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第八章『行人』
4 龍之介くん、ラーメンを語る
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「結論から言うと、二郎と直の間には、何にも起こらない。それだと面白くないから、吾輩、実際には少しは何かあったんじゃないかと思いたいね」
「なるほど。二郎は、いわゆる『信用できない語り手』であったと。そういう事ですね」
「そうそう。先にも言った通り、吾輩が話しているのはダイジェストであって、正確な読解では無いのさ。大雑把に主観を交えて、吾輩なりに『行人』を語っていきたい」
例えば一郎が妻の直を、具体的にどの程度の頻度で殴っていたかは定かでは無い。旅行中に、一郎と直が離れて歩いていたという描写があるから、以前から一郎は妻を殴っていたと吾輩は思うだけだ。第一部の『友達』に出てきた、狂人となった女性の話も、モデルとされた人物がどの程度に似ていたかは吾輩、知らない。
「真面目な文学論や研究は、他の人に任せて、不真面目も交えて龍之介くんと語り合いたいね。で、二郎と直が、やっちゃったかどうかは大した問題じゃないと吾輩は思う。二郎も直も、一郎の結婚を壊すつもりは無いんだ。仮に二郎と直の間に男女関係があったとしても、それはそう仕向けた一郎が悪い」
むしろ注目すべきは、宿に閉じ込められた状況で、直が外の大雨に対してコメントをする場面であろう。二郎の兄と母親が居る和歌の浦に付いて、そこが津波に攫われたらという仮定の話を直はして、「そんな物凄い所が見たい」と彼女は言うのだ。
「これは革命を期待してるって事だよね。漱石先生は、そういうつもりで書いてるんだろう」
「夫の暴力も、窮屈な家制度も無くなってしまえばいい。そういう事ですかねぇ」
「一郎と直の間には、女の子が一人居るだけだ。つまり、家の跡継ぎになるべき男子が居ない。だから直は、二郎の母親とかからプレッシャーを掛けられてる。皇族の、そんなケースが今もニュースになったりするよね」
「『とかくに人の世は住みにくい』ですか」
『草枕』の文章を持ち出して龍之介くんが笑う。あの話の主人公は最後、第二のフランス革命が起きるかも知れないという予感を持っていた。そして漱石先生の死後まもなく、ロシアで革命が起きた。予感は半ば、当たったのかも知れない。
「『行人』は大正元年という、元号が移り変わる時期から連載が始まった作品だ。時代の移り変わりというものを漱石先生は意識していたんじゃないかな。二郎の前で、直は色々な表情を見せるけど、第四部の『塵労』で『囚われない自由な女であった』と書かれる。それが二郎の、好意的な直への評価だ」
ダイジェストを進めると、二郎と直は、雨が止んでから和歌の浦に戻る。一郎が二郎に対して、「直の性質が解ったか」と、疑い深く聞いてくる。二郎は一郎への嫌悪感が強くなってきて、まともに話をしたくない。「東京へ帰るまで待ってください」とあしらって、更に「姉さんの人格に就て、御疑いになる所はまるでありません」と言う。
「つまり二郎は一郎に、『おかしいのは、お前の頭だ』と言っている。一郎も顔色が変わる。対立が決定的になってきたね」
「二郎と一郎の戦いですか。ラーメン屋の争いみたいな響きですね」
龍之介くん、吾輩にラーメン屋が店の名前に付いて争ってた、という話をしてくれた。吾輩、ラーメンは食べないから良く分からなかった。
「とにかく、そんなこんなで一同は東京の家に帰る。次は第三部である『帰ってから』の話だ」
「二郎は直に付いて、何となく意識が向くようになる。一晩、男女が寝起きを共にすれば、それはそうなるだろうね。直も同様なんだろうけど、一郎と別れたい訳では無いから、普段と変わらないように振舞っている」
