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第九章『明暗』
1 猫ちゃん、寝ぼけながら未来から悪の気配を感じる
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吾輩は今、寝ぼけている。寝ぼけながらの言葉なので話半分に聴いてほしい。
制限主権論、という言葉がある。吾輩、頭が大して良くないので難しい事は分からないが、社会主義国の話であるようだ。社会主義共同体全体の利益が危うい時は、共同体の中の一国を叩き潰すのも辞さない、という事らしい。
早い話、社会主義国で民主化運動が行われた際には、断固として阻止するという事で始まった理屈である。前世紀にソビエト連邦が掲げたもので、この理屈と共にソ連は軍事介入や侵攻を行っていた。
その後ゴルバチョフという人が、この制限主権論を引っ込めて、それもあってかノーベル平和賞を受賞する。世の中が平和になったのなら、それは良い事であると吾輩は思う。
ところでロシアにはドストエフスキーという作家が居た。十九世紀の作家で、漱石先生より先輩である。この人は若い頃に、革命を夢見て逮捕され、釈放後に大作を執筆する。小説の中では、さりげなく革命の思想が表されていたと吾輩は見ている。
さて、『明暗』である。この漱石先生の遺作となった小説には、小林という男が出てくる。小林はドストエフスキーの小説を愛読していて、革命を夢見ていると言っていい。
『明暗』の主人公は津田という男だが、津田は冒頭で痔の治療をしている。以前に手術をしたが、再発して、また手術が必要となっている。そして、医者の名前は小林医師だ。
ドストエフスキー好きの小林と同姓である。両者は親戚でも何でも無いのだが、これは漱石先生が、意図的に設定したものであるらしい。十川信介という大学教授の先生が、岩波新書の『夏目漱石』で、そう書いている。
つまり、こういう事である。主人公を通して、漱石先生は、日本の現状を表していた。主人公には大手術が必要なのだと、そう書きたかったのではないか。痔の手術は勿論、小林に寄ってドストエフスキーの革命思想を主人公に与える必要があると。
「心身ともに大改造が必要なのが、今の日本である」と、漱石先生は書きたかったのだと吾輩は思っている。これは政府への批判であり、大変に危険なメッセージであった。下手をするとドストエフスキーと同じように逮捕されかねない。だから分かりにくく書く必要がある。
かくして『明暗』は、新聞連載時に一八八回まで書かれて、漱石先生の死で未完に終わった。「長すぎる」というのが正直な感想であろう。事件らしい事件が中々、起こらないのである。
いちいち全てが回りくどい。そういう回りくどい書き方でメッセージを伝えようとしたのだから当然かも知れない。漱石先生が明暗を執筆していたのは大正五年で、この年に彼は病没する。その二年前からは第一次世界大戦が始まっていて、日本はドイツに宣戦布告していた。
「これは危うい」と漱石先生は感じていたのではないか。『三四郎』では日露戦争後の日本に付いて、「滅びるね」と予言する男が出てくる。これは漱石先生の予感でもあっただろう。
日本だけの話では無い。世界を巻き込む大戦が、『明暗』の執筆時には続いていたのだ。何か、手を打たなければ世界全体が悪い方向へと向かっていく。必要なのは何か? 革命である。
漱石先生がドストエフスキー好きの小林を『明暗』の中に出してきたのは、そういう危機意識からであったと吾輩は思う。そのドストエフスキーを輩出したロシアでは、漱石先生が亡くなった翌年に革命が行われた。
『吾輩は猫である』は日露戦争の最中に書かれていて、作中でも戦争の話題が出ていた。そして遺作となった『明暗』ではドストエフスキーが話題として出てくる。漱石先生とロシアには何かしら因縁があるかのようにさえ思える。
少し漱石先生の話からは離れる。ドストエフスキーが書いた『罪と罰』には、身勝手な理屈で殺人を犯す主人公が出てくる。主人公はナポレオンに憧れていて、ナポレオンになりたかったそうだ。革命を起こしたかったのかも知れないが、失敗した革命家とは逮捕されるものだ。
先にも書いた通り、漱石先生の死後、ロシアでは民衆が革命を成功させた。内戦の後、一九二二年にソ連が誕生する。領土はソ連時代が最大で、ソ連が崩壊してロシアとなってからは二〇パーセントほど縮小した。それでも、まだ領土は世界最大なのだが。
ロシアの国民には今でも、超大国であった時代を懐かしむ者が居ると聞く。どれほどの人口比率であるかは吾輩、学者では無いから知らない。漱石先生が生きていたら、そんな状況を危ういと思ったであろう。かつて革命に成功したロシアをたしなめていたかもだ。
『点頭録』という、漱石先生による最晩年のエッセイがある。これには良い話があって、ロシアへのメッセージにもなりそうなのだが、吾輩も些か話が長くなりすぎた。これは後で述べよう。
そろそろ吾輩は起きて、『明暗』に付いて意見を述べる。未完の作品なのだから、その後の展開を予想するのも限界がある。むしろ、漱石先生が最も訴えたかった事は何かを考えるべきであろうと吾輩、思う。それに比べれば作中のドラマ展開は二の次では無かろうか。
吾輩、寝ぼけていて百年後の自分を見つける。何故か高級ホテルで龍之介くんと『行人』に付いて話している。意味が分からない。今、つらつらと歴史に付いて述べているのは、未来の吾輩と今の吾輩の意識が混線しているのだろうか。
