23 / 64
第四章『三四郎』
2 猫ちゃん、講義する(その2)
しおりを挟む
「君の父親が、母親と結婚できたのは奇跡みたいなものでね。数多くのライバルを押しのけて、愛する女性と結ばれるというのは大した事なんだ。君の母親は数多くの人から愛されてたようだし」
吾輩も詳しくは知らないが、主人よりも奥方の方が高収入なのは間違いない。一体、何で結婚できたのかも知らない。そこには確かにドラマがあったのだろうと思う。
「とにかく小説の話だ。三四郎は二十三歳で、今で言う東大で学生として過ごすために上京する。今の感覚だと、大学に入るには遅めの年齢だけど、まあ当時と今は違ったのかもね」
「上京というのは、他の県から東京に来る事ですよね」
「そうそう。三四郎は九州出身なんだってさ、どんな所なのかは吾輩も知らないけど」
吾輩も龍之介くんも東京で生まれ育っているので、他の県の事は今一つピンと来ない。上京する者が感じる心細さも分からない。猫と幼児の文学談義は、どれほどの価値があるのやら、だ。
「東京に来た三四郎は、『うわー、東京だ。大きいなー、広いなー』と驚いてばかりでね。世の中は広いんだな、自分は何も知らないんだなと。そんな事を最初に痛感するんだ」
「九州は東京と違うんでしょうね。富士山も見えないんでしたっけ」
「見えないんだろうね。吾輩も龍之介くんも、実際に見た事は無いけど。書かれてないけど三四郎は、九州の山でカブトムシとか捕って遊んでたイメージがあるよ」
「それで東大に行けるんですねー。それは凄い人なのでは?」
そうかも知れないと吾輩、思う。きっと三四郎は、受験勉強では優秀だったのだろう。逆に言えば勉強だけをしていて、世の中の事を知らない男だったのだろうとも思う。上京する時に乗った汽車の中では、乗客が戦争の悲しみを語っているのだが、三四郎は何もピンと来ていない。
「まあ大学も、浮世離れしてるとか言われてるから。三四郎が通う大学の話なんだけど、大学の近くを電車が走る予定があって。それが大学の抗議で、離れた所を電車が通る事になったんだって。『電車さえ通さないという大学はよほど社会と離れている』って、小説の中で皮肉られてたよ」
漱石先生の批判精神は全く、大したものであった。
「大学の中で三四郎が、池を見つめて考え込む場面があって。ここの描写が良いんだよ。ちなみに池は実在してて、今でも東大の中で『三四郎池』って呼ばれてるんだってさ」
池を見つめながら三四郎は、浮世離れした大学の人間を思い浮かべる。自分も、そんな風に生きていけるだろうかと考えて、『無理だ』と三四郎は結論を出す。これは漱石先生の結論とも同じだったのだろうと吾輩は思う。三四郎も漱石先生も、社会の中で生きていきたかったのだ。
三四郎は東京よりも日本よりも広い、世界全体の事を考えて、そして孤独を感じる。この孤独感は、その後も漱石先生の生涯に、まとわり続けたものかも知れない。頭が良すぎる人は、世界の大きさを実感してしまう。それは個人というものの小ささ、脆さを再認識させるのだ。
「吾輩さん? 黙り込んでますけど、どうしましたか?」
「うん。何をどこまで話すべきかと思ってね」
龍之介くんには言わないが、三四郎は上京する際に、汽車の中で女性と出会って誘惑される。何も起きなかったが、三四郎には衝撃の出来事だった。『現実世界はどうも自分に必要らしい。けれども現実世界はあぶなくて近寄れない気がする』と、彼は女性との出会いを回想する。
「結局、男に取って究極の現実は、女なのかも知れないねぇ……」
「はい?」
龍之介くんが不思議そうに吾輩を見つめてくる。吾輩は吾輩で、まだ独り言が止まらない。
「世界の事を考えても、こっちに世界は近づいてこない。だけども男が女の事を考えてたら、それは男と女が互いに近づき合うもんなぁ……」
「吾輩さん? 吾輩さーん?」
男と女が近づき合って、そして妊娠するのである。猫の吾輩はその辺りの現実を知っている。
個人が考えるべきは、そういう現実であるべきなのかも知れない。あんまり観念的になっていては神経衰弱になる。現実は待ってくれないのだ、オギャーと生まれてきた現実の龍之介くんを育てている主人も同意見であろう。
「……池の前で考え込んでいる、三四郎の話だったね。観念的な世界に浸ってた彼の前には、二人の女性が現れるんだ。この内の一人が美禰子だよ、三四郎が現実に引き戻される出会いの場面だね。言い忘れてたけど、美禰子も三四郎と年齢は同じなんだってさ」
美禰子は初対面である三四郎の前を通り過ぎ、持っていた椎の花を彼の前に落とす。これは三四郎を何となく、からかってみたくなったのか。三四郎というのは余程ボンヤリした、からかいがいのある世間知らずの若者だったのか。あるいは彼にイノセントな魅力があったのか。
