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第6章 現実の世界 ~カミナギ ふたつ~

第217話 夕暮れの激闘

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 ガシャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアァァァァンッ……!!

 数多の星瞬く夜空の如き、アイアノアの心象空間が砕け散った。
 何も無い空間に亀裂が走り、割れ砕けた後の穴が力任せに開いた。

 エルトゥリンがこれは敵襲だと言った。
 異世界の仲間と邂逅かいこうを果たす三月に、問答無用で「敵」は襲い掛かる。

「あっ、あぁっ……!?」

 驚いて尻餅をつく目の前を、大きな物体が通り過ぎていく。
 真っ黒で長大な何かが、高速で走る列車のように空中を走り抜けていった。
 乱入してきたそれに三月は見覚えがあった。

「ああああああああああああああぁぁぁぁっ……!?」

 アイアノアの悲痛な金切り声が上がった。
 心象空間の壁を壊し、真っ先にそいつが狙いをつけたのはアイアノアだった。
 この不可思議な領域を展開しているのが彼女だと見抜いたからだ。

 一瞬で距離を詰めると牙だらけの大顎おおあごを上下にがばっと開き、アイアノアの全身を丸呑みにするばかりに荒々しく噛みついた。
 実体が無いはずの彼女の身体なのに、そんなことは全く意に介さない。

 瞬間、世界概念の加護の異空間はその有り様を維持できなくなる。
 すっと空気が溶けるように世界が入れ替わり、夕闇に沈むクレーター湖の姿へと戻ってしまった。

「姉様ぁぁぁーッ……!!」

 上空を振り仰ぎ、エルトゥリンは絶叫する。

 響き渡った声の先、夜の暗黒に落ち行く茜色の空へ巨大なそれは飛翔した。
 獰猛な赤い目を爛々らんらんと光らせ、ざわめく銀色のたてがみから生える一対の角は鹿のように枝分かれをしている。
 大蛇を思わせる長く太い胴体はびっしりと黒い鱗に覆われ、全体像は夕日を受けて漆黒にてらてらと輝いていた。
 鋭い牙で、かっさらってきたアイアノアを今まさに噛み砕こうとしている。

「うっ、うぅぅ……! あぁぁ……!」

 怪物の真っ暗な口の中でアイアノアは苦しげに喘ぐ。

 上下から押し潰さんとする牙から身を守り、両手を広げて風の護りを発生させる。
 気流の球体が全身を包み込み、容赦の無い応力を防ごうとした。

 魔法の力で必死の抵抗を試みるが、怪物の顎の力はあまりにも強すぎた。
 必殺の間合いで食らいつかれ、これほどの圧力を掛けられてはどうしようもない。
 冷酷な殺気に包まれ、アイアノアは自分の最期を悟った。

──私はこれまでね……。エルトゥリン、後はお願い……。

「ミヅキ様ぁっ! 今は逃げて下さいましっ! 無事に落ち延びてっ、どうか使命に打ち勝ってッ……! 必ずや願いをっ、叶えて下さいッ……!」

 両の瞳を閉じて、アイアノアは三月に声が聞こえるように叫んでいた。
 無情にも風の護りを抜かれ、怪物の牙が突き刺さり、潰されてしまう瞬間まで。
 全身全霊で訴えた。

 今はまだ敵と戦うべき時ではない。
 無事に逃げ切り、異世界渡りとタイムリープの旅を再開せねばならない。
 次元を越えて届けた数々の鍵をたずさえ、願いのために使命の全うを祈る。

「きっと、お掴み下さいっ……! ミヅキ様のっ、希望の未来をっ……」

 ぱちんっ、と泡沫ほうまつが弾けて消えるように。
 アイアノアはあえなく散った。

 四散する光の欠片が、夕暮れの空にさらりさらりと流れていく。
 巨大な怪物の顎が完全に閉じられ、口腔内に咥え込まれていたアイアノアは無残に消滅してしまった。

「あ、あぁっ、そんな……。アイアノアが、食われちまった……」

 吹きすさぶ風で揺れる湖面の上、変わらず浮遊したまま三月は呆然と言った。

 現実世界に引き戻され、装着した防毒マスクの息苦しさを感じる余裕も無い。
 自分の呼吸音が妙に大きく聞こえる感覚の中、戦々恐々と、恐るべき存在が滞空している空を見上げている。

 ピイィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィッ……!!

