長い兄弟げんか

佐治尚実

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秘めた思い

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「紬っ!」

 呼び止められても、引き返す義理もない。もう堪忍ならない。この際だ、僕だって反抗期を起こしてやろうか。

「冬真くん」

 客間の引き戸を開けて、冬真がいるかと必死に探した。狭い部屋なのに、ぶれた視線では直ぐに見つからず、動揺を抑えようと玄関を見たら、冬真の靴だけが見当たらない。

「冬真くん」

 何を急き立てられていたのか、僕は外に飛び出した。腕時計を見たら時刻は二十時を過ぎていた。額に汗が滲んでも拭うのを忘れて辺りを見渡すと、庭先に冬真らしき輪郭が浮き出る。

「紬さん、どうしたんですか」

 一人、こちらに歩み寄る男がいた。冬真に背格好は似ているのに、声の調子が彼らしくない。ぶっきらぼうで冷めた声だった。

「冬真くん、君が心配で」

 フッと鼻で笑われた気がする。

「別に、あの人たちが別れても、俺は泣きませんよ。紬さんは心配性だな」

 夏の空は明るい。冬真の目元が、赤くないと分かる。それが無性に嬉しいと同時に、胸が騒いだ。

「なら・・・・・・。いつ、泣くんだよ」

 彼ら家族が張り巡らしている空間に、僕は踏み込んではいけない。正しい距離感を維持しなければ、僕なんか息を吸う前にのみ込まれてしまう。それなのに、どうにもならない焦燥感が襲いかかってくる。

「そうやって、意地をはっても欲しいものは手に入らないんだよ」

 自分でも何を口走っているのか支離滅裂だ。

「どうせ、家でもそんな感じなんだろう。誰よりも気を遣って、好かれようと顔色をうかがって」

 冬真がかつての自分に重なる気がした。那津美に疎まれたら、倍になって負の感情が芽生える。『那津美に嫌われてしまう、でも僕はそれでいいんだ、そうすれば諦められる』と己に従うよう、自分自身の声を無視した。それがどうだ、言い訳を連ねる見栄っ張りのグズグズした大人になってしまった。そんな自分は間違っていた。

「あっ」

 気がつけば、視界が涙でにじんでいた。勝手に盛り上がっていた僕は、ああもう、と唐突に羞恥がこみ上げてくる。

「俺はこのままだと、欲しいものが手に入らないんでしょうか」

 どうせ僕は、いま付き合っている恋人とも長くは続かない。そう分かっているからこそ、僕は声を大にして言いたい。

「・・・・・・入ったとしても、ちゃんと大切にできない」
「それはいやだ」
「だったら、好きに生きなよ。ムカつくなら兄に反抗すればいいんだ、勝手に離婚を決めた両親を責めなくて、聞き分けのいい子を続けるなんて、君が損をするだけだよ」

 夏の夜空に輝く星が、パチパチとまばたきする。

「紬さん」 

 冬真は近所の家から漏れる光に照らされていた。冬真の黒眼は輝き、僕の顔をのぞき込んでくる。熱い息が頬に触れる近さまで顔を寄せてくる。

「俺が泣かないのは、我慢してるとかではなく、泣く必要がないからなんです。離婚してせいせいするのは本当です。あの人と同じ家に住むのが嫌だった。ならば家をでればいいと思うでしょう?」

 冬真は声を潜める。年相応に見えない冬真の凄みに、頭から首まで喰われてしまいそうだ。

「そうだよ、家を出なさい、そうして、全部捨てればいい。それでも何かが足を引っ張るなら、無視しないで戦おうよ」
「捨てたら、誰が俺を拾ってくれるんですか」

 僕の肩に額をあてる冬真は、甘えてしなだれかかってくる。

「・・・・・・一人は、嫌なの?」
「嫌ではありません」

 きっぱり、冬真は言い切った。

「拾って欲しいだけです、紬さんに」

 甘酸っぱいオレンジみたいな汗のにおいがした。冬真が使っている制汗剤だろうか、鼻をくすぐる香りは嫌いじゃない。
 それでも、那津美と違うな、と品定めしてしまう。

「僕、恋人がいるよ」
「知っています・・・・・・。紬さんなら、いるでしょうね」

 冬真は、僕の肩におでこを押しつけ、くしゃりと前髪をこすってつぶやく。

「あの人は、未だに紬さんが童貞で恋人がいないと思い込んでいるようですが」

 僕たちの横を、柔らかい風が通り過ぎて行く。ふと、那津美の香りも運んでくる気がした。庭の土を踏みしめる靴の音がしたら、冬真の襟首を掴む那津美の姿が視界に入ってくる。