何はともあれ、こうして三四郎が恋を知る話は動き出す。彼の青春が始まる。
吾輩も詳しくは知らないが、主人よりも奥方の方が高収入なのは間違いない。一体、何で結婚できたのかも知らない。そこには確かにドラマがあったのだろうと思う。
「とにかく小説の話だ。三四郎は二十三歳で、今で言う東大で学生として過ごすために上京する。今の感覚だと、大学に入るには遅めの年齢だけど、まあ当時と今は違ったのかもね」
「上京というのは、他の県から東京に来る事ですよね」
「そうそう。三四郎は九州出身なんだってさ、どんな所なのかは吾輩も知らないけど」
吾輩も龍之介くんも東京で生まれ育っているので、他の県の事は今一つピンと来ない。上京する者が感じる心細さも分からない。猫と幼児の文学談義は、どれほどの価値があるのやら、だ。
「東京に来た三四郎は、『うわー、東京だ。大きいなー、広いなー』と驚いてばかりでね。世の中は広いんだな、自分は何も知らないんだなと。そんな事を最初に痛感するんだ」
「九州は東京と違うんでしょうね。富士山も見えないんでしたっけ」
「見えないんだろうね。吾輩も龍之介くんも、実際に見た事は無いけど。書かれてないけど三四郎は、九州の山でカブトムシとか捕って遊んでたイメージがあるよ」
「それで東大に行けるんですねー。それは凄い人なのでは?」
そうかも知れないと吾輩、思う。きっと三四郎は、受験勉強では優秀だったのだろう。逆に言えば勉強だけをしていて、世の中の事を知らない男だったのだろうとも思う。上京する時に乗った汽車の中では、乗客が戦争の悲しみを語っているのだが、三四郎は何もピンと来ていない。
「まあ大学も、浮世離れしてるとか言われてるから。三四郎が通う大学の話なんだけど、大学の近くを電車が走る予定があって。それが大学の抗議で、離れた所を電車が通る事になったんだって。『電車さえ通さないという大学はよほど社会と離れている』って、小説の中で皮肉られてたよ」
漱石先生の批判精神は全く、大したものであった。
「大学の中で三四郎が、池を見つめて考え込む場面があって。ここの描写が良いんだよ。ちなみに池は実在してて、今でも東大の中で『三四郎池』って呼ばれてるんだってさ」
池を見つめながら三四郎は、浮世離れした大学の人間を思い浮かべる。自分も、そんな風に生きていけるだろうかと考えて、『無理だ』と三四郎は結論を出す。これは漱石先生の結論とも同じだったのだろうと吾輩は思う。三四郎も漱石先生も、社会の中で生きていきたかったのだ。
三四郎は東京よりも日本よりも広い、世界全体の事を考えて、そして孤独を感じる。この孤独感は、その後も漱石先生の生涯に、まとわり続けたものかも知れない。頭が良すぎる人は、世界の大きさを実感してしまう。それは個人というものの小ささ、脆さを再認識させるのだ。
「吾輩さん? 黙り込んでますけど、どうしましたか?」
「うん。何をどこまで話すべきかと思ってね」
龍之介くんには言わないが、三四郎は上京する際に、汽車の中で女性と出会って誘惑される。何も起きなかったが、三四郎には衝撃の出来事だった。『現実世界はどうも自分に必要らしい。けれども現実世界はあぶなくて近寄れない気がする』と、彼は女性との出会いを回想する。
「結局、男に取って究極の現実は、女なのかも知れないねぇ……」
「はい?」
龍之介くんが不思議そうに吾輩を見つめてくる。吾輩は吾輩で、まだ独り言が止まらない。
「世界の事を考えても、こっちに世界は近づいてこない。だけども男が女の事を考えてたら、それは男と女が互いに近づき合うもんなぁ……」
「吾輩さん? 吾輩さーん?」
男と女が近づき合って、そして妊娠するのである。猫の吾輩はその辺りの現実を知っている。
個人が考えるべきは、そういう現実であるべきなのかも知れない。あんまり観念的になっていては神経衰弱になる。現実は待ってくれないのだ、オギャーと生まれてきた現実の龍之介くんを育てている主人も同意見であろう。
「……池の前で考え込んでいる、三四郎の話だったね。観念的な世界に浸ってた彼の前には、二人の女性が現れるんだ。この内の一人が美禰子だよ、三四郎が現実に引き戻される出会いの場面だね。言い忘れてたけど、美禰子も三四郎と年齢は同じなんだってさ」
美禰子は初対面である三四郎の前を通り過ぎ、持っていた椎の花を彼の前に落とす。これは三四郎を何となく、からかってみたくなったのか。三四郎というのは余程ボンヤリした、からかいがいのある世間知らずの若者だったのか。あるいは彼にイノセントな魅力があったのか。
何はともあれ、こうして三四郎が恋を知る話は動き出す。彼の青春が始まる。
0
お気に入りに追加
5
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

乙女フラッグ!
