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第5章 神々の異世界 ~天神回戦 其の弐~
第195話 蜘蛛の禍津日ノ神1
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「みーづーきー! みーづーきー!」
その夜のことだ。
みづきと日和が夕餉の時を過ごしていた只中《ただなか》に。
母家の戸を外からどんどんと叩く者が居る。
大声でみづきを呼びながら。
閉じられた横開きの戸の向こう、唐突な訪問者に顔を見合わせるみづきと日和。
二人の間の囲炉裏の火がぱちぱちと音を立て、妙な沈黙を生んでいた。
「……ちょっと見てくるわ」
鳴り止まない音と声に誰が来たのかを想像しながらみづきは立ち上がり、土間に下りて戸に近付いていく。
結構強めに叩かれていて、戸はがたがたと揺れていた。
と、寄ってきたみづきの気配を察したのか、あれほど騒々しく戸を叩いたり呼び声をあげたりしていたのに、扉の向こうはぱたりと静かになった。
ますます怪訝に眉をひそめつつも、みづきは戸の引き手に手を掛けた。
「あれ、誰もいない」
がららっ、と勢いよく戸を開くもそこには誰もいない。
外はすっかりと日が落ち、薄暗い空の下、母家から漏れる光でみづきの影が地に落ちているだけだった。
戸から顔を出して辺りをきょろきょろと見渡したが、訪問者の姿は無かった。
不思議に思うものの、みづきは戸を閉めて日和の所に戻ってくる。
「んん? 誰か来ておったのではなかったのか?」
「いや、それが外には誰もいなかった──」
日和にそう答えようとした矢先、再び背後から。
「みーづーきー! みーづーきー! みーづーきー!」
さっきと同じように、みづきを呼ぶ声と戸を叩く音が再開された。
みづきと日和は目を丸くして驚く。
もうこれがいたずらの類いなのは明白だ。
無言で踵を返し、急いで戸に近付く。
すると、戸の向こう側に何かが動く気配を感じた。
聞こえないくらいの音で、走り去る足音も聞こえた。
だから、もう一度戸を開け放つももうそこには何もいない。
「……」
念のため、外を確認してから何も言わずにそっと戸を閉めた。
そして、今度は息を殺して戸のすぐ近くに身を屈めると、引き手に手を掛けていつでも開けられるように構えて好機を窺う。
雰囲気を察した日和も押し黙った。
と、少しもしない内に、扉の向こうに何かの気配がやって来るのがわかった。
シキの鋭敏な神経を研ぎ澄ませば聞こえてくる、戸を叩こうと手を振り上げる空気の音、声をあげようと吸い込む息の音。
「みーづーきー! みーづー……!」
またまたと再開される訪問者の奇行の頃合いを見計らう。
声をあげる瞬間と、戸を叩こうとする瞬間に合わせて素早く戸を横に開いた。
「きゃーっ!?」
素っ頓狂な叫び声があがり、急に開かれた扉の外から小さな茶色の物体が転がり込んできた。
よっぽど勢いを付けて叩こうとしていたのか、そのままごろごろと回転しながら母家の中を突き進み、土間の上がり框のあたりに激突して止まる。
「あいててて……。──あっ?」
頭を下にしてひっくり返った格好の茶色の物体は、自分を囲んで白々しく注がれるみづきと日和の視線に気付く。
そうして、ばつが悪そうに愛想笑いを浮かべて誤魔化すのであった。
「ひ、髭は剃らなくていいぞ……」
もぞもぞと起き上がるのは喋る狸だ。
狸は狸でも、化け狸のまみおである。
みづきと冥子の試合の後、一度は自分の世界に帰っていたが、そのまま何もせず何も言わないでいることにたまりかね、こうしてやってきた。
無用ないたずらをしてしまうのは、化け狸の性か、まみおの照れ隠しか。
「あ、あのな……。そのな……」
黒い円らな目で見上げ、まみおは視線をみづきと日和の顔の間を行ったり来たりさせている。
手を揉み揉み、ごにょごにょと口ごもる。
みづきはにっと笑って日和を見やる。
それを受ける日和も眉尻を下げて、ため息まじりに笑っていた。
改めてみづきは、まみおを見て得意げな笑顔で言うのだった。
「まみお、約束は守ったぜ! お前の仇は取った! ちゃんと見ててくれたか?」
その言葉にびくんと身体を震わせるまみお。
やはり、みづきは自分と約束をしていて、それを見事に果たしたのだ。
