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安寧の時
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目が覚めたら、お母様が泣き腫らした目をしてわたくしを見下ろしていた。
「フローリア!」
「良かった、目を覚ましたのだな」
安堵したように息をつくお父様も目のフチが赤い。わたくし、何かそんなに……そう疑問に思いかけたところで、自分がバルコニーから転落した事を思い出した。
「ミューシャ……ミューシャは!?」
わたくしの可愛いミューシャ。転落するわずかに前まで、確かにこの腕にいた筈。わたくしの腕から誰かが抱き上げて、それから……?
「大丈夫、よく眠っているわ」
お母様が視線をひとつ投げると、メイド長のエマが心得たとばかりにミューシャを連れてきてくれた。
安心する甘い匂い。
温かくてぷにぷにと柔らかい、幸せな感触に心まで癒される。
「フローリア、ごめんなさいね。あなたがあんなに悩んでいたというのに気がつかなかっただなんて、お母様は母親失格だわ」
「あの若造にはたっぷりと灸を据えておく。あんな男のところに帰る事はない、これを機に離縁する事もできるのだからな」
二人に手を取られ、噛み付くように勢い込んで言われた言葉に、わたくしは首を傾げる。
「なあに? なんの事……? 若造って、誰……?」
わたくしの言葉に、二人の瞳が大きく見開かれた。
***
あれから幾日経ったのかしら。
一週間くらいは、お父様やお母様、お姉様、ミューシャが傍にいて、わたくしはとても安寧で幸せな毎日を送っていた。
わたくしの夫に関する記憶は戻らなかったけれど、訪ねてくるわけでもなく、誰も話題にする事もない状況を見るに、わたくしと夫はいい関係ではなかったのであろう事は簡単に想像出来た。
その内に、記憶がないのは思い出したくもない辛い事があったのかもと思い至ると、もう思い出そうとすら思わなくなった。
時が来て、必要があれば思い出せばいいのかも知れない。それまでは1日でも多く、この幸せな時を堪能したい。
そう思っていたのだけれど。
「フローリア、お前の夫が会いたいと言ったとしたら……会いたいかね?」
キョロキョロと辺りを見回して、誰もいないのを確認してから入ってきたお父様は、とても気まずげな顔でそう切り出してきた。
正直なところ、そんなふうに聞かれても困ってしまう。だって覚えてもいない人と、何を話せばいいのかしら。わたくしといつもどんな風に接していた方なのか、家族の誰もヒントをくれないし、むしろ緘口令でも布かれているのかと疑うレベルだというのに。
わたくしは、しばらく考えて、結局はありのまま答えことにした。
「わたくし……分かりません。第一これまで一度もお見えにならなかったのに、随分と突然ですのね」
「いや……来るには毎日来ていたのだ。此方が追い返していたのだよ、覚えてもいない男に会って余計な心労をかけさせたくなかったのでな」
「まあ」
それは申し訳ない事をした。はっきり言ってその記憶がない以外はすこぶる元気なのに。産後の怠さも少しずつ緩和され、ベッドにただいるのが退屈になって来たところでもある。
少なくとも毎日来てくれていたというのなら、決定的に不仲なわけでもないだろう。
会ってみれば、記憶だって戻るのかも知れない。
ミューシャのためにも、いつまでも素知らぬ顔をしているわけにもいかないだろうし。
わたくしは、夫だというその方に、勇気を出して会ってみる事にした。
「フローリア!」
「良かった、目を覚ましたのだな」
安堵したように息をつくお父様も目のフチが赤い。わたくし、何かそんなに……そう疑問に思いかけたところで、自分がバルコニーから転落した事を思い出した。
「ミューシャ……ミューシャは!?」
わたくしの可愛いミューシャ。転落するわずかに前まで、確かにこの腕にいた筈。わたくしの腕から誰かが抱き上げて、それから……?
「大丈夫、よく眠っているわ」
お母様が視線をひとつ投げると、メイド長のエマが心得たとばかりにミューシャを連れてきてくれた。
安心する甘い匂い。
温かくてぷにぷにと柔らかい、幸せな感触に心まで癒される。
「フローリア、ごめんなさいね。あなたがあんなに悩んでいたというのに気がつかなかっただなんて、お母様は母親失格だわ」
「あの若造にはたっぷりと灸を据えておく。あんな男のところに帰る事はない、これを機に離縁する事もできるのだからな」
二人に手を取られ、噛み付くように勢い込んで言われた言葉に、わたくしは首を傾げる。
「なあに? なんの事……? 若造って、誰……?」
わたくしの言葉に、二人の瞳が大きく見開かれた。
***
あれから幾日経ったのかしら。
一週間くらいは、お父様やお母様、お姉様、ミューシャが傍にいて、わたくしはとても安寧で幸せな毎日を送っていた。
わたくしの夫に関する記憶は戻らなかったけれど、訪ねてくるわけでもなく、誰も話題にする事もない状況を見るに、わたくしと夫はいい関係ではなかったのであろう事は簡単に想像出来た。
その内に、記憶がないのは思い出したくもない辛い事があったのかもと思い至ると、もう思い出そうとすら思わなくなった。
時が来て、必要があれば思い出せばいいのかも知れない。それまでは1日でも多く、この幸せな時を堪能したい。
そう思っていたのだけれど。
「フローリア、お前の夫が会いたいと言ったとしたら……会いたいかね?」
キョロキョロと辺りを見回して、誰もいないのを確認してから入ってきたお父様は、とても気まずげな顔でそう切り出してきた。
正直なところ、そんなふうに聞かれても困ってしまう。だって覚えてもいない人と、何を話せばいいのかしら。わたくしといつもどんな風に接していた方なのか、家族の誰もヒントをくれないし、むしろ緘口令でも布かれているのかと疑うレベルだというのに。
わたくしは、しばらく考えて、結局はありのまま答えことにした。
「わたくし……分かりません。第一これまで一度もお見えにならなかったのに、随分と突然ですのね」
「いや……来るには毎日来ていたのだ。此方が追い返していたのだよ、覚えてもいない男に会って余計な心労をかけさせたくなかったのでな」
「まあ」
それは申し訳ない事をした。はっきり言ってその記憶がない以外はすこぶる元気なのに。産後の怠さも少しずつ緩和され、ベッドにただいるのが退屈になって来たところでもある。
少なくとも毎日来てくれていたというのなら、決定的に不仲なわけでもないだろう。
会ってみれば、記憶だって戻るのかも知れない。
ミューシャのためにも、いつまでも素知らぬ顔をしているわけにもいかないだろうし。
わたくしは、夫だというその方に、勇気を出して会ってみる事にした。
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