「こいつに触るな」
「那津美、どうして・・・・・・どうして冬真くんを連れてきたの」

 両親に離婚を告げに来た那津美が、わざわざ冬真を同行させた理由を知りたい。

「ふん、冬真が勝手に付いてきたんだ」

 那津美の手でぐいっと肩を押される冬真は、これ見よがしにふてくされている。

「紬さんに会いたかったんだ、悪いかよ」
「こいつの名を呼ぶな」

 那津美は不遜な顔つきで冬真を邪険に扱う。

「紬の名を呼んでいいのは俺くらいで十分だ」

 まただ。なんだろう、このモヤモヤとする感じは。僕を蔑ろにしてきた那津美が何を好き勝手に言うか。兄がこんな甘い台詞を言うわけがない。もしかして嫌われていない、と間違って自惚れてしまいそうだ。

「秋になったら、紬さんは家族じゃないんだ。俺の方が有利ですよ」
「ガキが調子つくな」

 二人に挟まれたこちらこそ調子が狂う。

「・・・・・・兄さん、僕が嫌いなんでしょ。散々馬鹿にしてきたくせに。それなのに、なんだよそれ」

 言いかけるや、那津美の大きな手が僕の額を包む。那津美の熱が、ぐわんと強引な力で伝わってくる。

「お前がそうだったら良かったんだ。紬が俺以外に愛されないよう、目立たないよう、俺がわざと紬を未完成にさせた。そうすれば、紬は俺だけを見る」
「なに、それ」

 やめてくれ、ふざけるな。

「だから言っただろう、馬鹿でいろと」

 那津美の手が首筋をなぞる。その手つきは、家族の触れ合いとは違う。僕は気持ちが悪いと思わなかった。泣きたくなるほどの喜びで心が泡立つ。

「・・・・・・馬鹿でいたら、僕はどうなるの、兄さんはどうするの」

 ふっと那津美が鼻で笑う。

「どうもならない、俺はずっとお前の兄貴だ」

 那津美の声が、僕の耳に深く入り込む。僕にとって那津美は『完成品』ではないといけなかった。そうであれば都合が良かったからだ。決してこちらを見ない那津美が、僕の醜い感情を『汚いな』と足蹴にして、皆の機嫌を取る僕を「小さいな」と鼻で笑ってくれないと駄目だった。そうでないと、大切に守ってきた秘密が暴かれてしまう。

「いるんだろう、恋人。そいつと別れろ」

 那津美の言葉に、僕の両眼からブワッと涙があふれかえる。

「俺も別れたんだ」

 こんなに都合のいい話があるだろうか。僕とは正反対の那津美が含みのある台詞を飛ばしてきた。それは不器用な投げ方だった。

「勝手に結婚したくせに」

 横で話を聞いている冬真が寂しそうな眼差しを向けてくる。涙を拭う僕の手を掴むと、すぐさま那津美によって振り払われた。

「一度はしないと、親不孝だろう」

 ハッキリと告白をしてこない那津美は臆病者だ。那津美の気持ちを好きに受け取ってもいいのだろうか。

「なら、僕もしないと」

 悔しくて、僕はわざと意地を張った。

「それは、必要ない」

 ニヤリと笑う那津美は、どこまでも卑怯だ。

「いいのか」

 何かの合図みたいに那津美が訊いてくる。

「なにを」
「俺の手を振りほどかなくても、いいのか。俺はどこまでもお前を虐めるぞ」

 虐められたい、なんて口走っても良いだろうか。

「いいよ、兄さんなら、いい」

 直接的な言葉を紡がない意気地なしな那津美の手が、涙で濡れた頬に触れる。夏だというのにひんやりとした手のひらは心地が良かった。
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