未来の方から吾輩は、悪が到来する気配を感じる。身勝手な理屈で人を傷つける者が来る。
制限主権論、という言葉がある。吾輩、頭が大して良くないので難しい事は分からないが、社会主義国の話であるようだ。社会主義共同体全体の利益が危うい時は、共同体の中の一国を叩き潰すのも辞さない、という事らしい。
早い話、社会主義国で民主化運動が行われた際には、断固として阻止するという事で始まった理屈である。前世紀にソビエト連邦が掲げたもので、この理屈と共にソ連は軍事介入や侵攻を行っていた。
その後ゴルバチョフという人が、この制限主権論を引っ込めて、それもあってかノーベル平和賞を受賞する。世の中が平和になったのなら、それは良い事であると吾輩は思う。
ところでロシアにはドストエフスキーという作家が居た。十九世紀の作家で、漱石先生より先輩である。この人は若い頃に、革命を夢見て逮捕され、釈放後に大作を執筆する。小説の中では、さりげなく革命の思想が表されていたと吾輩は見ている。
さて、『明暗』である。この漱石先生の遺作となった小説には、小林という男が出てくる。小林はドストエフスキーの小説を愛読していて、革命を夢見ていると言っていい。
『明暗』の主人公は津田という男だが、津田は冒頭で痔の治療をしている。以前に手術をしたが、再発して、また手術が必要となっている。そして、医者の名前は小林医師だ。
ドストエフスキー好きの小林と同姓である。両者は親戚でも何でも無いのだが、これは漱石先生が、意図的に設定したものであるらしい。十川信介という大学教授の先生が、岩波新書の『夏目漱石』で、そう書いている。
つまり、こういう事である。主人公を通して、漱石先生は、日本の現状を表していた。主人公には大手術が必要なのだと、そう書きたかったのではないか。痔の手術は勿論、小林に寄ってドストエフスキーの革命思想を主人公に与える必要があると。
「心身ともに大改造が必要なのが、今の日本である」と、漱石先生は書きたかったのだと吾輩は思っている。これは政府への批判であり、大変に危険なメッセージであった。下手をするとドストエフスキーと同じように逮捕されかねない。だから分かりにくく書く必要がある。
かくして『明暗』は、新聞連載時に一八八回まで書かれて、漱石先生の死で未完に終わった。「長すぎる」というのが正直な感想であろう。事件らしい事件が中々、起こらないのである。
いちいち全てが回りくどい。そういう回りくどい書き方でメッセージを伝えようとしたのだから当然かも知れない。漱石先生が明暗を執筆していたのは大正五年で、この年に彼は病没する。その二年前からは第一次世界大戦が始まっていて、日本はドイツに宣戦布告していた。
「これは危うい」と漱石先生は感じていたのではないか。『三四郎』では日露戦争後の日本に付いて、「滅びるね」と予言する男が出てくる。これは漱石先生の予感でもあっただろう。
日本だけの話では無い。世界を巻き込む大戦が、『明暗』の執筆時には続いていたのだ。何か、手を打たなければ世界全体が悪い方向へと向かっていく。必要なのは何か? 革命である。
漱石先生がドストエフスキー好きの小林を『明暗』の中に出してきたのは、そういう危機意識からであったと吾輩は思う。そのドストエフスキーを輩出したロシアでは、漱石先生が亡くなった翌年に革命が行われた。
『吾輩は猫である』は日露戦争の最中に書かれていて、作中でも戦争の話題が出ていた。そして遺作となった『明暗』ではドストエフスキーが話題として出てくる。漱石先生とロシアには何かしら因縁があるかのようにさえ思える。
少し漱石先生の話からは離れる。ドストエフスキーが書いた『罪と罰』には、身勝手な理屈で殺人を犯す主人公が出てくる。主人公はナポレオンに憧れていて、ナポレオンになりたかったそうだ。革命を起こしたかったのかも知れないが、失敗した革命家とは逮捕されるものだ。
先にも書いた通り、漱石先生の死後、ロシアでは民衆が革命を成功させた。内戦の後、一九二二年にソ連が誕生する。領土はソ連時代が最大で、ソ連が崩壊してロシアとなってからは二〇パーセントほど縮小した。それでも、まだ領土は世界最大なのだが。
ロシアの国民には今でも、超大国であった時代を懐かしむ者が居ると聞く。どれほどの人口比率であるかは吾輩、学者では無いから知らない。漱石先生が生きていたら、そんな状況を危ういと思ったであろう。かつて革命に成功したロシアをたしなめていたかもだ。
『点頭録』という、漱石先生による最晩年のエッセイがある。これには良い話があって、ロシアへのメッセージにもなりそうなのだが、吾輩も些か話が長くなりすぎた。これは後で述べよう。
そろそろ吾輩は起きて、『明暗』に付いて意見を述べる。未完の作品なのだから、その後の展開を予想するのも限界がある。むしろ、漱石先生が最も訴えたかった事は何かを考えるべきであろうと吾輩、思う。それに比べれば作中のドラマ展開は二の次では無かろうか。
吾輩、寝ぼけていて百年後の自分を見つける。何故か高級ホテルで龍之介くんと『行人』に付いて話している。意味が分からない。今、つらつらと歴史に付いて述べているのは、未来の吾輩と今の吾輩の意識が混線しているのだろうか。
未来の方から吾輩は、悪が到来する気配を感じる。身勝手な理屈で人を傷つける者が来る。
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