うつくしみの手

佐治尚実

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近藤二葉

4-翌月の朝

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 翌月、灰青色の曇った空気を吸うと、空っぽの胃が重たく沈み込んだ。分厚いコートのポケットからスマートフォンを取り出し、天気予報を確認する。どうやら午前中にかけて雨が降るそうだ。
 今朝七時に、

『いまから会いたい』

 なんて純に電話口で言われたものだから、余計に舞い上がってしまった。今日が土曜日で、連絡を受けたのが早い時間だったことあり、二葉は早々に新しい彼女とのデートをキャンセルした。
 ややあって、カビとほこりの臭いが鼻をかすめ、灰色のアスファルトに黒い斑点ができる。

「二葉っ」

 低く重苦しい雲の下で、耳にするだけで愛おしさから切なくなる声を聞いた。声とは真逆で、純はどこか不機嫌そうな顔をしていた。喫茶店の前で待つ二葉に手を振ってきても、その表情は変わらなかった。それでも、純だけが雲の切れ目から差し込む日光にまとわれていた。
 二葉が垂直に手を上げて横に振ると、純が足を速める。と、純の首にぐるぐると巻かれた毛の長いマフラーが、黒のロングコートの裾が横に広がった。膨らみのあるコートのポケットからビニール袋らしき取っ手が顔を出し、ひらひらと風に揺れている。

「ゆっくり来いよ」

 喫茶店が開店するのを横目で確認し、すぐに正面から走ってくる純に視線を戻した。純が少し走っただけで息を切らすものだから、二葉は顔の半分で笑って見せた。

「それでも元陸上部の副部長だったのかよ」

 と二葉は拳を作り、純の肩を小突く。
 それだけで純の薄い体が後ろによろけたから、二葉は慌てて純の腕を掴んで支えた。久しぶりに純の腕に触れて、その柔らかさに唾液を飲み込んだ。高校から筋肉が落ちたのか、ぶよっとした感触だった。

「笑うなよ」

 純がむっつりしていると、余計に可愛らしく思えてきた。背筋をぴんと伸ばし、真っ直ぐに二葉を見てきた。純だけ十代の少年で止まっているようで、二葉は目をすがめた。

「走ってないのか、っていうかその顔はどうした」

 その問いに、純は口を固く結んで答えなかった。が、頼りなく下がった眉と腫れぼったいまぶたが、それ以上追求しないでくれよと訴えてくる。
 どうして泣いたのか、誰が純を泣かせたのかを深く考えた。

「花粉だよ」

 純のことだから、本当かどうかは分からない。
 純がその小さな黒い頭を項垂れさせた。最初はワックスでも付けているのかと思ったが、どうやら毛先が雨で濡れていた。

「雨も降ってるし、店に入るか」

 喫茶店の扉を開けた二葉に促されて、純も店内に足を踏み入れた。

 テーブルにカップとシフォンケーキが運ばれてきた。空いていたソファチェアに腰掛けた。純は隣に座り、灰色のブランケットを腰に掛けていた。純が湯気の立つカップに口をつける。続々と常連客が来て、出入り口から風が吹いて、純のブランケットがめくれた。二葉は咄嗟に布の端を掴み、純の細い腰回りを隠した。

「ここは寒いだろう、場所を変えるか」
「うん、大丈夫」

 純の血色の良い唇に、ホイップクリームが付いている。

「ここ、付いてる」

 二葉はホイップクリームを指で拭い取り、自分の舌で舐め取った。

「あ、うん、ありがとう」

 純の丸首のセーターから覗く鎖骨がむわっと上気した。

「シャンプーの匂いがする」

 わしゃわしゃと純の髪をかき回すと、両手で封じられた。二葉の手に水の感触が残った。

「や、髪の毛が落ちるって」

 こういうのは店でするなよ、と純が目を伏せて手を離した。別に髪の毛が落ちても茶色のカーペットの上では目立たないし、朝から風呂に入ったことを恥じる必要もないだろうに。

「お前は自分の気持ちをはっきりと言わないから、こうするのが手っ取り早いんだよ」

 二葉は朗々とした声で語りかけた。

「そうかな」
「そうだ」

 頭の乱れを直す純から気怠い色気を感じ取った。もしかして恋人とやっていたのかよ、と二葉は想像して、背筋に寒気を感じた。いますぐ別れろよ、と胸の中で毒づいた。

「早い時間にごめん」

 純は乾いた手をこすり合わせながら、真っ赤になった丸い目で見上げてくる。自分で呼び出してきたくせに、いつまでたっても口を濁している。
「まあ、起きてたし」
「そう、良かった」

 純の表情が和らぐ。

「泣いたのか、その顔、不細工だな、それに、お前は花粉症じゃないだろう」
「……これね、そうだね、二葉の前だと嘘付けないや」

 純が白い指で目元を隠した。
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