 今し方、アイアノアをすり潰した口を開け、空に居る巨大なる怪物は怪鳥けちょうのような咆哮ほうこうを上げた。
 空気を震わせる甲高い鳴き声に心身が萎縮する。
 そいつは威風堂々と、ちっぽけな三月をじっと睨み下ろしていた。

「うっ……。い、痛ッ……!」

 冷熱の不明な激痛がいきなり脇腹に走った。
 三月の着ている上着のポケットが瞬時に膨張し、爆発するみたいに破裂した。
 何が起こったのか視線をやると、ポケットは跡形も無く吹き飛んでいて、衣服に穴が開いてしまっている。

 このポケットにはお守りを入れていたはずだ。
 夕緋のくれた黒瑪瑙くろめのう
 何か悪いものが近付くと熱くなって知らせてくれる。
 もしかしたら、魔除けの役目も担っていてくれていたのかもしれない。

 それがどこにも見当たらなかった。
 代わりに、破裂した上着や衣服に食い込んだ小さな黒い破片が無数に見えた。
 どう見てもそれは、魔除けの黒瑪瑙が砕け散った痕であった。

「夕緋の、お守りが……」

 脇腹に走る痛みなど感じている暇は無かった。

 上空から睨みを利かせる怪物に、今にも命を奪われても何らおかしくはない。
 三月は、突如現れた「敵」と相対した。
 夕緋のお守りが粉々に砕けてしまうほどの良からぬ者、──襲撃者の正体とは。


りゅうだ……! 俺が、災害が起きたあの時に見た、黒い龍……!」


 赤黒い夕闇の空にとぐろを巻くように鎮座するのは長大な身体の龍であった。
 長い髭を風になびかせ、肥大した四本の足は威嚇するみたいに空を掻いている。
 その体躯はゆうに全長200メートル以上はあり、胴回りは巨木の丸太より太く、さながら空飛ぶ大怪獣だ。

 どこから現れたのか、異世界と再会する三月たちを急襲してきた。
 夕空の黒龍、現実世界には有り得べからざる光景であるのは言うまでもない。

 三月はこの黒い龍を見たことがあった。
 神巫女町大災害かみみこちょうだいさいがい発生の折り、噴火する御神那山おみなさん火山雷かざんらいの中を飛んでいた。
 あの時に見た黒龍と、おそらくは同一の存在に違いない。

 神霊の獣、龍。
 神話や伝説の中に登場する想像上の生き物で、神の使いとも神そのものとも言われている。

 今、それが目の前に居て、先へ導こうとしてくれていたアイアノアを喰った。
 敵の存在を明らかにしようとしたアイアノアを消滅させてしまった。
 孤独な帰郷先で、せっかく再会出来た仲間を奪われ怒りが湧く。

「アイアノアをやりやがったな……! だけどっ、そうだってのに俺は……!」

 憤る声は震え、重くのし掛かる恐怖に心が塗り潰される。
 天空からの刺し貫く視線にとらわれ、身体が動かない。

 恐ろしい。
 根源的な恐れに支配され、心身が怯えで固まってしまっている。
 シキの強い心が今すぐ欲しい。
 弱い人間の自分が恨めしかった。

「くそっ、動けよ、俺……! このままじゃ、単にやられて終わりだ……!」

 水上に尻餅をつき、腰を抜かした身体は自分のものなのに言うことを聞かない。
 冗談みたいに膝をがくがくと揺らし、動けないどころか気を失いそうだ。

「ミヅキ!」

 朦朧もうろうとする意識に凜とした声が差し込まれる。
 そのお陰でかろうじて気絶するのは免れた。

「逃げて! 私が時間を稼ぐから」

 三月に浴びせられる黒龍の視線を遮って、もう一人の仲間の背が空中にふわりと浮かび上がった。

 姉を消滅させられ、怒りに燃えるエルトゥリン。
 神懸かった尋常ならない化け物と対峙しても物怖じ一つしない。
 彼女もまた、人知を超えた常識外れの力を発動させる。

「──星形成ほしけいせい光輝天体こうきてんたい!」

 巫女装束の仁王立ちする格好で、内なる星の加護を解放する。
 力強い気流がエルトゥリンから発生し、ごうごうと大気を震撼させた。

 白銀色のセミショートの髪がセミロング程度にまで伸びて、毛先から青白い炎のような光を発生させている。
 胸が青の輝きを強く放ち、エルトゥリンは燃える闘気を気勢きせいと共に纏った。
 瞳の中に青と緑の銀河色ぎんがいろの火を点け、星の加護は真なる姿を現した。