あやふやで一方的に結ばれた契約だったものの、神であるまみおに約束の履行は重大な意味合いを持って表れる。
いや、それよりも先にみづきが成し遂げたことに対する思いが込み上げた。
「みづきに日和様っ……!」
ひときわ大きな声をあげ、まみおは土間に器用に正座して神妙に頭を下げる。
両手を膝の上で握り込み、顔を上げずにぐちゃぐちゃの胸の内を吐き出した。
「おいら、正直言って今回のことっ! 謝ったらいいのかお礼を言ったらいいのかわからねえっ! おいら、頭が悪いから本気でみづきの言ったりやったりしたことがどういうことなのかがわからねえんだっ……!」
まみおはみづきとの試合に負けた。
見返してやろうと多々良に勝負を挑み、冥子にも手酷く負けた。
全部自分の責任だったうえ、みづきと冥子の試合は関知の外だったのに。
「でもっ、今日の試合を見て、おいら何だか気分がすっげえスカッとしたんだ! そんな義理もねえのに、命を助けてくれたうえ、仇まで取ってくれてよ……」
そう話しながら、まみおは胸が熱くなるのを感じていた。
みづきが冥子に勝ったとて、まみおに何かの利が発生する訳でもない。
しかし、みづきの行動と結果、それが自分のためであったと言葉にされると言いようもなく心が揺さぶられた。
まみおの目から涙が零れ、ぽたぽたと土間に落ちる。
「嬉しかったんだ……。お先真っ暗な弱っちいおいらに、みづきと日和様が肩入れしてくれたことが……。今までずっとお師匠様と二人でやってきて、他に誰も縋る相手も居なくて、こんなあったけえ気持ちになったのは初めてなんだ……」
まみおにあるのは山や村を守ろうとする神の矜持だけだ。
ちっぽけだが、立派な神としての務めを全うしようとしていた。
しかし、今回のことでとうとうまみおに限界が訪れてしまった。
「敗北の眠りにつきそうになったとき、おいらもう本当に駄目だって思った……。山や里を守れなくなるのが悔しくて、恐ろしかったんだ……」
神の順位を末席まで落とし、向こう見ずな闘志で勝てない相手に挑み、長い眠りにつかなければならない憂き目にあった。
まみおは神に成り、まだ百年と経たない若い神で、狸として生を終え、神としても終わり、非業の結末を迎え入れるしかなかった。
それの何と恐ろしく、悲しいことであったことか。
まみおは地面に両手を付けると、もっと深く頭を下げた。
「みづきっ、日和様っ! 今までの数々の無礼、本当にすまねえっ! この通り、許してくれぇっ! そんでそんでっ、本当に本当にありがとうっ……!」
あふれ出る涙を拭いもせず、ウゥーッと唸り声みたいな泣き声をあげている。
これまで奔放にいたずらばかりして、一度も自らを省みることもなかったまみおの本気の謝罪だった。
心からの感謝の言葉だった。
足下で小さく丸まるまみおを見て、みづきは笑みを漏らして言った。
「礼なんていいよ。謝る必要もないぞ。俺がそうしたかっただけなんだからな」
ちらりと、また日和に目配せする。
「日和もいいよな?」
「う、うむ……。些細な遺恨は忘れよう、もう顔を上げるのじゃ、まみお殿」
心に引っ掛かるものは無くはないが、日和はまみおを許すことにした。
度々と嫌がらせを受けた日和にも今回のことは色々と思うところがあったから。
ぼろぼろになって、間近で眠りに着こうとするまみおの有様を見て。
それを嘲笑い、ただ仕方がないと諦めるのを由としないみづきに感化されて。
「みづきぃぃ……。日和様ぁ……」
顔を上げるまみおは目をうるうるとさせていた。
色んな感情をごちゃまぜにした顔は涙と鼻水でびしょびしょだ。
と、急にまみおは情けない顔をきりっと引き締めて叫ぶ。
赦《ゆる》され、救われてばかりでは神の名が廃るというもの。
「いいやっ! それじゃあおいらの気が済まねえっ! この化け狸のまみお、これでも神の端くれだっ! 何か恩返しをしてやりてぇが、生憎とおいらには持つものなんて何にもありやしねえ! あるのは馬の糞の饅頭くらいだ!」
さっと差し出すのは見るに堪えない汚物の塊だ。
化かされてそれを食わされそうになった日和は悲鳴をあげ、夕餉時には相応しくない物を出されてさしものみづきも怒鳴り声。
「そんなものいらんわっ! その汚い物、さっさと引っ込めろっ!」
「うひっ!? じゃあ、じゃあ……」
手品みたいに汚物をどこかへしまい込み、あたふたする弱り顔のまみお。
