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第九章『明暗』
4 猫ちゃん、『明暗』からメッセージを語り終える
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龍之介くんに話したダイジェストの中で紹介した通り、津田には藤井夫婦という親戚が居る。ダイジェストでは省略したが、その藤井夫婦には真事という小学生男子が生まれている。これまた省略したが、岡本夫婦にも一という小学生男子の子が居て、真事と一は同い年だ。
不吉な場面は真事を中心として書かれる。先に、この真事くんに付いては、津田がオモチャの空気銃を買ってあげている。「キッドの靴」という子山羊の皮で出来た靴を欲しがっていて、これは外国文化をありがたがる日本人の姿だろうか。空気銃で喜ぶ彼は、軍国主義にも疑問を持たないのだろう。
ある日、真事と一が学校から帰る道で、穴を見つける。土木工事の深い穴で、穴の上には滑りやすそうな杉丸太が一本、掛けられている。
一が真事に、「丸太の上を渡ったら百円やる」と、面白半分に提案する。当時の百円は今より価値があっただろう。一は金持ちである岡本の息子で、真事の親は貧乏な藤井夫婦である。
真事は丸太の上を、ゆっくり歩いていく。見ている内に怖くなって一は逃げ出す。足元だけに集中していた真事は、一が去った事にも気づかない。
無事に丸太を渡り終えた真事は、百円を貰おうと顔を上げる。しかし、そこには誰も居ない。
危なっかしい姿である。今はまだ、日本は穴に落ちていない。しかし今後は、どうであろうか。それが漱石先生の、暗に示した所である。
何故、軍国主義が支持されていたかと言えば、それが金になるからであろう。岡本は延子が家に来た時、結婚生活が上手く行かなくて泣く延子に小切手を渡す。岡本は延子が泣く理由が分からず、自分に原因があると思って「お前を泣かした賠償金だ」と、おどけてみせる。
戦争で外国から賠償金をせしめれば結構な事ではないか、というのが軍国主義の支持者であっただろう。この考えを漱石先生は批判する。彼らには『草枕』で言われていた憐れの情が無い。人の命を何とも思わない姿を漱石先生は嫌悪する。
『明暗』の終盤で、漱石先生は津田の妹である秀子と、小林の言葉を通して読者にメッセージを送る。直接的な事は書けない。書けば言論弾圧の対象となる。通じなければ、それはそれで仕方ないと先生は思っていた事だろう。
まず秀子である。彼女は入院中の津田を見舞い、そこで延子とも会う。秀子は津田夫婦に金を渡す。基本的に金の事しか考えない津田夫婦は、軍国主義の消極的な支持者である。その夫婦に秀子は説教をする。
「あなた方お二人は御自分達の事よりほかに何にも考えていらっしゃらない方だという事だけなんです。自分達さえよければ、いくら他が困ろうが迷惑しようが、まるでよそを向いて取り合わずにいられる方だということだけなんです」と言う。これは夫婦が、親や妹を大事にしないという文脈だが、漱石先生はもっと広い範囲の事を言っている。
これは「自分達さえ良ければ、自国の兵隊も他国の人間もどうでも良い」という人間への説教である。怒って帰る秀子の事を、延子は「キリスト教じゃないでしょうね」と笑う。処刑されたイエス・キリストは、憐れの情を持った人であっただろう。この夫婦に説教は届いていない。
そして小林である。小林は朝鮮に渡るので、最後の登場シーンとなる。小林を通して漱石先生は、未完となった最後の作品で、最後のメッセージを読者へ送る。フランス料理店で、津田と小林は長い長い会話をする。小林は津田をこう評価する。
「度胸が坐ってないよ。厭なものをどこまでも避けたがって、自分の好きなものをむやみに追かけたがってるよ。そりゃなぜだ。なぜでもない、なまじいに自由が利くためさ。贅沢をいう余地があるからさ。僕のように窮地に突き落されて、どうにでも勝手にしやがれという気分になれないからさ」
津田はそれなりに裕福な、いわばマジョリティー、つまり多数派に当たる。対して小林はマイノリティー、つまり貧乏な少数派だ。津田にはマイノリティーへの共感や、憐れの情が欠けているのである。
「君に一朝事があったとすると、君は僕のこの助言をきっと思い出さなければならなくなるというだけの事さ」と小林は言う。多数派に属する津田も、いつ少数派に追いやられるか分からないという事だろう。軍国主義を支持していた者が、ある日、突然に国から人権を取り上げられるかも知れない。いつの時代にも、それは起こりえるのである。
小林は津田から十円札を三枚、せしめる。小林は、自分より貧乏な男を店に呼んでいて、その男に十円札を一枚与える。津田が小林に渡した金が、別のマイノリティーを救った訳で、そういう行為が必要なのだと漱石先生は伝えたいのかも知れない。
「マイノリティーに愛を与えよ、憐れの情を持て」というのが最後のメッセージかと思う。これ以上を書いても、伝わらないものは伝わらないだろう。以降のストーリーは津田と清子が会う場面までの話となる。きっと漱石先生は、死力を尽くしてメッセージを伝え終えたのだ。そう吾輩は考えている。