「エルトゥリンっ、それは星の加護の……!」

 呟く三月を置いて、勇ましい背中の彼女は戦いに赴く。
 一気に拡大した闘気を身体中から噴射して推進力に変えた。

「はぁぁぁぁぁッ!」

 空間を蹴り、爆発的な加速をしながら黒龍に向かって飛ぶ。
 発生した凄まじい推進力を、握った右の拳に凝縮する。
 激突する勢いでエルトゥリンは黒龍の下顎に強烈な拳打を放った。

 ドンッ、という大玉の花火が破裂したかと思う音が轟き、流星殴りゅうせいうちの名の殴打おうだが黒龍の下顎をまともにかち上げる。
 拳を覆ったオーラが、実体無き肉体から確かな攻撃を龍へと伝えていた。

「えぇいッ!」

 龍の上空に昇ったエルトゥリンは、星の闘気を爆発させて急激に反転する。
 急降下の姿勢を取り、次は降り落ちる星そのものに鋭い蹴りを繰り出していく。

 白衣の袖を振り乱し、捲れ上がった緋袴の裾から強靱な脚が覗いた。
 文字通りの流星キックをお見舞いするその様子は、まさしく宇宙を切り裂く破壊のシューティングスターであった。

 ドゴォッ!!

 突き刺さるかのような蹴りが脳天に直撃し、さすがの龍もわずかによろめく。
 湖面側に離脱しながら、エルトゥリンは後ろを見て体勢を入れ替える。
 乱れる前髪の隙間から、見開いた青い瞳が龍の顔面を捉えていた。

 振り向きざまに撃ち放つ。
 即座に眼球に収束される星の加護のオーラ量はとてつもないの一言。
 エルトゥリンの目をレンズ代わりにして撃ち出す、極大出力レーザー砲。

「吹き飛べぇッ!」

 星芒光閃せいぼうこうせん星明ほしあかり!

 ビカッ、と目を開けていられないほどの閃光が夕空を満たす。
 星々の優しい輝きとはあまりにかけ離れた光の大奔流が、エルトゥリンの瞳から照射された。
 星の加護必殺の破壊光線である。

 膨大な出力の光線は真下から龍の頭部に炸裂し、余剰の光は徐々に暗くなる夜空に昼間の如き眩しい柱を上げた。
 遠方からでもよく見えるくらいに高く高く。
 黒龍は顔面のみならず、巨体の半分以上を光に飲まれかれている。

「よくも姉様をッ! ミヅキにだって指一本触れさせないッ!」

 叫ぶエルトゥリンの攻勢はまだ終わらない。
 乱れる袖から両手を前に突き出し、龍の全身至る箇所に狙いを定めた。
 同時に、クレーター湖上空に隙間無くひしめき合う光の球が無数に生まれた。

 龍と一定の距離を置いて規則正しく並び、一斉突撃を待つのは光の弾体。
 数多の星々の終わりなき衝突、星屑撃ほしくずうちの連打である。

 龍の顔に、角に、手に、足に、胴体に、尾に。
 光の球は一斉に龍へ突き刺さってそれぞれが大爆発をあげた。
 次々と空に新しい光を浮かべて弾体を生成し、突撃と爆砕を繰り返させる。

 ドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドッ……!!

 龍の黒い巨躯が見えなくなるほど、真っ白な爆発が空を埋め尽くしていた。
 伝わってくる衝撃も相当なもので、波立って荒れる湖面の上で三月は唖然あぜんとした顔で空の戦いに見入っていた。
 目の前で起こっている出来事がとてもではないが信じられない。

「あ、あぁもう……。な、何だってんだよ……?!」

 現実の世界で、神巫女町大災害の時に現れた黒い龍と、巫女装束をまとったエルフが空を飛び回って激闘を繰り広げている。
 ど派手に過ぎる異次元バトルにはまるで現実味がない。

「俺は、夢でも見てるのか?! ここはっ、現実の世界なんだぞっ……!」

 三月は泣きそうな表情をして、極度の緊張から顔をひくひく痙攣けいれんさせていた。

 きっと心のどこかで思い込んでいたのだろう。
 ここは現実の世界なのだから、おかしなことは何も起こらない。

 空想の絵空事は、不思議な異世界だからこそ起こるのだと高をくくっていた。
 そんな思い込みは目の前の戦いにあっけなく一蹴された。

「ちくしょう、腰が抜けて立てない……。こんなところで死にたくねえよ……」

 命の危機に直面している。
 流れ弾の一つでも当たれば自分は死ぬ。

 そう思うと恐怖のあまり、腰に力が入らず立ち上がれない。
 異世界の自分はあんなにも勇敢だったのに、単なる人間でしかない自分の弱さはどうにもならなかった。
 動かない身体がただただ情けない。