そして、一つ。
みづきが望んでいた願いを思い出した。
「あっ、そうだ! みづき、おめえ、日和様の昔のこと知りたがってたよなっ!? 日和様に雷落とされて話が途中になってたけど、みづきとのあの約束はまだ果たせてなかったよなっ!?」
まみおは必死の様子で日和を見上げてまくし立てた。
「日和様がその昔に戦った悪い蜘蛛の神様の話だっ! 天神回戦が始まるきっかけにもなったっていう伝説を、是非とも話してやってもらいてぇ!」
「む……」
日和にとってそれは苦い思い出でしかなく、渋い表情がそれを物語っている。
あの時は蜘蛛の神の名を口にしようとしたまみおと、それに関心を示そうとするみづきに日和は怒りを露わにした。
結局と蜘蛛の名はわからず仕舞いで、話は途中で終わってしまっていた。
「日和様! 頼むっ! 図々しいのは百も承知だっ! どうかどうかみづきの願いを叶えてやってくれっ! おいらにも約束を果たさせてもらいてぇんだっ!」
地面に頭突きする勢いでもう一度頭を下げる。
土間の土に額を擦りつけ、まみおはみづきのためを思って精一杯日和に願った。
「よ、宜しくお願い致しまぁすっ!」
母家の中にまみおの声が響き、そして一瞬しんと静まる。
少しの間の後、みづきは頭を下げたまま縮こまっているまみおから、難しい顔をしている日和に視線を移した。
「……日和、俺からも頼むよ。まみおの言う通りにしてやってくれないか。日和の昔話を聞きたいってのは、今も変わらない俺の願いだよ」
「日和様ぁっ、頼むぅっ! この通りだぁっ!」
みづきの声に被さって、まみおはさらに大声をあげた。
ぶるぶると震える茶色の毛玉な姿から、悲壮なる気持ちを醸し出す。
「ええいっ、そう何度も頭を下げるでない! わかったっ、わかったのじゃっ!」
殊勝なまみおと、みづきの縋る目に耐えられなくなった風で日和は天井を仰ぐ。
ひとしきりの大声の後、力が抜けたみたいにだらんと肩を落とした。
「みづきには根負けじゃ……。まみお殿にも約束の掟を持ち出されては断るに断り切れんのじゃ……。ましてや、その約束を交わしたのが私のシキともなれば、尚更のことというものじゃな」
もう今は蜘蛛のことを聞かれても憤懣が爆発することはない。
とうとう、日和は観念したとばかりに盛大なため息をついた。
「……ふぅぅ、よかろうなのじゃ。おぬしらの願い、しかと聞き届けよう……」
その言葉を聞き、まみおはがばっと嬉しそうに顔を上げた。
すぐにみづきとも顔を見合わせる。
「ほ、ほんとかっ!? 日和様っ、恩に着るぅっ! みづき、やったなぁ!」
「ああ、まみおのお陰だよ。──ありがとなっ!」
飛んで起き上がったまみおとみづきはがっちりと握手を交わす。
自分のことのように喜ぶまみおに、みづきの顔にも笑みがこぼれた。
と、そんな二人のやけに通じ合った様子をじと目に見ながら日和は。
「まぁったく、やれやれなのじゃ……。しっかし、みづきよ、私の昔話なぞ聞いてどうするつもりじゃ? 今更も今更な、とうの昔に済んだ話じゃぞ……?」
悪い気こそ湧かないものの、やはり何故みづきがそんなことを知りたがるのかはわからない。
懐疑的な気持ちがある一方、願いを叶えてやらねばという使命感が先立った。
さらに、あの昔にあった出来事は日和にも思うところがあった。
「まぁ、あの戦いが天神回戦の始まりとなった理由、と言われれば否定はできぬのじゃがな……。かの邪神たる彼奴めとの戦いは熾烈を極め、神々の世を大いに乱れさせてしまったのは間違いないのじゃ……。怒りに我を忘れた私と夜宵の神威が、人間の下界だけでなく、数多の神々にまで極めて悪い影響を与えてしまったことは深く悔い改めねばならぬことなのじゃ……」
それを語る日和の顔は暗い。
天神回戦が無かった頃、神の世界で度々と繰り返されていた日和と夜宵対、彼の悪神の争いは、他の神や天の住人に並ならぬ迷惑を掛けてしまっていた。
「神の世を憂う太極天がお始めになった天神回戦は、言わば第二第三の邪神を生み出さぬための息抜きでもある。無限の大地の力を分け与え、神同士の争いを戒め、相互に均衡を守るのは、すべて彼奴のような不倶戴天の悪を誕生させぬため……」
それは秩序と安穏を求めた神の世界の意思であった。
神々の総意を以て、荒ぶる災いの神の新生を許さじとする。
日和は改めてみづきを見上げ、その目を見つめて言った。