第四部の『塵労』では、直が墓参りをしたという話が出てくる。おそらく直の実家は、もう無いのではないか。出戻りも出来ない直は、一郎と離婚する訳には行かないのだ。
「二郎は独身で、そして二郎の妹である重も独身だ。重は自分が結婚できないのが悔しくて、直に食って掛かったりする。その割に泣き虫で、何かというと一人で勝手に泣いている」
この泣き虫の妹も、漱石先生の子供時代の分身キャラだろうかと吾輩、思う。
第三部である『帰ってから』は、二郎の父親の長話など出てくるのだが、その辺りは省略する。この『帰ってから』では二郎が両親や兄夫婦、妹に囲まれて、細かい喧嘩はありながらも平穏に暮らす様子が書かれる。一家が幸せであった最後の時期で、そこから一郎の精神状態がおかしくなって物語は終わるのだ。
「二郎は一郎に、直の事に付いて『東京で話す』と言って面倒を避けていたね。で、一郎が、しつこく二郎に尋ねてくる。二郎は『元々貴方の頭にある幻なんで、客観的には何処にも存在していない』と言い放つ。これはもう、その通りなんだよ」
二郎の言葉を信じない一郎は、怒鳴りつけてくる。今の一郎は、おそらく誰の言葉も信じない。不信の原因は最後まで説明されない。分かるのは、こうなっては人間、どうしようも無いという事だけだ。
「一郎との仲が修復不能になったんで、二郎は家を出て下宿すると決める。それを知った直は、二郎に『早く奥さんをお貰いなさい』と言う。そうすれば、確かに一郎が二郎を敵視する事も無くなるかもね。二郎は直の事を想ってるのか、上手く返答できない」
出立の時が来て、母親と重は浮かない顔である。直が「又ちょくちょく遊びに入らっしゃい」と言ってくれる。こうして二郎は下宿を始めて、第三部『帰ってから』の最後に、お手伝いの貞さんの挙式で再び、家族と合流する。
「これで第三部までのダイジェストを終了と。後は『塵労』と、吾輩の解釈などを述べるよ」
「ちょっとシャワーを浴びてきますよ、吾輩さん」
「いいとも。そろそろ我々の会話も締めくくりだ、ベッドで子守歌を唄ってあげよう」
「なるほど。二郎は、いわゆる『信用できない語り手』であったと。そういう事ですね」
「そうそう。先にも言った通り、吾輩が話しているのはダイジェストであって、正確な読解では無いのさ。大雑把に主観を交えて、吾輩なりに『行人』を語っていきたい」
例えば一郎が妻の直を、具体的にどの程度の頻度で殴っていたかは定かでは無い。旅行中に、一郎と直が離れて歩いていたという描写があるから、以前から一郎は妻を殴っていたと吾輩は思うだけだ。第一部の『友達』に出てきた、狂人となった女性の話も、モデルとされた人物がどの程度に似ていたかは吾輩、知らない。
「真面目な文学論や研究は、他の人に任せて、不真面目も交えて龍之介くんと語り合いたいね。で、二郎と直が、やっちゃったかどうかは大した問題じゃないと吾輩は思う。二郎も直も、一郎の結婚を壊すつもりは無いんだ。仮に二郎と直の間に男女関係があったとしても、それはそう仕向けた一郎が悪い」
むしろ注目すべきは、宿に閉じ込められた状況で、直が外の大雨に対してコメントをする場面であろう。二郎の兄と母親が居る和歌の浦に付いて、そこが津波に攫われたらという仮定の話を直はして、「そんな物凄い所が見たい」と彼女は言うのだ。
「これは革命を期待してるって事だよね。漱石先生は、そういうつもりで書いてるんだろう」
「夫の暴力も、窮屈な家制度も無くなってしまえばいい。そういう事ですかねぇ」
「一郎と直の間には、女の子が一人居るだけだ。つまり、家の跡継ぎになるべき男子が居ない。だから直は、二郎の母親とかからプレッシャーを掛けられてる。皇族の、そんなケースが今もニュースになったりするよね」
「『とかくに人の世は住みにくい』ですか」
