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六十話
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「松永の旦那の?まあ、元気にしてるのかい?」
右京がかつて暮らしていた小網町の長屋に赴いた三郎は、彼の友人だと名乗って携えた土産物をおかみさん連中に渡した。
「長屋の人に渡して欲しいと頼まれたでの」
喜び懐かしがったおかみさん達。
「相変わらず、松永の旦那は優しいねぇ。それでお家は無事に継ぎなさったかね?」
三郎は頷いてみせた。「滞りなく、な。だが、なかなか嫁を取ろうとせんので、周りも困っておるのだ。長屋にいる時に好きなおなごの話でも聞かなかったかの?」
「旦那に女?知らないねぇ……」一人が首を捻れば、「まるっきり聞いた事が無いよ」と別の女も口を添えた。
「藤の花に関係してるかも知れないのだが……」三郎は食い下がった。
藤の花と聞き、おかみさんの一人があ、と言う顔をする。
「……そういや、藤の花を大事に持っていた事があったっけ……洗濯物を旦那に渡しに行った時にね、部屋の中でじっと見つめてたのさ。『好きな女にでも貰ったかい?』って聞いた覚えが……」
パッと喜色を表した三郎「それだ!誰から貰ったか話したか?」
「あの旦那は人を煙に巻くのが上手いからね」
「いや、何でも良い。言った事を教えてくれ」彼は必死で頼み込む。
「う~…ん」おかみさんは眉を寄せ思い出そうとしている。「……えっと……そうそう、確か花魁道中で日本ーの太夫に貰ったと……でも、まさかねぇ……。ほら、長崎屋さんが襲われた時ぐらいだったからね。長屋に帰らなかったのは。花街に行く様子も無かったし。しばらく家に籠もっていた時もあったぐらい……」
ちょっと美人な女が口を挟んだ「そうだったよね、旦那は白粉臭い事なんて一度も無かったよ。まさか男色か?なんてみんなで笑ったくらいさ」
「あんたは自分になびかないと、みんな男色にしちまうんだろ」
きゃあきゃあ笑い合うおかみさん達に礼を言うと、三郎は長屋を後にした。
殿が漏らした“太夫に貰った”……多分これが真相に違いない。
人は自分の隠している思いを、ふと誰かに言いたくなる物だ。
冗談に紛らせて、つい、本当の事を言ったのだろう……
殿は吉原の太夫に惚れていたのか?
そして、二年前の吉原一の太夫と言えば……
朴念仁の三郎でさえも、名前は知っていた。
白雪太夫……!
ハッと思い出した事があった。
そうだ、内藤外記が懸想し、手に入れる為山城屋と組んで……
そういえば、死んだ伊織があの時、殿が血相変えて飛び出して行ったと……
三郎は頭を抱えてしまった。
時既に遅く、白雪太夫は、どこぞに落籍されたと言う話だったからである。
そんな噂を聞いてから、もうそろそろ一年にはなるだろう。
身請けされたら、行方は分からないし、分かった所で、当然旦那付き。他人の物。
……どうしようも無い。
殿と白雪太夫を繋ぐ藤の花が、どのような意味を持つかは分からないが……
藤棚を見つめる主君のあの顔……
……あれは、まだ太夫を忘れかねているのだろう……
「……平介、殿の幸せは……飛び去ってしもうた……誰ぞの手の中にの……」
彼は肩を落とし、ため息をついた
がっかりして、屋敷に戻った三郎の様子がおかしい事に右近が気づいた。
「……何かあったか?」
意気消沈した三郎は訳を話した。「…藤の花にまつわる女を探しそんなに殿が忘れかねている女なら何とかして屋敷に入れようと思ったが……」
右近も同じように慨嘆する。「相手がよりによって白雪太夫……それも身請けされているとあってはのぅ……」
「……殿の気持ちが変わるのを待つしかあるまいな……」
右近はため息をついた。「……嫁取りや側室の話はまだ先か……」
「ご家老達がさぞかしうるさかろうな……」
二人は顔をみあわせ、相憐れんだ。
案の定、外記に代わった江戸家老が、ガミガミと三郎と右近を叱りつけた。
「先代様の三回忌がもうすぐ来る。殿のお気持ちもこれで、ようやく一段落されよう。さればよいか、お側に、もそっと麗しい侍女でも置け!……全くお主らのようなむさ苦しい男と、婆さんばかりでは……!早よう殿にはお世継ぎを上げて頂けねばならんのに」
かつて、家を継ぐ前の主君が、自嘲して言った『藩主などは所詮種馬よ』の言葉が二人の脳裏を掠めた。
「……怖れながら……そのような事、殿にはまだ申し上げられませぬ」平伏した三郎は家老に言った。
「何だと?」
「殿は以前『藩主は種馬』だと不満を漏らされ申した。先代の殿もそれでお悩みになられ、結局は藩を二分する千代菊丸様の件に繋がったのでござる」
右近も言葉を添えた。「殿は今、目一杯気を張っておられます。そこにお世継ぎ、お世継ぎと新たな重圧をかけたくはございませぬ。ご家老とて、やいのやいの言われてその気になりますか?まして殿は誠実なお方……殿御自身が気に入り、その気にならねば……」気軽に花を摘むような方ではない、と言った。
男としては誠実で申し分ないのだが、彼は、一国の主なのである。
だが、人の性格はそうそう変わらない。
家老は困惑顔。「……うーむ。困ったのぅ……」