「みづき、おぬしにはシキとして誕生した折に私から話したことじゃ。野放図の輩から土地を守るために私と夜宵が戦っていたという話を」
シキのみづきがこの世界に招かれた際に日和から聞かされた話だ。
あのときは半ば上の空で、夢の中の話なんて真面目に聞いたところで仕方がないと高をくくっていたというのに。
今は聞きたくて聞きたくて、前のめりになるのを抑えられない。
「彼奴めは、彼の悪神は──」
そして、その時は訪れる。
日和は忌むべき者の名を口に出した。
「太古の人らが遺した悪意の集塊、蜘蛛の禍津日ノ神、──八咫!」
名前を声にしただけなのに、一瞬空気が冷えた気がした。
錯覚でも何でもなく、みづきは本当に背筋がぞくりと寒くなるのを感じた。
「それが、かつて私と夜宵が戦いを繰り広げた仇敵の名じゃ」
秘密の情報は開示された。
禍津日とは災厄の神霊の意である。
黄泉の穢れより生まれ、世の災いを司る。
重々しく日和が言ったそばから、みづきの中の地平の加護は凄まじい勢いで情報を受け取り始める。
頭に流れ込んでくる濁流の如くの日和の記憶は、みづき自身にも蜘蛛の神の存在をはっきりと認識させた。
矢継ぎ早に日和の過去と、現在進行中の洞察対象の照合が始まり、完了した。
その結果にみづきは息を呑む。
──確定だ。パンドラの地下迷宮の奥に居た、あの蜘蛛の着物の男……。あいつの名は八咫──! 夕緋の近くに居るのは日和の宿敵、蜘蛛の悪神だった……!
伝説のダンジョン深奥に眠るみづきの故郷の廃墟にて。
異世界より来たる邪悪なる神は今も静かに潜伏している。
日和が戦った蜘蛛の悪神と、蜘蛛の着物の男の存在は一致した。
やはりと。
それが判明したのである。
『不愉快な奴め……! 許しなくおれを覗くとは命がいらんと見えるな』
『死ね、無礼者が』
「う……」
打倒した伝説の魔物、雪男ことミスリルゴーレムに残る思念を通して垣間見た。
正体不明の精神攻撃を受けた記憶が甦り、みづきは苦悶に顔を歪める。
青白い不気味な顔と鋭い目線、心の深くまで届く悪声を思い出して震えた。
あいつこそが、八咫であったのだ。
「争いをやめられぬ神々を満たし、避け得ぬ戦いを統制すれば、八咫の如き悪神が生まれ落ちることは無し……。絶対の悪が存在しなければ、聖なる神同士の戦争は起こらない……。太極天はそうお考えになったのじゃよ」
そこまで言うと、日和は目を閉じ、腕組みをして鼻で深い息を吐いた。
限りない恵みの力を持つ大神が、すべての神を慈愛の心で救おうとしたがために始まった天神回戦。
法則と秩序で管理された、勝者のみが救われる神々の争い。
救いの掌からこぼれ落ちる、まみおのような小さな神が居ることも知りながら。
すべては新たな邪神を降誕させないために、今日も明日も、悪趣味な憂さ晴らしを続けている。
確かに、その武の祭典の始まりの原因が日和にあるのなら、神々の世界中を揺るがした責任が無いとは言えない。
日和からしても、過去に何があったか説明を求められれば、邪険にして答えないというのも不義理に当たるかもしれない。
「こうなっては仕方がない。飯でも食べながら、ゆるりと話してやろうなのじゃ」
日和は目を開けると困り顔でみづきを見て、笑顔を浮かべるのであった。
みづきもそれに頷き、願いを叶える手伝いをしてくれたまみおに笑って言った。
「そう言えば夕飯の支度の途中だったな。ついでだ、まみおも食ってけよ」
「えっ、いいのっ?!」
そんなつもりはなかったが、夕餉のお呼ばれに嬉しそうな顔をするまみお。
「但し、ちゃんと手を洗ってからだぞ! 汚い物を触ってそのままだろ!」
眉尻を上げたみづきが釘を刺すのは、さっき差し出された汚物のことだ。
そんな汚れた手で食事をするのは許容できないし、そもそも外を走り回っている狸の足で家に上がられるのもたまらなかった。
しかし、今度は日和が汚い物でも見るみたいな目でみづきを見ている。
「みづき、おぬしもじゃぞ。そのまみお殿と熱く手を握り合っておったじゃろ」
「あっ、そういえばさっき握手しちまった! まみおっ、俺をはめたな!」
「それはわざとじゃねえよぉっ!」
思わずまた化かされたのかと睨むみづきと、それは心外だと泡を食うまみお。
騒々しい珍客なれど、奇跡の未来を勝ち取る一助となったちっぽけな神を加え、物語の鍵に迫る夜宴がささやかながらも開かれる。