『草枕』の文章を持ち出して龍之介くんが笑う。あの話の主人公は最後、第二のフランス革命が起きるかも知れないという予感を持っていた。そして漱石先生の死後まもなく、ロシアで革命が起きた。予感は半ば、当たったのかも知れない。
「『行人』は大正元年という、元号が移り変わる時期から連載が始まった作品だ。時代の移り変わりというものを漱石先生は意識していたんじゃないかな。二郎の前で、直は色々な表情を見せるけど、第四部の『塵労』で『囚われない自由な女であった』と書かれる。それが二郎の、好意的な直への評価だ」
ダイジェストを進めると、二郎と直は、雨が止んでから和歌の浦に戻る。一郎が二郎に対して、「直の性質が解ったか」と、疑い深く聞いてくる。二郎は一郎への嫌悪感が強くなってきて、まともに話をしたくない。「東京へ帰るまで待ってください」とあしらって、更に「姉さんの人格に就て、御疑いになる所はまるでありません」と言う。
「つまり二郎は一郎に、『おかしいのは、お前の頭だ』と言っている。一郎も顔色が変わる。対立が決定的になってきたね」
「二郎と一郎の戦いですか。ラーメン屋の争いみたいな響きですね」
龍之介くん、吾輩にラーメン屋が店の名前に付いて争ってた、という話をしてくれた。吾輩、ラーメンは食べないから良く分からなかった。
「とにかく、そんなこんなで一同は東京の家に帰る。次は第三部である『帰ってから』の話だ」
「二郎は直に付いて、何となく意識が向くようになる。一晩、男女が寝起きを共にすれば、それはそうなるだろうね。直も同様なんだろうけど、一郎と別れたい訳では無いから、普段と変わらないように振舞っている」
第四部の『塵労』では、直が墓参りをしたという話が出てくる。おそらく直の実家は、もう無いのではないか。出戻りも出来ない直は、一郎と離婚する訳には行かないのだ。
「二郎は独身で、そして二郎の妹である重も独身だ。重は自分が結婚できないのが悔しくて、直に食って掛かったりする。その割に泣き虫で、何かというと一人で勝手に泣いている」
この泣き虫の妹も、漱石先生の子供時代の分身キャラだろうかと吾輩、思う。
第三部である『帰ってから』は、二郎の父親の長話など出てくるのだが、その辺りは省略する。この『帰ってから』では二郎が両親や兄夫婦、妹に囲まれて、細かい喧嘩はありながらも平穏に暮らす様子が書かれる。一家が幸せであった最後の時期で、そこから一郎の精神状態がおかしくなって物語は終わるのだ。
「二郎は一郎に、直の事に付いて『東京で話す』と言って面倒を避けていたね。で、一郎が、しつこく二郎に尋ねてくる。二郎は『元々貴方の頭にある幻なんで、客観的には何処にも存在していない』と言い放つ。これはもう、その通りなんだよ」
二郎の言葉を信じない一郎は、怒鳴りつけてくる。今の一郎は、おそらく誰の言葉も信じない。不信の原因は最後まで説明されない。分かるのは、こうなっては人間、どうしようも無いという事だけだ。
「一郎との仲が修復不能になったんで、二郎は家を出て下宿すると決める。それを知った直は、二郎に『早く奥さんをお貰いなさい』と言う。そうすれば、確かに一郎が二郎を敵視する事も無くなるかもね。二郎は直の事を想ってるのか、上手く返答できない」
出立の時が来て、母親と重は浮かない顔である。直が「又ちょくちょく遊びに入らっしゃい」と言ってくれる。こうして二郎は下宿を始めて、第三部『帰ってから』の最後に、お手伝いの貞さんの挙式で再び、家族と合流する。
「これで第三部までのダイジェストを終了と。後は『塵労』と、吾輩の解釈などを述べるよ」
「ちょっとシャワーを浴びてきますよ、吾輩さん」
「いいとも。そろそろ我々の会話も締めくくりだ、ベッドで子守歌を唄ってあげよう」
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