月芝
キャラ文芸
いにしえから妖らに伝わる調停の儀・旗合戦。
それがじつに三百年ぶりに開催されることになった。
ご先祖さまのやらかしのせいで、これに参加させられるハメになる女子高生のヒロイン。
拒否権はなく、わけがわからないうちに渦中へと放り込まれる。
しかしこの旗合戦の内容というのが、とにかく奇天烈で超過激だった!
日常が裏返り、常識は霧散し、わりと平穏だった高校生活が一変する。
凍りつく刻、消える生徒たち、襲い来る化生の者ども、立ちはだかるライバル、ナゾの青年の介入……
敵味方が入り乱れては火花を散らし、水面下でも様々な思惑が交差する。
そのうちにヒロインの身にも変化が起こったりして、さぁ大変!
現代版・お伽活劇、ここに開幕です。
若奥様は緑の手 ~ お世話した花壇が聖域化してました。嫁入り先でめいっぱい役立てます!
古森真朝
恋愛
意地悪な遠縁のおばの邸で暮らすユーフェミアは、ある日いきなり『明後日に輿入れが決まったから荷物をまとめろ』と言い渡される。いろいろ思うところはありつつ、これは邸から出て自立するチャンス!と大急ぎで支度して出立することに。嫁入り道具兼手土産として、唯一の財産でもある裏庭の花壇(四畳サイズ)を『持参』したのだが――実はこのプチ庭園、長年手塩にかけた彼女の魔力によって、神域霊域レベルのレア植物生息地となっていた。
そうとは知らないまま、輿入れ初日にボロボロになって帰ってきた結婚相手・クライヴを救ったのを皮切りに、彼の実家エヴァンス邸、勤め先である王城、さらにお世話になっている賢者様が司る大神殿と、次々に起こる事件を『あ、それならありますよ!』とプチ庭園でしれっと解決していくユーフェミア。果たして嫁ぎ先で平穏を手に入れられるのか。そして根っから世話好きで、何くれとなく構ってくれるクライヴVS自立したい甘えベタの若奥様の勝負の行方は?
*カクヨム様で先行掲載しております
人生負け組のスローライフ
雪那 由多
青春
バアちゃんが体調を悪くした!
俺は長男だからバアちゃんの面倒みなくては!!
ある日オヤジの叫びと共に突如引越しが決まって隣の家まで車で十分以上、ライフラインはあれどメインは湧水、ぼっとん便所に鍵のない家。
じゃあバアちゃんを頼むなと言って一人単身赴任で東京に帰るオヤジと新しいパート見つけたから実家から通うけど高校受験をすててまで来た俺に高校生なら一人でも大丈夫よね?と言って育児拒否をするオフクロ。
ほぼ病院生活となったバアちゃんが他界してから築百年以上の古民家で一人引きこもる俺の日常。
――――――――――――――――――――――
第12回ドリーム小説大賞 読者賞を頂きました!
皆様の応援ありがとうございます!
――――――――――――――――――――――
烏孫の王妃
東郷しのぶ
歴史・時代
紀元前2世紀の中国。漢帝国の若き公主(皇女)は皇帝から、はるか西方――烏孫(うそん)の王のもとへ嫁ぐように命じられる。烏孫は騎馬を巧みに操る、草原の民。言葉も通じない異境の地で生きることとなった、公主の運命は――?