太古の昔より、先祖たちが代々語り継いできた神話の真実に触れるため。
奇しくもそれは、当事者たる女神本人によって語られることになった。
その夜のことだ。
みづきと日和が夕餉の時を過ごしていた只中《ただなか》に。
母家の戸を外からどんどんと叩く者が居る。
大声でみづきを呼びながら。
閉じられた横開きの戸の向こう、唐突な訪問者に顔を見合わせるみづきと日和。
二人の間の囲炉裏の火がぱちぱちと音を立て、妙な沈黙を生んでいた。
「……ちょっと見てくるわ」
鳴り止まない音と声に誰が来たのかを想像しながらみづきは立ち上がり、土間に下りて戸に近付いていく。
結構強めに叩かれていて、戸はがたがたと揺れていた。
と、寄ってきたみづきの気配を察したのか、あれほど騒々しく戸を叩いたり呼び声をあげたりしていたのに、扉の向こうはぱたりと静かになった。
ますます怪訝に眉をひそめつつも、みづきは戸の引き手に手を掛けた。
「あれ、誰もいない」
がららっ、と勢いよく戸を開くもそこには誰もいない。
外はすっかりと日が落ち、薄暗い空の下、母家から漏れる光でみづきの影が地に落ちているだけだった。
戸から顔を出して辺りをきょろきょろと見渡したが、訪問者の姿は無かった。
不思議に思うものの、みづきは戸を閉めて日和の所に戻ってくる。
「んん? 誰か来ておったのではなかったのか?」
「いや、それが外には誰もいなかった──」
日和にそう答えようとした矢先、再び背後から。
「みーづーきー! みーづーきー! みーづーきー!」
さっきと同じように、みづきを呼ぶ声と戸を叩く音が再開された。
みづきと日和は目を丸くして驚く。
もうこれがいたずらの類いなのは明白だ。
無言で踵を返し、急いで戸に近付く。
すると、戸の向こう側に何かが動く気配を感じた。
聞こえないくらいの音で、走り去る足音も聞こえた。
だから、もう一度戸を開け放つももうそこには何もいない。
「……」
念のため、外を確認してから何も言わずにそっと戸を閉めた。
そして、今度は息を殺して戸のすぐ近くに身を屈めると、引き手に手を掛けていつでも開けられるように構えて好機を窺う。
雰囲気を察した日和も押し黙った。
と、少しもしない内に、扉の向こうに何かの気配がやって来るのがわかった。
シキの鋭敏な神経を研ぎ澄ませば聞こえてくる、戸を叩こうと手を振り上げる空気の音、声をあげようと吸い込む息の音。
「みーづーきー! みーづー……!」
またまたと再開される訪問者の奇行の頃合いを見計らう。
声をあげる瞬間と、戸を叩こうとする瞬間に合わせて素早く戸を横に開いた。
「きゃーっ!?」
素っ頓狂な叫び声があがり、急に開かれた扉の外から小さな茶色の物体が転がり込んできた。
よっぽど勢いを付けて叩こうとしていたのか、そのままごろごろと回転しながら母家の中を突き進み、土間の上がり框のあたりに激突して止まる。
「あいててて……。──あっ?」
頭を下にしてひっくり返った格好の茶色の物体は、自分を囲んで白々しく注がれるみづきと日和の視線に気付く。
そうして、ばつが悪そうに愛想笑いを浮かべて誤魔化すのであった。
「ひ、髭は剃らなくていいぞ……」
もぞもぞと起き上がるのは喋る狸だ。
狸は狸でも、化け狸のまみおである。
みづきと冥子の試合の後、一度は自分の世界に帰っていたが、そのまま何もせず何も言わないでいることにたまりかね、こうしてやってきた。
無用ないたずらをしてしまうのは、化け狸の性か、まみおの照れ隠しか。
「あ、あのな……。そのな……」
黒い円らな目で見上げ、まみおは視線をみづきと日和の顔の間を行ったり来たりさせている。
手を揉み揉み、ごにょごにょと口ごもる。
みづきはにっと笑って日和を見やる。
それを受ける日和も眉尻を下げて、ため息まじりに笑っていた。
改めてみづきは、まみおを見て得意げな笑顔で言うのだった。
「まみお、約束は守ったぜ! お前の仇は取った! ちゃんと見ててくれたか?」
その言葉にびくんと身体を震わせるまみお。
やはり、みづきは自分と約束をしていて、それを見事に果たしたのだ。
あやふやで一方的に結ばれた契約だったものの、神であるまみおに約束の履行は重大な意味合いを持って表れる。
いや、それよりも先にみづきが成し遂げたことに対する思いが込み上げた。
