裸の瞳

佐治尚実

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第二章

4.二年後

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 五月の日曜、午後四時に取れた休憩で、卵とハムのサンドイッチを口に詰め込み、ペットボトルの烏龍茶で胃に流し込む。毎年、五月の七日間だけ、老舗百貨店の優待セールが開催される。今年で二年目となった大地は、しっかりと対策と覚悟を持って挑めた。大卒で入った高級紳士靴メーカーの売り場では、今も上司が接客に追われている。昼休憩は一時間、夕方は十五分が基本だった。だが優待セール中は平日や土日問わず、さっと十五分で済ますのが暗黙のルールとなっていた。こんな負の慣例はなくなればいいのに、と内心愚痴る。

 百貨店の社食や休憩室に行く暇すらない。大地はバックヤードのパイプ椅子で、束の間の休息を得ていた。棚の間にすっぽりと収まってしまう己の細い体を憂う。とうに成長期を終えた大地は、先月の四月に二十四歳を迎えていた。

「ふう」

 食事を終えて、残りの時間は携帯電話で裕貴と悠成の活躍を追った。

 昨年、二十三歳の裕貴は、破格の契約金でメジャー入りを果たした。裕貴は当然のようにアメリカに大地を連れて行こうとした。大地は大学で英文学科を専攻していたから、海外移住も心配ではない。悠成もアメリカでスタジオ付きの別荘暮らしに乗り気であった。大地だって外の世界に憧れもした。好きなアメリカ文学を学び直し、大学時代にハマった紳士靴の世界にも触れたかった。今の仕事が好きだったから、アメリカでも靴に関する仕事に係わりたい。それでも、病人の母を日本に置いて行くとなると、全てが無力となった。
 二人に打ち明けると、悠成だけが残った。今や悠成のバンドはアリーナを満員にし、ファンや音楽にも愛されて成功を手にしていた。レコーディングや撮影、ライブ、仕事を詰め込まれても、悠成は必ず帰宅した。深夜に帰ってきたかと思えば、寝室で寝ていた大地の下着を脱がして勝手に事に及ぶ。多忙期の悠成を思い、いつでも受け入れるように準備もしていた。だから悠成の獣じみた律動に、覚醒した大地は歓喜する。

 単独でアメリカ進出した裕貴から、深夜に電話を受ける。が、どうしてもすれ違いが増えていく。悠成には来月から年末までのツアーに同行してくれと誘われている。当初、大地もツアーに同行する予定だった。それも母が脳の病気が再発してから白紙となった。父は「俺に任せなさい」と背中を押してくれたし、裕貴の父も「長い付き合いだから心配だ」と毎日のように病院に見舞いに来ているようだ。

「ん?」

 店長の藍沢が目当ての化粧箱を探す。その横で父から連絡を受けた。

『母さんが死んだ』

 開口一番、父が爆弾を落とす。父の背後が騒がしい。どうやら病院なのだろう。

「いつ」

 大地は抑えた声で応える。

『今日の昼、病室で昼寝をしていたから、父さんは売店に行って、戻ってきたら、母さんは息をしていなかった』

 脳の病気で入退院を繰り返していた母は、最後まで後遺症に苦しんでいた。そんな母の死に際に会えなかった。

「そう、苦しまなかったんだ」

 良かった、と細い息を吐いた。大地は重力を失ったように、体が浮いた気がする。

『大地はどうする、無理はするな、それに今は繁忙期で忙しいだろうし』

 父が答えを待っている。もしも大地が今すぐ実家に帰らなくてもいいのなら、わざわざ連絡を寄越すわけがない。

「考えさせて」

 嘘みたいに泣けなかった。もう何度も涙を流したからか、母の顔を見ていないからだろうか。なんて都合が良いのか、明日は仕事が休みだ。
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