「……嘘ッ! 効いてないっ!?」

 目を見張り、エルトゥリンは驚愕した。

 連続する光の爆発の中、黒い影がゆらりゆらりと動いている。
 赫々かっかくたる弾幕を突き破り、龍はおぞましげな顔をぬぅっと突き出した。

 その頭の両角がバチバチッと放電している。
 目まいさえ覚えるくらい強烈な殺気が満ち満ちた。

「い、いけないッ!」

 エルトゥリンは咄嗟に星屑撃ちによる攻撃を中断した。
 両膝を曲げ、腕で頭を庇う防御態勢を取る。

 星の加護を守護する光のカーテン、星風ほしかぜがオーロラのようにたなびき広がった。
 物理攻撃だろうが魔法攻撃だろうが、あらゆる実害を跳ね返す障壁である。
 しかし。

「あぁぅッ!?」

 短い悲鳴がエルトゥリンの口から零れた。

 龍は枝分かれした両角から縦横じゅうおうに雷を放った。
 天龍の稲光いなびかり龍雷りゅうらいである。

 バリバリバリバリバリバリバリバリッ……!!

 空を打ち払う神々しいいかずちが、星風の防御をいとも簡単に貫通してしまった。
 エルトゥリンはまともに感電し、焦がされるに済まず痺れさせられ、全身の自由を奪われる。

 黒煙を上げ、巨大な龍に比べて小さな人形みたいに無残に吹き飛ばされた。
 巫女装束の袖と裾をひらひら揺らし、無抵抗に空に投げ出されたエルトゥリンに向かって、龍は胴体をうねらせて泳いだ。

 姉のアイアノアにそうしたように、妹のエルトゥリンにも同じ運命を辿らせる。
 大きな顎を悠然ゆうぜんと開け、獲物を捕食するままにばくんと食らいついた。

「ああっ! エ、エルトゥリンまで……!」

 三月はまだ湖面上から動けず、絶望を顔に浮かべた。

 星の加護を使うエルトゥリンは向かうところ敵無しだったはずなのに。
 突如現れた黒い龍に歯が立たず、アイアノアと同じく喰われてしまった。
 もう三月を守ってくれる味方はいない。

「うぅっ、駄目ね……。この仮初かりそめの身体じゃ……」

 但し、エルトゥリンはまだやられてはいなかった。

 口腔内にとらわれ、飲み込まれていないだけだが、持ち前の剛力で噛み砕こうとする牙を手で受け止め、かろうじて持ちこたえていた。
 上半身はまだ動くが、潰されて見えない下半身にはもう感覚が無い。

 このままでは龍のこの牙でばらばらにされ、飲み下されて終わりである。
 絶体絶命の危機に陥り、エルトゥリンは驚きを隠せなかった。

──このドラゴンは私たちの精神体を直接攻撃することができる……! ただ強いだけじゃない! 霊魂の世界に干渉できる存在だなんて……!

「姉様、ごめんっ……」

 苦しげに呻き、しんがりの務めを充分に果たせなかったことを悔やむ。
 顔を横に向けると僅かに開いた龍の唇から外が見えた。
 すっと息を吸い込み、逃げられないでいる三月に向けて声限りに叫ぶ。

「ミヅキィッ! 早く、行ってぇッ! あなたが世界を、救いなさぁいッ!!」

「だ、だけど、エルトゥリンが……!」

 悲壮な叫び声は三月に届いた。
 エルトゥリンの声に答えようとするが、もうこちらの声は届いてはいない。
 もう一度、最後の力を振り絞った叫びが聞こえた。

「……早くぅっ、行けぇぇぇぇぇぇェェーッ……!!」

 最早、エルトゥリンは持たない。
 戦いに敗れ、戦士としての彼女の声は覚悟を決めていた。

 三月を逃がすことができなければエルトゥリンの犠牲は無駄になる。
 だから一刻も早く立ち上がり、この死地から脱出しなければならない。

「くそっ! 動けよっ、俺の足っ! いつまでぶるぶる震えてるんだよっ!」

──人間の俺はなんて弱いんだ……! 地平の加護を取ったら俺には何にも残りゃしないっ! せっかくアイアノアとエルトゥリンが助けてくれたってのに……! 俺がこんな体たらくじゃ駄目だっ! 世界なんて救えっこないっ!