「みづきに日和様っ……!」
ひときわ大きな声をあげ、まみおは土間に器用に正座して神妙に頭を下げる。
両手を膝の上で握り込み、顔を上げずにぐちゃぐちゃの胸の内を吐き出した。
「おいら、正直言って今回のことっ! 謝ったらいいのかお礼を言ったらいいのかわからねえっ! おいら、頭が悪いから本気でみづきの言ったりやったりしたことがどういうことなのかがわからねえんだっ……!」
まみおはみづきとの試合に負けた。
見返してやろうと多々良に勝負を挑み、冥子にも手酷く負けた。
全部自分の責任だったうえ、みづきと冥子の試合は関知の外だったのに。
「でもっ、今日の試合を見て、おいら何だか気分がすっげえスカッとしたんだ! そんな義理もねえのに、命を助けてくれたうえ、仇まで取ってくれてよ……」
そう話しながら、まみおは胸が熱くなるのを感じていた。
みづきが冥子に勝ったとて、まみおに何かの利が発生する訳でもない。
しかし、みづきの行動と結果、それが自分のためであったと言葉にされると言いようもなく心が揺さぶられた。
まみおの目から涙が零れ、ぽたぽたと土間に落ちる。
「嬉しかったんだ……。お先真っ暗な弱っちいおいらに、みづきと日和様が肩入れしてくれたことが……。今までずっとお師匠様と二人でやってきて、他に誰も縋る相手も居なくて、こんなあったけえ気持ちになったのは初めてなんだ……」
まみおにあるのは山や村を守ろうとする神の矜持だけだ。
ちっぽけだが、立派な神としての務めを全うしようとしていた。
しかし、今回のことでとうとうまみおに限界が訪れてしまった。
「敗北の眠りにつきそうになったとき、おいらもう本当に駄目だって思った……。山や里を守れなくなるのが悔しくて、恐ろしかったんだ……」
神の順位を末席まで落とし、向こう見ずな闘志で勝てない相手に挑み、長い眠りにつかなければならない憂き目にあった。
まみおは神に成り、まだ百年と経たない若い神で、狸として生を終え、神としても終わり、非業の結末を迎え入れるしかなかった。
それの何と恐ろしく、悲しいことであったことか。
まみおは地面に両手を付けると、もっと深く頭を下げた。
「みづきっ、日和様っ! 今までの数々の無礼、本当にすまねえっ! この通り、許してくれぇっ! そんでそんでっ、本当に本当にありがとうっ……!」
あふれ出る涙を拭いもせず、ウゥーッと唸り声みたいな泣き声をあげている。
これまで奔放にいたずらばかりして、一度も自らを省みることもなかったまみおの本気の謝罪だった。
心からの感謝の言葉だった。
足下で小さく丸まるまみおを見て、みづきは笑みを漏らして言った。
「礼なんていいよ。謝る必要もないぞ。俺がそうしたかっただけなんだからな」
ちらりと、また日和に目配せする。
「日和もいいよな?」
「う、うむ……。些細な遺恨は忘れよう、もう顔を上げるのじゃ、まみお殿」
心に引っ掛かるものは無くはないが、日和はまみおを許すことにした。
度々と嫌がらせを受けた日和にも今回のことは色々と思うところがあったから。
ぼろぼろになって、間近で眠りに着こうとするまみおの有様を見て。
それを嘲笑い、ただ仕方がないと諦めるのを由としないみづきに感化されて。
「みづきぃぃ……。日和様ぁ……」
顔を上げるまみおは目をうるうるとさせていた。
色んな感情をごちゃまぜにした顔は涙と鼻水でびしょびしょだ。
と、急にまみおは情けない顔をきりっと引き締めて叫ぶ。
赦《ゆる》され、救われてばかりでは神の名が廃るというもの。
「いいやっ! それじゃあおいらの気が済まねえっ! この化け狸のまみお、これでも神の端くれだっ! 何か恩返しをしてやりてぇが、生憎とおいらには持つものなんて何にもありやしねえ! あるのは馬の糞の饅頭くらいだ!」
さっと差し出すのは見るに堪えない汚物の塊だ。
化かされてそれを食わされそうになった日和は悲鳴をあげ、夕餉時には相応しくない物を出されてさしものみづきも怒鳴り声。
「そんなものいらんわっ! その汚い物、さっさと引っ込めろっ!」
「うひっ!? じゃあ、じゃあ……」
手品みたいに汚物をどこかへしまい込み、あたふたする弱り顔のまみお。
そして、一つ。
みづきが望んでいた願いを思い出した。
「あっ、そうだ! みづき、おめえ、日和様の昔のこと知りたがってたよなっ!? 日和様に雷落とされて話が途中になってたけど、みづきとのあの約束はまだ果たせてなかったよなっ!?」