ところで前回、寝ぼけていた時に『点頭録』の話をした。これにも触れておこう。
不吉な場面は真事を中心として書かれる。先に、この真事くんに付いては、津田がオモチャの空気銃を買ってあげている。「キッドの靴」という子山羊の皮で出来た靴を欲しがっていて、これは外国文化をありがたがる日本人の姿だろうか。空気銃で喜ぶ彼は、軍国主義にも疑問を持たないのだろう。
ある日、真事と一が学校から帰る道で、穴を見つける。土木工事の深い穴で、穴の上には滑りやすそうな杉丸太が一本、掛けられている。
一が真事に、「丸太の上を渡ったら百円やる」と、面白半分に提案する。当時の百円は今より価値があっただろう。一は金持ちである岡本の息子で、真事の親は貧乏な藤井夫婦である。
真事は丸太の上を、ゆっくり歩いていく。見ている内に怖くなって一は逃げ出す。足元だけに集中していた真事は、一が去った事にも気づかない。
無事に丸太を渡り終えた真事は、百円を貰おうと顔を上げる。しかし、そこには誰も居ない。
危なっかしい姿である。今はまだ、日本は穴に落ちていない。しかし今後は、どうであろうか。それが漱石先生の、暗に示した所である。
何故、軍国主義が支持されていたかと言えば、それが金になるからであろう。岡本は延子が家に来た時、結婚生活が上手く行かなくて泣く延子に小切手を渡す。岡本は延子が泣く理由が分からず、自分に原因があると思って「お前を泣かした賠償金だ」と、おどけてみせる。
戦争で外国から賠償金をせしめれば結構な事ではないか、というのが軍国主義の支持者であっただろう。この考えを漱石先生は批判する。彼らには『草枕』で言われていた憐れの情が無い。人の命を何とも思わない姿を漱石先生は嫌悪する。
『明暗』の終盤で、漱石先生は津田の妹である秀子と、小林の言葉を通して読者にメッセージを送る。直接的な事は書けない。書けば言論弾圧の対象となる。通じなければ、それはそれで仕方ないと先生は思っていた事だろう。
まず秀子である。彼女は入院中の津田を見舞い、そこで延子とも会う。秀子は津田夫婦に金を渡す。基本的に金の事しか考えない津田夫婦は、軍国主義の消極的な支持者である。その夫婦に秀子は説教をする。
「あなた方お二人は御自分達の事よりほかに何にも考えていらっしゃらない方だという事だけなんです。自分達さえよければ、いくら他が困ろうが迷惑しようが、まるでよそを向いて取り合わずにいられる方だということだけなんです」と言う。これは夫婦が、親や妹を大事にしないという文脈だが、漱石先生はもっと広い範囲の事を言っている。
これは「自分達さえ良ければ、自国の兵隊も他国の人間もどうでも良い」という人間への説教である。怒って帰る秀子の事を、延子は「キリスト教じゃないでしょうね」と笑う。処刑されたイエス・キリストは、憐れの情を持った人であっただろう。この夫婦に説教は届いていない。
そして小林である。小林は朝鮮に渡るので、最後の登場シーンとなる。小林を通して漱石先生は、未完となった最後の作品で、最後のメッセージを読者へ送る。フランス料理店で、津田と小林は長い長い会話をする。小林は津田をこう評価する。
「度胸が坐ってないよ。厭なものをどこまでも避けたがって、自分の好きなものをむやみに追かけたがってるよ。そりゃなぜだ。なぜでもない、なまじいに自由が利くためさ。贅沢をいう余地があるからさ。僕のように窮地に突き落されて、どうにでも勝手にしやがれという気分になれないからさ」
津田はそれなりに裕福な、いわばマジョリティー、つまり多数派に当たる。対して小林はマイノリティー、つまり貧乏な少数派だ。津田にはマイノリティーへの共感や、憐れの情が欠けているのである。
「君に一朝事があったとすると、君は僕のこの助言をきっと思い出さなければならなくなるというだけの事さ」と小林は言う。多数派に属する津田も、いつ少数派に追いやられるか分からないという事だろう。軍国主義を支持していた者が、ある日、突然に国から人権を取り上げられるかも知れない。いつの時代にも、それは起こりえるのである。
小林は津田から十円札を三枚、せしめる。小林は、自分より貧乏な男を店に呼んでいて、その男に十円札を一枚与える。津田が小林に渡した金が、別のマイノリティーを救った訳で、そういう行為が必要なのだと漱石先生は伝えたいのかも知れない。
「マイノリティーに愛を与えよ、憐れの情を持て」というのが最後のメッセージかと思う。これ以上を書いても、伝わらないものは伝わらないだろう。以降のストーリーは津田と清子が会う場面までの話となる。きっと漱石先生は、死力を尽くしてメッセージを伝え終えたのだ。そう吾輩は考えている。
ところで前回、寝ぼけていた時に『点頭録』の話をした。これにも触れておこう。
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