三郎は再度伏して願った。「ご家老、どうかもう暫し、殿に時間を」
右京がかつて暮らしていた小網町の長屋に赴いた三郎は、彼の友人だと名乗って携えた土産物をおかみさん連中に渡した。
「長屋の人に渡して欲しいと頼まれたでの」
喜び懐かしがったおかみさん達。
「相変わらず、松永の旦那は優しいねぇ。それでお家は無事に継ぎなさったかね?」
三郎は頷いてみせた。「滞りなく、な。だが、なかなか嫁を取ろうとせんので、周りも困っておるのだ。長屋にいる時に好きなおなごの話でも聞かなかったかの?」
「旦那に女?知らないねぇ……」一人が首を捻れば、「まるっきり聞いた事が無いよ」と別の女も口を添えた。
「藤の花に関係してるかも知れないのだが……」三郎は食い下がった。
藤の花と聞き、おかみさんの一人があ、と言う顔をする。
「……そういや、藤の花を大事に持っていた事があったっけ……洗濯物を旦那に渡しに行った時にね、部屋の中でじっと見つめてたのさ。『好きな女にでも貰ったかい?』って聞いた覚えが……」
パッと喜色を表した三郎「それだ!誰から貰ったか話したか?」
「あの旦那は人を煙に巻くのが上手いからね」
「いや、何でも良い。言った事を教えてくれ」彼は必死で頼み込む。
「う~…ん」おかみさんは眉を寄せ思い出そうとしている。「……えっと……そうそう、確か花魁道中で日本ーの太夫に貰ったと……でも、まさかねぇ……。ほら、長崎屋さんが襲われた時ぐらいだったからね。長屋に帰らなかったのは。花街に行く様子も無かったし。しばらく家に籠もっていた時もあったぐらい……」
ちょっと美人な女が口を挟んだ「そうだったよね、旦那は白粉臭い事なんて一度も無かったよ。まさか男色か?なんてみんなで笑ったくらいさ」
「あんたは自分になびかないと、みんな男色にしちまうんだろ」
きゃあきゃあ笑い合うおかみさん達に礼を言うと、三郎は長屋を後にした。
殿が漏らした“太夫に貰った”……多分これが真相に違いない。
人は自分の隠している思いを、ふと誰かに言いたくなる物だ。
冗談に紛らせて、つい、本当の事を言ったのだろう……
殿は吉原の太夫に惚れていたのか?
そして、二年前の吉原一の太夫と言えば……
朴念仁の三郎でさえも、名前は知っていた。
白雪太夫……!
ハッと思い出した事があった。
そうだ、内藤外記が懸想し、手に入れる為山城屋と組んで……
そういえば、死んだ伊織があの時、殿が血相変えて飛び出して行ったと……
三郎は頭を抱えてしまった。
時既に遅く、白雪太夫は、どこぞに落籍されたと言う話だったからである。
そんな噂を聞いてから、もうそろそろ一年にはなるだろう。
身請けされたら、行方は分からないし、分かった所で、当然旦那付き。他人の物。
……どうしようも無い。
殿と白雪太夫を繋ぐ藤の花が、どのような意味を持つかは分からないが……
藤棚を見つめる主君のあの顔……
……あれは、まだ太夫を忘れかねているのだろう……
「……平介、殿の幸せは……飛び去ってしもうた……誰ぞの手の中にの……」
彼は肩を落とし、ため息をついた
がっかりして、屋敷に戻った三郎の様子がおかしい事に右近が気づいた。
「……何かあったか?」
意気消沈した三郎は訳を話した。「…藤の花にまつわる女を探しそんなに殿が忘れかねている女なら何とかして屋敷に入れようと思ったが……」
右近も同じように慨嘆する。「相手がよりによって白雪太夫……それも身請けされているとあってはのぅ……」
「……殿の気持ちが変わるのを待つしかあるまいな……」
右近はため息をついた。「……嫁取りや側室の話はまだ先か……」
「ご家老達がさぞかしうるさかろうな……」
二人は顔をみあわせ、相憐れんだ。
案の定、外記に代わった江戸家老が、ガミガミと三郎と右近を叱りつけた。
「先代様の三回忌がもうすぐ来る。殿のお気持ちもこれで、ようやく一段落されよう。さればよいか、お側に、もそっと麗しい侍女でも置け!……全くお主らのようなむさ苦しい男と、婆さんばかりでは……!早よう殿にはお世継ぎを上げて頂けねばならんのに」
かつて、家を継ぐ前の主君が、自嘲して言った『藩主などは所詮種馬よ』の言葉が二人の脳裏を掠めた。
「……怖れながら……そのような事、殿にはまだ申し上げられませぬ」平伏した三郎は家老に言った。
「何だと?」
「殿は以前『藩主は種馬』だと不満を漏らされ申した。先代の殿もそれでお悩みになられ、結局は藩を二分する千代菊丸様の件に繋がったのでござる」
右近も言葉を添えた。「殿は今、目一杯気を張っておられます。そこにお世継ぎ、お世継ぎと新たな重圧をかけたくはございませぬ。ご家老とて、やいのやいの言われてその気になりますか?まして殿は誠実なお方……殿御自身が気に入り、その気にならねば……」気軽に花を摘むような方ではない、と言った。
男としては誠実で申し分ないのだが、彼は、一国の主なのである。
だが、人の性格はそうそう変わらない。
家老は困惑顔。「……うーむ。困ったのぅ……」
三郎は再度伏して願った。「ご家老、どうかもう暫し、殿に時間を」
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