まみおは必死の様子で日和を見上げてまくし立てた。
「日和様がその昔に戦った悪い蜘蛛の神様の話だっ! 天神回戦が始まるきっかけにもなったっていう伝説を、是非とも話してやってもらいてぇ!」
「む……」
日和にとってそれは苦い思い出でしかなく、渋い表情がそれを物語っている。
あの時は蜘蛛の神の名を口にしようとしたまみおと、それに関心を示そうとするみづきに日和は怒りを露わにした。
結局と蜘蛛の名はわからず仕舞いで、話は途中で終わってしまっていた。
「日和様! 頼むっ! 図々しいのは百も承知だっ! どうかどうかみづきの願いを叶えてやってくれっ! おいらにも約束を果たさせてもらいてぇんだっ!」
地面に頭突きする勢いでもう一度頭を下げる。
土間の土に額を擦りつけ、まみおはみづきのためを思って精一杯日和に願った。
「よ、宜しくお願い致しまぁすっ!」
母家の中にまみおの声が響き、そして一瞬しんと静まる。
少しの間の後、みづきは頭を下げたまま縮こまっているまみおから、難しい顔をしている日和に視線を移した。
「……日和、俺からも頼むよ。まみおの言う通りにしてやってくれないか。日和の昔話を聞きたいってのは、今も変わらない俺の願いだよ」
「日和様ぁっ、頼むぅっ! この通りだぁっ!」
みづきの声に被さって、まみおはさらに大声をあげた。
ぶるぶると震える茶色の毛玉な姿から、悲壮なる気持ちを醸し出す。
「ええいっ、そう何度も頭を下げるでない! わかったっ、わかったのじゃっ!」
殊勝なまみおと、みづきの縋る目に耐えられなくなった風で日和は天井を仰ぐ。
ひとしきりの大声の後、力が抜けたみたいにだらんと肩を落とした。
「みづきには根負けじゃ……。まみお殿にも約束の掟を持ち出されては断るに断り切れんのじゃ……。ましてや、その約束を交わしたのが私のシキともなれば、尚更のことというものじゃな」
もう今は蜘蛛のことを聞かれても憤懣が爆発することはない。
とうとう、日和は観念したとばかりに盛大なため息をついた。
「……ふぅぅ、よかろうなのじゃ。おぬしらの願い、しかと聞き届けよう……」
その言葉を聞き、まみおはがばっと嬉しそうに顔を上げた。
すぐにみづきとも顔を見合わせる。
「ほ、ほんとかっ!? 日和様っ、恩に着るぅっ! みづき、やったなぁ!」
「ああ、まみおのお陰だよ。──ありがとなっ!」
飛んで起き上がったまみおとみづきはがっちりと握手を交わす。
自分のことのように喜ぶまみおに、みづきの顔にも笑みがこぼれた。
と、そんな二人のやけに通じ合った様子をじと目に見ながら日和は。
「まぁったく、やれやれなのじゃ……。しっかし、みづきよ、私の昔話なぞ聞いてどうするつもりじゃ? 今更も今更な、とうの昔に済んだ話じゃぞ……?」
悪い気こそ湧かないものの、やはり何故みづきがそんなことを知りたがるのかはわからない。
懐疑的な気持ちがある一方、願いを叶えてやらねばという使命感が先立った。
さらに、あの昔にあった出来事は日和にも思うところがあった。
「まぁ、あの戦いが天神回戦の始まりとなった理由、と言われれば否定はできぬのじゃがな……。かの邪神たる彼奴めとの戦いは熾烈を極め、神々の世を大いに乱れさせてしまったのは間違いないのじゃ……。怒りに我を忘れた私と夜宵の神威が、人間の下界だけでなく、数多の神々にまで極めて悪い影響を与えてしまったことは深く悔い改めねばならぬことなのじゃ……」
それを語る日和の顔は暗い。
天神回戦が無かった頃、神の世界で度々と繰り返されていた日和と夜宵対、彼の悪神の争いは、他の神や天の住人に並ならぬ迷惑を掛けてしまっていた。
「神の世を憂う太極天がお始めになった天神回戦は、言わば第二第三の邪神を生み出さぬための息抜きでもある。無限の大地の力を分け与え、神同士の争いを戒め、相互に均衡を守るのは、すべて彼奴のような不倶戴天の悪を誕生させぬため……」
それは秩序と安穏を求めた神の世界の意思であった。
神々の総意を以て、荒ぶる災いの神の新生を許さじとする。
日和は改めてみづきを見上げ、その目を見つめて言った。
「みづき、おぬしにはシキとして誕生した折に私から話したことじゃ。野放図の輩から土地を守るために私と夜宵が戦っていたという話を」