 気持ちだけは負けていないつもりだった。
 それなのに。

 いつまでもがたがたと怯え、言うことを聞かない自分の足腰を叩く。
 力任せに殴りつけているのに、その痛みの感覚すら鈍い。
 身体がもうすでに諦め、ここで命を落とす運命を受け容れているかのような錯覚を感じた。

──頼むっ、誰か俺に力を貸してくれっ! 俺を、助けてくれっ……! せめて、ここから逃げ出せるだけの勇気をっ! 朝陽っ、日和っ……! 夕緋っ……!

 助けを求める先も女の子ばかりだと、また何とも情けない気持ちにもなる。
 だが、この際何だっていい。
 亡くした恋人、眠りに着いた女神、嘘をついて置いてきた婚約者。
 誰でもいいから救いの手を差し伸べて欲しかった。

 彼女らはここにはいない。
 三月を救えない。

 それはわかっている。
 だったらば、手は一つしか残されていない。

「──助けてくれ、地平の加護っ! お願いだっ、雛月ぃっ……!」

 追い詰められた三月が最後に縋ったのは、自らの内に備わる加護の力。
 ここ、この窮地きゅうちにおいて、やはり頼れるのは自分しかいないのだ。

 共助も公助も無くした今、自助を行うより他はない。
 天は自らをたすくる者をたすく──。

「熱っつ……!」

 そう思った瞬間、頭の奥が一層熱くなり、ちかちかと目の奥に光が走った。
 不思議と心が安らぎ、胸にわだかまっていた恐怖の感情が幾らか和らいだ。
 情動が抑えられ、固まっていた身体が柔軟性を取り戻す。

「たっ、立てるぞっ! 足が動くっ! いっ、行けるッ……!」

 表情にも空元気の笑みが復活した。
 そうして、三月は弾力性のある水面に両足を付けて何とか立ち上がった。

 何故かはわからない。
 ただ、刹那せつなの活力がみなぎった今の間にここを離れなければ。
 エルトゥリンの覚悟を汲み、迷わずきびすを返すと岸へと走って向かった。

「……いい子、ミヅキ」

 三月の気配がようやく遠ざかっていくのを感じ、エルトゥリンは静かに呟いた。
 目の前には今にも閉じそうな龍の上顎が迫っている。
 もうこれ以上は、圧倒的な力の咀嚼そしゃくを止められそうにない。

 すべてを決心したエルトゥリンはゆっくりまぶたを閉じ込んだ。
 彼女の身体は激しく点滅を始め、内側に溜め込んでいた星の加護のエネルギーを一気に解放する。

 カッ──!!

 自らの身を灼きながら、制御不能な力を外向きに放出した。
 エルトゥリン自身が光の弾丸となり、ゼロ距離から極大の星屑撃ちを放つ。
 その瞬間、夕闇の空はこれまでで最も強い光で溢れかえった。

 ドガアアアアアアアアアアアアァァァァァァァァァァァァァーッ……!!

「うおおッ……!?」

 不意に背後で光が発散され、突き飛ばされたかと思うほどの衝撃がやって来た。
 ほぼ同時に、相当な質量の爆弾が炸裂したかのような破裂音が鳴り響く。
 あまりの衝撃に三月は堪えきれず吹き飛ばされ、水の上に転倒してしまった。

 浮遊魔法の反発力がクッション代わりになってくれたから良かったものの、地面や壁面、固定物と衝突していれば無事では済まなかっただろう。
 音響障害に内耳ないじの痛みを感じつつ、三月は身体を起こして振り向いた。

 ピイィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィッ……!!

 龍の甲高い咆哮がもう一度空に響き渡った。
 空高くを見上げれば、龍の口で大爆発が起こっている。

 裂けるほど顎を開け、火炎を噴くみたいに爆散する輝きを吐き出していた。
 そのたけり声には驚愕と苦悶が入り交じる。
 大げさなくらい鎌首を後ろ向きに反らし、長大な胴体をよじらせ苦しんでいる。

 そんな龍の周りを、ばらばらに散った光の欠片が舞っていた。
 光に混じって巫女装束の切れ端が風に流れて消えるのが見える。

「あ、ああ……」

 それらを目の当たりにし、三月はすべてを悟った。
 顔を伏せ、エルトゥリンのことを心底から痛々しく思う。

「そんな……。じ、自爆したってのかよ、エルトゥリン……!」

 星の加護の彼女は自爆を実行したのだ。
 自らの意思で内からぜた。

 龍に一矢報いるため、戦士の矜持きょうじを尽くすため。
 何よりも三月を逃がすために。

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