麗しのラシェール

真弓りの

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きっと、逃げたかった。

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呪縛のように紡がれる「麗しのラシェール」を聞き続けて早2年。

辛くなかったと言えば嘘になる。でも、その言葉以外は旦那様は本当に模範的な良い夫だったのだ。

重責ある立場ゆえの遅い帰宅はあったとしても、必ず連絡を入れてくれる。出来うる限り夫婦の時間を取ってくれる。物腰はいつも柔らかで怒鳴った姿など見たこともない。

とても、とても、良い方なのだ。

「麗しのラシェール」が姉の事を指すのだと思ったあの日、わたくしは心の中で旦那様を蔑み憎んだけれど、毎日の気遣いや笑顔、何気ない会話から、あの方がとても優しい方である事くらい嫌でも分かる。

あの方の唯一になれない事が悲しくて毎日泣いてしまう程には、わたくしは旦那様を愛していた。

「奥様、そんなにお辛いなら、旦那様に打ち明けては」

部屋付きのリリアが心配してそう言ってくれるけど、わたくしにはどうしても言えなかった。

あの方が愛するお姉様は、この国一番の武勇を誇る方に嫁いだ人妻で……あの方にとってはどんなに望んでも手に入らない華だ。

あの方だって辛い恋をしている。

わたくしが日々枕を濡らすように、あの方もきっと、実らぬ恋に苦しんでいるのだ。

そう思うと、ただお側にいて差し上げたいと思ってしまう。わたくしにお姉様の面影を見る事で旦那様の心が慰められるならそれでもいい。

ただ、そう考える心のかたすみに、いつかはわたくし自身を見て下さる日が来るのでは、という期待がいつもあるのだから、全く、自分でも理不尽な心の有り様だとは思うけれど。


鬱々と過ごしていたある日、屋敷を揺るがす大事件が起こった。

わたくしは、ついに旦那様との間に子を授かったのだ。

この屋敷に来てこの方、こんなに晴れやかな気持ちになった事はない。

嬉しくて、幸せで。

つわりは重くて毎日のように吐いたけれども、大きくなっていくお腹を見ると安心した。

前にも増して大切にして下さる旦那様。

産前のしきたりとして、実家で産前の準備に入ったわたくしを毎日のように見舞い、かいがいしく世話をやいてくださる様はありがたく、とても頼もしかった。

そう、わたくしはかつてなく幸せだった。だからきっと、浮かれて忘れてしまっていたのだ。

わたくしの可愛い赤ちゃんが生まれた日、旦那様は言った。

「なんと愛らしい……僕のラシェール」

目の前が、真っ暗になった。

この言葉を聞いた時から、わたくしは徐々に壊れて行ったのかも知れない。

なんの巡り合わせか、時を同じくしてお姉様の夫君が流行り病で急逝され、お姉様が一時的に実家に身を寄せていた事も、わたくしの心を苛んだ。

見舞いに来た二人が、わたくしの可愛い赤ちゃん……ミューシャを挟んで微笑み合う姿を見ていたら、わたくし自身が邪魔者のように思えて仕方ない。

分かっている。
こんなの被害妄想だ。

そう冷静に思える自分がいるのに、どうしてこんなに焦燥感に駆られてしまうの。

頻繁にわたくしを見舞うお姉様と旦那様は鉢合わせる事も多い。そして、なんのてらいもなく、わたくしの前で楽しげに話すのだ。

見たくない。

やめて。

二人を見ていたくなくて、やっと歩けるまでに回復した体でミューシャを抱いてバルコニーへと避難した。この子の暖かい柔らかな体を抱くだけで、わたくしはとても癒されたから。

手摺に背を預け、腕の中の重みを堪能する。独特のミルクの匂い、意味をなさない声、全てが愛おしい。

小さな幸せを感じていたら、急に暖かなミューシャが腕から取り上げられた。

「あまり風にあててはいけないよ、僕の可愛いラシェール」

それがトリガーだったのか。

わたくしはそのまま意識を失い……背にしたバルコニーの手摺から落下した。
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