シキのみづきがこの世界に招かれた際に日和から聞かされた話だ。
あのときは半ば上の空で、夢の中の話なんて真面目に聞いたところで仕方がないと高をくくっていたというのに。
今は聞きたくて聞きたくて、前のめりになるのを抑えられない。
「彼奴めは、彼の悪神は──」
そして、その時は訪れる。
日和は忌むべき者の名を口に出した。
「太古の人らが遺した悪意の集塊、蜘蛛の禍津日ノ神、──八咫!」
名前を声にしただけなのに、一瞬空気が冷えた気がした。
錯覚でも何でもなく、みづきは本当に背筋がぞくりと寒くなるのを感じた。
「それが、かつて私と夜宵が戦いを繰り広げた仇敵の名じゃ」
秘密の情報は開示された。
禍津日とは災厄の神霊の意である。
黄泉の穢れより生まれ、世の災いを司る。
重々しく日和が言ったそばから、みづきの中の地平の加護は凄まじい勢いで情報を受け取り始める。
頭に流れ込んでくる濁流の如くの日和の記憶は、みづき自身にも蜘蛛の神の存在をはっきりと認識させた。
矢継ぎ早に日和の過去と、現在進行中の洞察対象の照合が始まり、完了した。
その結果にみづきは息を呑む。
──確定だ。パンドラの地下迷宮の奥に居た、あの蜘蛛の着物の男……。あいつの名は八咫──! 夕緋の近くに居るのは日和の宿敵、蜘蛛の悪神だった……!
伝説のダンジョン深奥に眠るみづきの故郷の廃墟にて。
異世界より来たる邪悪なる神は今も静かに潜伏している。
日和が戦った蜘蛛の悪神と、蜘蛛の着物の男の存在は一致した。
やはりと。
それが判明したのである。
『不愉快な奴め……! 許しなくおれを覗くとは命がいらんと見えるな』
『死ね、無礼者が』
「う……」
打倒した伝説の魔物、雪男ことミスリルゴーレムに残る思念を通して垣間見た。
正体不明の精神攻撃を受けた記憶が甦り、みづきは苦悶に顔を歪める。
青白い不気味な顔と鋭い目線、心の深くまで届く悪声を思い出して震えた。
あいつこそが、八咫であったのだ。
「争いをやめられぬ神々を満たし、避け得ぬ戦いを統制すれば、八咫の如き悪神が生まれ落ちることは無し……。絶対の悪が存在しなければ、聖なる神同士の戦争は起こらない……。太極天はそうお考えになったのじゃよ」
そこまで言うと、日和は目を閉じ、腕組みをして鼻で深い息を吐いた。
限りない恵みの力を持つ大神が、すべての神を慈愛の心で救おうとしたがために始まった天神回戦。
法則と秩序で管理された、勝者のみが救われる神々の争い。
救いの掌からこぼれ落ちる、まみおのような小さな神が居ることも知りながら。
すべては新たな邪神を降誕させないために、今日も明日も、悪趣味な憂さ晴らしを続けている。
確かに、その武の祭典の始まりの原因が日和にあるのなら、神々の世界中を揺るがした責任が無いとは言えない。
日和からしても、過去に何があったか説明を求められれば、邪険にして答えないというのも不義理に当たるかもしれない。
「こうなっては仕方がない。飯でも食べながら、ゆるりと話してやろうなのじゃ」
日和は目を開けると困り顔でみづきを見て、笑顔を浮かべるのであった。
みづきもそれに頷き、願いを叶える手伝いをしてくれたまみおに笑って言った。
「そう言えば夕飯の支度の途中だったな。ついでだ、まみおも食ってけよ」
「えっ、いいのっ?!」
そんなつもりはなかったが、夕餉のお呼ばれに嬉しそうな顔をするまみお。
「但し、ちゃんと手を洗ってからだぞ! 汚い物を触ってそのままだろ!」
眉尻を上げたみづきが釘を刺すのは、さっき差し出された汚物のことだ。
そんな汚れた手で食事をするのは許容できないし、そもそも外を走り回っている狸の足で家に上がられるのもたまらなかった。
しかし、今度は日和が汚い物でも見るみたいな目でみづきを見ている。
「みづき、おぬしもじゃぞ。そのまみお殿と熱く手を握り合っておったじゃろ」
「あっ、そういえばさっき握手しちまった! まみおっ、俺をはめたな!」
「それはわざとじゃねえよぉっ!」
思わずまた化かされたのかと睨むみづきと、それは心外だと泡を食うまみお。
騒々しい珍客なれど、奇跡の未来を勝ち取る一助となったちっぽけな神を加え、物語の鍵に迫る夜宴がささやかながらも開かれる。
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