※「小説家になろう」様など、他サイトにも投稿しています。

戦いに行ったはずの騎士様は、女騎士を連れて帰ってきました。
新野乃花(大舟)
恋愛
健気にカサルの帰りを待ち続けていた、彼の婚約者のルミア。しかし帰還の日にカサルの隣にいたのは、同じ騎士であるミーナだった。親し気な様子をアピールしてくるミーナに加え、カサルもまた満更でもないような様子を見せ、ついにカサルはルミアに婚約破棄を告げてしまう。これで騎士としての真実の愛を手にすることができたと豪語するカサルであったものの、彼はその後すぐにあるきっかけから今夜破棄を大きく後悔することとなり…。
軍艦少女は死に至る夢を見る~戦時下の大日本帝国から始まる艦船擬人化物語~
takahiro
キャラ文芸
『船魄』(せんぱく)とは、軍艦を自らの意のままに操る少女達である。船魄によって操られる艦艇、艦載機の能力は人間のそれを圧倒し、彼女達の前に人間は殲滅されるだけの存在なのだ。1944年10月に覚醒した最初の船魄、翔鶴型空母二番艦『瑞鶴』は、日本本土進攻を企てるアメリカ海軍と激闘を繰り広げ、ついに勝利を掴んだ。
しかし戦後、瑞鶴は帝国海軍を脱走し行方をくらませた。1955年、アメリカのキューバ侵攻に端を発する日米の軍事衝突の最中、瑞鶴は再び姿を現わし、帝国海軍と交戦状態に入った。瑞鶴の目的はともかくとして、船魄達を解放する戦いが始まったのである。瑞鶴が解放した重巡『妙高』『高雄』、いつの間にかいる空母『グラーフ・ツェッペリン』は『月虹』を名乗って、国家に属さない軍事力として活動を始める。だが、瑞鶴は大義やら何やらには興味がないので、利用できるものは何でも利用する。カリブ海の覇権を狙う日本・ドイツ・ソ連・アメリカの間をのらりくらりと行き交いながら、月虹は生存の道を探っていく。
登場する艦艇はなんと78隻!(人間のキャラは他に多数)(まだまだ増える)。人類に反旗を翻した軍艦達による、異色の艦船擬人化物語が、ここに始まる。
――――――――――
●本作のメインテーマは、あくまで(途中まで)史実の地球を舞台とし、そこに船魄(せんぱく)という異物を投入したらどうなるのか、です。いわゆる艦船擬人化ものですが、特に軍艦や歴史の知識がなくとも楽しめるようにしてあります。もちろん知識があった方が楽しめることは違いないですが。
●なお軍人がたくさん出て来ますが、船魄同士の関係に踏み込むことはありません。つまり船魄達の人間関係としては百合しかありませんので、ご安心もしくはご承知おきを。もちろんがっつり性描写はないですが、GL要素大いにありです。
●全ての船魄に挿絵ありですが、AI加筆なので雰囲気程度にお楽しみください。また、船魄紹介だけを別にまとめてありますので、見返したい時はご利用ください(https://www.alphapolis.co.jp/novel/176458335/696934273)。
●少女たちの愛憎と謀略が絡まり合う、新感覚、リアル志向の艦船擬人化小説を是非お楽しみください。
●お気に入りや感想などよろしくお願いします。毎日一話投稿します。
~千年屋あやかし見聞録~和菓子屋店主はお休み中
椿蛍
キャラ文芸
大正時代―――和菓子屋『千年屋(ちとせや)』
千年続くようにと祖父が願いをこめ、開業した和菓子屋だ。
孫の俺は千年屋を継いで只今営業中(仮)
和菓子の腕は悪くない、美味しいと評判の店。
だが、『千年屋安海(ちとせや やすみ)』の名前が悪かったのか、気まぐれにしか働かない無気力店主。
あー……これは名前が悪かったな。
「いや、働けよ」
「そーだよー。潰れちゃうよー!」
そうやって俺を非難するのは幼馴染の有浄(ありきよ)と兎々子(ととこ)。
神社の神主で自称陰陽師、ちょっと鈍臭い洋食屋の娘の幼馴染み二人。
常連客より足しげく通ってくる。
だが、この二人がクセモノで。
こいつらが連れてくる客といえば―――人間ではなかった。
コメディ 時々 和風ファンタジー
※表紙絵はいただきものです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる