも、脇腹を少し曲げるようなポーズをした。
「(営業妨害になっちゃうかもですけど)」
「え?」
「(外に出ませんか?)」
*****
その日、図書館に本を返した後、借り出すものを選んでから、図書館近くの公園で「ティータイム」を楽しむ予定だった。
だからバッグの中には、財布やスマホなどの私物のほか、前日に家で焼いたワッフルトと冷たいアールグレイの入った水筒、そして分厚い本が2冊入っていたのだ。
「じゃ、お菓子持っていたのにオオムラさんに?」
率直な性格の谷は、半分呆れたような声音を隠せなかった。
「お菓子は幾つあってもいいし、全部一遍に食べるわけじゃないですもん」
「あ、まあ…」
結局谷と由布子は、「また出直します」と顔見知りのスタッフに声をかけ、何も買わずに店を出た。
そして事情を話すために、谷が住むアパート近くの小さな児童公園のベンチに座っていた。
「というわけで、ここでどうですか?ワッフル」
「え?」
「冷たいですけどお茶もあります。お店のと違ってリエージュ風ってやつですけど」
「リエージュ風…」
ちょっとからかうような由布子の笑顔を見た谷は、自分でも意味が分からない言葉を発していた。
「あ、と――うち、すぐそばなんですけど、来ませんか?」
「ええっ?」
「うちならあったかいお茶もありますよ」
創業50年の歴史があるが、補修や改装なども最低限しかなされていないので、どこか昭和の雰囲気のある店である。そんなところも人気ではあった。
昔からつくられているシュークリームやイモようかんが特に大人気だが、はやりのスイーツや、それに寄せた商品もつくることがあり、そういったものも評判がよかった。
由布子はオオムラ菓子店のカスタードクリームが挟まったワッフルが大好きで、よく買いにいっていた。
全国的なブームの頃につくられたものが大評判だったので、定番化したらしい。
いつものように訪れると、ショーケースには最後の一つだった。
「残り一つですが、いつものですか?」
「はい、あと…」
由布子が追加注文しようとすると、店の引き戸がカラカラと開き、「あー、駄目だったか」という男の声がした。
「あら先生。今日はこれでおしまいなんですよ」
「人気あるもんね。仕方ないか」
どうやら男もまたワッフルねらいだったらしい。
由布子は自分が最後の一個を買ってしまったことに、多少の罪悪感を覚えたものの、早いものがちなのだから仕方がない。
ショーケースの前で由布子の隣に来た男を、申し訳ない気持ちでチラッと見ると、視線に気づいたのか偶然か、男も由布子の方に視線をよこした。
「あら…谷先生…」
「あー、これはこれは…どもっ!」
谷先生と呼ばれた男は、30歳になったかならないかという年格好である。
勤務している中学校の近くのアパートで暮らしているが、それがちょうどオオムラ菓子店の裏手あたりにあった。
商店と住宅が混在しているエリアだが、大学も近くにあるため、学生など単身者向きのアパートも建ち並んでいた。
谷は、由布子が自分が受け持っているクラスの女子生徒の母親だと気づき、ぺこっぺこっと軽快に頭を下げた。
その日の朝、ちょうどその生徒の忘れ物の受け渡しをしたばかりだったので印象に残っていることもあるが、何となくきまり悪いというか、面映ゆさを隠すようにペコペコしていたようだ。
「今お帰りですか?」
「えー、まあその…はは。お恥ずかしいところを…」
時刻は6時台。
由布子は晩御飯のしたくを済ませ、あとは帰ってきた家族にサーブするだけだったが、無性にワッフルが食べたくなり、自転車を走らせてきた。
娘が部活を終えて帰ってくるのは7時、夫は8時ぐらいだろうか。
秋の入口、日中はまだ暑いが、その時間になると、涼しい風が心地よい季節である。
自転車で5分のオオムラ菓子店までの道のりを、由布子は家々の庭木や落ちてゆく夕日を見ながら走るのを楽しんでいた。
――というような状況を端的に、少しユーモラスに語るセンスが由布子にはあり、それを聞いた谷は「なんか良いすね、風流っていうんでしょうか、そういうの」と、率直に感想を述べた。
そう言われた由布子は屈託なく笑い、「では、気をつけて」と自転車にまたがって去っていった。
谷は特に意味もなく、その後ろ姿を見送った後、手に持った袋――すあまとスフレチーズケーキが入った――を見つめた。
小柄ながら安定感のある体つきと、「昔はキレイだったろうな」と思われる顔をくしゃっと崩した笑顔。
谷は、由布子が最後のワッフルと草大福、そしてチョコ蒸しパンを一つずつ買って帰ったのを知っている。
あれは家族の好物なのか、それとも全部自分で食べるのか?
いくら教育熱心な教師でも、普通は教え子の家族の甘味の好みにまで思いをはせることはそうそうない。
自分で想像したことを自分で可笑しく思い、誰に言うでもなく、「俺も帰るか…」と言いながら、自分のアパートへと方向を変えた。
*****
それから数日後の日曜日、特に予定のなかった谷は、オオムラ菓子店が開店してすぐ訪れた。
しかし逆に早過ぎたようで、ワッフルはまだ焼き上がっていなかった。
仕方なくほかの菓子を物色していると、後ろから「あら、谷先生?」と声をかけられた。
「あ…こんにちは…いや、おはようございます」
「おはようございます」
由布子は明るい色のゆったりしたワンピースを着て、デニム地の大き目のトートバッグを、長いストラップでたすき掛けにしていた。
何かいろいろと物が入っているらしく、妙な質感があるというか、たすき掛けにするには重そうに見えた。
「ワッフルですか?」
「あー、あと1時間半ぐらい待たないと焼き上がらないらしくて…」
「あらら…」
由布子は少し考えてから、谷に「耳を貸して」というしぐさをした。
谷と由布子は15センチほど身長差があるので、谷は少し戸惑いつつも、脇腹を少し曲げるようなポーズをした。
「(営業妨害になっちゃうかもですけど)」
「え?」
「(外に出ませんか?)」
*****
その日、図書館に本を返した後、借り出すものを選んでから、図書館近くの公園で「ティータイム」を楽しむ予定だった。
だからバッグの中には、財布やスマホなどの私物のほか、前日に家で焼いたワッフルトと冷たいアールグレイの入った水筒、そして分厚い本が2冊入っていたのだ。
「じゃ、お菓子持っていたのにオオムラさんに?」
率直な性格の谷は、半分呆れたような声音を隠せなかった。
「お菓子は幾つあってもいいし、全部一遍に食べるわけじゃないですもん」
「あ、まあ…」
結局谷と由布子は、「また出直します」と顔見知りのスタッフに声をかけ、何も買わずに店を出た。
そして事情を話すために、谷が住むアパート近くの小さな児童公園のベンチに座っていた。
「というわけで、ここでどうですか?ワッフル」
「え?」
「冷たいですけどお茶もあります。お店のと違ってリエージュ風ってやつですけど」
「リエージュ風…」
ちょっとからかうような由布子の笑顔を見た谷は、自分でも意味が分からない言葉を発していた。
「あ、と――うち、すぐそばなんですけど、来ませんか?」
「ええっ?」
「うちならあったかいお茶もありますよ」
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